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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
突然の別れは奇跡の出会いの始まり
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第28話 世界女王の選んだスポーツメーカー(5)

(エクス……パフォーマ……、専属契約……)

 新ブランド「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」に、ヒーストンが名乗りを上げている。その衝撃は、サウザンドシティでのレースを終えてから時間を追うごとに、ヴァージンの中で大きくなっていった。だが、一方でそれは、ヴァージンに火を付けたと言っても過言ではなかった。

(今の状況は、イクリプスとスポンサー契約と結ぶときと同じって思えばいい)

 ヴァージンの脳裏には、シューズメーカー・イクリプスとの契約をシェターラと争った時の記憶が蘇っていた。その時は、向こうから決定する時期が決められており、結果としてはそのレースを前にシェターラが離脱することになったのだが、その日のためにシェターラに対抗心を燃やしていたのだった。

(私は、ヒーストンさんに勝ち続ければいい)

 5000mのスターと言われ続けているヴァージンと、10000mのスターと言っていいヒーストン。おそらく、エクスパフォーマがそれだけを比べるとすれば、ほぼ互角と言ってよかった。しかし、ヒーストンが5000mでも実力を上げていると考えると、ヴァージンはこの先5000mと10000mの両方でヒーストンに勝たなければならない。

 そのレースこそ、8月の世界競技会に違いない。ヴァージンは、そう踏んでいた。


 そして、その答えは意外にもレース後数日で明らかになった。アカデミーでのトレーニングを終え、ワンルームマンションに戻ってくると、すぐにガルディエールから電話がかかってきた。

「久しぶりに世界記録の瞬間に、私も興奮したよ。この前言っていたおもりは、だいぶ取れてきたようだな」

「そうですね……。私もあのタイムを見たときに、久しぶりに達成感を覚えました」

 セントリックの問題でヴァージンの足に負担を掛けていたはずのおもりは、実際のところ何も変わっていないはずだった。それでも、ガルディエールからその言葉が出ても、ヴァージンの足にそれを感じることはなかった。

「もしかしたら……、エクスパフォーマの話が出て、私がだいぶ楽になったのかも知れないですね……」

「おそらく、私もそう思っている。そんな君に、少し伝えなければいけないことがあって、今日は電話したんだ」

(伝え……なければいけない話……)

 ヴァージンは、ガルディエールの言葉に気を留めた。前向きな話ではなさそうだ。ヴァージンは、唾を飲み込んで、ガルディエールの言葉を待つことにした。

「この前話してくれた、エクスパフォーマとの専属契約の話に、何か動きがあったんですか」

「そうだな……。君が興味を示してくれた次の日から、エクスパフォーマの担当者にいろいろ問い合わせたんだ」

「どういう話があったんですか?」

「そうだな……。向こうの担当者も君の実力は評価してくれたんだ。ブランクがあっても、レースでそれを気にしないくらいのタイムが出せる君は、かなりの実力があるって」

 電話の向こうで、ガルディエールが淡々と話している。その口調が、エクスパフォーマとの専属契約を提案した日の時と比べ、その熱がトーンダウンしたようにヴァージンには思えた。

「ただ……、君がエクスパフォーマとの専属契約を結ぶには、いくつか壁があることも分かったんだ。あまり気にして欲しくないから、君に知って欲しいところしか言わないけど、いいかい?」

「そうですね……。ぜひ聞かせてください」

 ヴァージンは、電話ごしに聞こえるガルディエールの言葉に、より耳を傾けた。

「まず、強力なライバルが現れた。いつものことだから、おそらく本人から聞いていると思うが」

「それは、もしかしてこの前レースで一緒になった、ヒーストンさんですか?」

「そう。メルファナ・ヒーストンだ。ヒーストンの代理人は、私より1ヵ月も早く、話を申し込んだそうだ」

「1ヵ月も早く……、ヒーストンさんは専属契約に動いていたんですね」

「そういうことだ。だが、君もその話を聞いておかしいと思わないか?」

 突然、ガルディエールが低い口調に変わり、ヴァージンはもう一度唾を飲み込んだ。

「ガルディエールさん……。どうしておかしいのか、私にはちょっと分からないです……」

「君にその話をしたのは、ほんの何日か前だろ。私も、それより前にエクスパフォーマが陸上に参入することは知らなかった。だが、ヒーストンの代理人はそれよりも早く情報を手に入れている」

「それはつまり、どういうことですか……」

「最初から、エクスパフォーマは女子のモデルをヒーストンに決めているのかも知れない。私と君は、その中でヒーストンに勝たなければならないんだ」

「はい」

 ガルディエールは、重苦しい言葉でヴァージンに伝えた。ため息は聞かせないようにとガルディエールは必死にこらえているようだったが、ヴァージンには気配だけでそれが分かってしまった。

「つまり、向こうは君ではなく、ヒーストンを世界女王と認めている。5000mでも10000mでも上位に君臨することになったヒーストンの牙城は、想像以上に高いのかも知れない」

「そう……、なんですか……」

 ヴァージンの言葉も、次第にガルディエールと同じように低くなっていく。ヴァージンは、一瞬だけ脳裏にエクスパフォーマの力強いロゴを思い浮かべるが、その残像がすぐに消えてしまった。

 それでも、ヴァージンは電話を持ったまま首を左右に振り、すぐにこう言い返した。

「でも、私はヒーストンさんに勝ち続けるつもりです。前も、スポンサー契約でライバルと争うことになりましたが、いつものように一つ一つのレースで勝ち続けていけばいいじゃないですか」

「そうだな……。ただ、向こうとしては、世界競技会が終わったときには内定を出したいそうだ。つまり……」

「次のレースが勝負になる」

「そういうことだ。世界競技会で、ヒーストンも5000mと10000mの両方にエントリーしているみたいだから、そこで両方勝てば、最初から目を付けていたヒーストンに代われるかも知れない」

「やってみます」

 ヴァージンの目には、赤い髪を照らしながらヴァージンにぴったり併走するヒーストンの姿がくっきりと映し出されていた。ヒーストンの見せる力強い走りに負けないくらいのストライドで、ヴァージンも新たなライバルに挑んでいるのだった。

(ヒーストンさんは、たしかに両方の種目で安定した走りを見せている。でも、世界女王としてエクスパフォーマと専属契約を結ぶのは、この私なんだから……!)


 ガルディエールとの電話は、そこで切れた。

 だが、ガルディエールが他にも何かを言いたそうにしていたことを、ヴァージンははっきりと分かっていた。


 数日後、午前中のトレーニングを終えたヴァージンを、マゼラウスは手招きした。この日のヴァージンは、インターバルを置いて400mの走り込みを中心に行っていたが、そこでのパフォーマンスは決して悪くなかった。それにも関わらず、マゼラウスが悩んでいるような表情を見せたことに、ヴァージンは気にせざるを得なかった。

「コーチ、どうしたんですか?」

「いや……、ちょっとお前に伝えて欲しいと、代理人に言われたもんだからな……」

「ガルディエールさんに……、ですか」

 ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは「付いてこい」と一言だけ残して彼女を2階の小会議室に案内した。


 だが、席についたヴァージンを待っていたのは、メモを見ることなしに言ったマゼラウスの短い一言だった。

「ヴァージンよ……。率直に答えて欲しい。今のお前に、ここは必要か?」

 マゼラウスの目は、決して泣いているわけではなく、ヴァージンに何かを語りかけているようだった。しかも、それは自らの意思ではなく、何かに抵抗するような目つきをしていたのだった。

 ヴァージンは、すぐに口を開こうとした。しかし、そこから言葉が出てこなかった。そんなヴァージンをじっと見つめたマゼラウスは、やや言葉を溜めてこう言った。

「おそらく、お前が何も言わないということは……、分かっているな……」

 ヴァージンは、力なく首を縦に振った。マゼラウスのその言葉で、やっとヴァージンの口が開いた。

「分かっています。エクスパフォーマと専属契約を結ぶということは……、セントリックと、セントリック・アカデミーを……完全に見捨てないといけないということですか……」

 ヴァージンは、そう言って小会議室の床を見た。もうすぐ入って6年になるアカデミーの床を、ヴァージンは何度も歩き続けてきた。その足にかかる力が、ヴァージンの積み重ねてきた記録になっていたのだった。

「ヴァージンの言う通りだ。同業他社になるセントリックとの契約を完全に切らなければ、専属契約は結べない。それは、私とヴァージンにとって、とても大きな問題だ」

「はい」

 ヴァージンは、小さくうなずいた。それと同時にマゼラウスもうなずいた。

「お前がエクスパフォーマへの移籍を望むなら、私は……、腹を決めている」

 マゼラウスは、静かにそう言い終えて、頭を下げた。

「コーチも……、私と一緒にここを去るわけですね……」

「そうだ。だが、それが高い壁だ……」

「高い……、壁……。まさか……」

 ヴァージンは、はっきりとうなずきながら、何年もトラックの土を共にしたマゼラウスにそう返した。

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