第4話 アカデミーの仲間入り(1)
「本当か!?」
横開きのドアを勢いよく開けたヴァージンの持っていた記念品に、父のジョージは驚いた。激闘を勝ち抜いたヴァージンの手には金の楯が握りしめられており、ジョージの目に映る楯はとても眩しく見えた。
「私、ジュニア大会で勝ったの!」
「それで、アスリートの道も切り開いたわけだな」
「勿論……!」
指を立てて感情を表現するヴァージンの目の前で、楯に目を輝かせていたジョージは目を細めて、突然腕組みを始めた。
「私は、まだ心配だがな……。面倒は誰が見てくれるんだ?」
「マゼラウスという、すっごく有名なコーチ。来週アメジスタにやって来て、父さんにも話がしたいって」
「有名だかどうか……、アメジスタにいたら分からんけどな。でも、それだけ有名なコーチだとしたら、練習メニューとか厳しいものじゃないか?」
「それは、私にだって分からない。とりあえず、この1週間はジュニア大会で疲れた体を休めるために、軽くストレッチと、2日に一度5000m1本と400m5本走りなさい、だって」
「ほぅ……」
そもそも、現役のアスリートが皆無と言ってもよいアメジスタでは、その練習メニューが「体を休める」ためのものであるかどうかすら分からない。これまで、学校の陸上部で部員全員向けの練習メニューで体力づくりをしていたヴァージンにとっては、今回専属のトレーナーがついてようやく自分に合った練習メニューが組めるということになる。
ただ、まだヴァージンの走りをほとんど見たことがない中での、青田買いであることには変わらないが……。
「あ、そうだ。ヴァージンに渡さなければならないものがあったな」
「どうしたの、父さん」
ジョージは、書斎に駆けて行き、両手にぎっしりと書類を抱えて戻ってきた。その中には、症状らしきものもあった。
「卒業証書と、お前の最後の通知表だ」
「えっ……。うそ……、卒業式の日を間違えてて覚えてた。これ、学校のみんなに私が優勝したこと伝えられないじゃん……」
「そんな記憶力の悪さだから、数学とか化学とか成績1なんだよなー……」
ヴァージンは、玄関横にあるカレンダーを見て肩を落とした。予選の前日に式は行われていた。
さらに悪いことに、経済的に遅れているアメジスタでは通信手段が全くなく、日刊新聞すら発売されていない。「ワールド・ウィメンズ・アスリート」など、国外発行の雑誌に頼らなければ、ジュニア陸上大会でのヴァージンのニュースすらアメジスタの国内には入ってこないのだった。
(陸上部の先生だけには、伝えておこうかな……)
これまで、とくにオメガでの一週間に行ったトレーニングと比べればあまりにも練習量の軽い一週間が過ぎた。
(雨か……)
そろそろ限界近いスピードで走ってみたいヴァージンは、しとしとと降り注ぐ雨に深いため息をついた。時折、膝をまっすぐ伸ばしたり肩を回したりするものの、その目の先には雫に染まった芝生が窓越しに映るだけだった。
(……あれ?)
ヴァージンは、雨の中を見慣れないレンタサイクルが、傘と共に駆け抜けていくのを見た。自動車で移動することがあまり一般的でないアメジスタで、レンタサイクルは訪れる外国人がグリンシュタイン近郊を巡るのに必須の移動手段であり、まず空港でしか借りられないものである。
ヴァージンは、思わず息を飲み込んだ。その時が、ついにやって来た。
「ベルク・マゼラウスさん!」
既に遠くに離れつつあるマゼラウスの背中に向かって、ヴァージンは腕を振りながら彼を呼び寄せた。マゼラウスは、メモをポケットから出しつつヴァージンの家を探しているようで、時折地面に足をつけながらキョロキョロしていた。
「うちはこっちです!」
「おぉ!」
雨に打たれて、黒いスーツの男性がその力強そうな肉体をヴァージンのほうに向けた。マゼラウスは、自転車を降りて、ゆっくりとした足取りでヴァージンに近づいた。前回スタジアムで会ったときとは、マゼラウスもヴァージンも雰囲気が違っており、目を合わせた瞬間に両者少しだけ戸惑いを見せたが、すぐに首を縦に振った。
「久しぶりだな、ヴァージン。国に戻っても元気そうで何よりだ」
「えぇ」
「どうだ。ジュニア優勝の報告はできたか?」
「あまり……、できてないです。卒業式、大会で出られなかったので」
「そうか……。それは気の毒だったな。でも、中等学校時代の最後のいい思い出となったことだろう」
「そうですね」
ヴァージンが軽く笑うと、マゼラウスはゆっくりと玄関に向かって歩き出した。
「ご両親と話をしたくて、今日はここにやってきた。中にいるかね」
「……えぇ、父でしたら、中には」
「分かった」
マゼラウスは、軽く首を縦に振ると、ずっと開きっぱなしになっていた傘を閉じて軽く水滴を落として、ドアを軽くノックした。すると、中からドタドタと音を立ててジョージが玄関までやって来て、ゆっくりとドアを開けた。
「初めまして。セントリック・アカデミーの長距離専属コーチ、ベルク・マゼラウスと申します」
(セントリック……?)
突然の訪問で戸惑うジョージの真横で、ヴァージンも右手で口を押えて、顔を真っ赤にした。セントリックと言えば、世界中のほとんどの人がその名を知るくらい有名なスポーツブランドであり、先日のジュニア大会でもセントリックのウェアやシューズを身につけたライバルもいたのを思い出した。
(もしかして……、私には……かなり凄いバックアップが……)
ヴァージンは、思わず首を横に振って状況を整理し始めた。そうこうしている間にも、ジョージとマゼラウスは軽く握手を交わして、マゼラウスがジョージの後ろに付いて書斎に向かいつつある。ヴァージンも慌てて書斎へと続く廊下を早足で歩いた。
「ヴァージンさんの走りを、見させてもらいました。これが、ジュニア大会決勝での、他の有名選手と比較したときの成績です」
マゼラウスは、持ってきたファイルをゆっくりと開いて、ジョージに向けて差し出した。1000mごとの通過タイムやら、最後の1周のタイムやら、どのポイントでバルーナやシェターラを抜かしたかまで、ビジュアルで分かるように折れ線グラフで示されていた。
椅子に座ったジョージの真後ろで、ヴァージンは立ち、そのデータをやや細い目で眺めた。
「この紫の薄い線が、かつてシェターラの出したジュニア新記録。ヴァージンさんの走りは、それに匹敵する、素晴らしいものです。16歳でこのタイムを叩き出せた女性は、ヴァージンさんが初めてです」
「ほう……」
ジョージは、ヴァージンからレースについて軽くは聞いていたが、世界レベルまで十分達していることをここまで詳細に示されて、驚きを隠せない。
「このような有望な選手を、伸ばさないわけにはいかないでしょう。ヴァージンさんも、ジュニア大会の日に、世界に挑む覚悟はあるかと聞いて、あるって言ってますし……、どうですか。ヴァージンさんを、我々に預けて頂けませんか。超一流の選手に育て上げます」
マゼラウスは、決して口調を強めることなく、まるでヴァージンを守っているかのように優しく言った。彼が大会当日にヴァージンに見せた、唇を強張らせたような表情すら出てこない。
ジョージは一旦目をヴァージンにやり、軽く唸ってからマゼラウスのほうに視線を戻した。
「ヴァージンの実力は信じて疑わない。しかし……、そのセントリック・アカデミーに入るのにかかる、生活費とか……、私は出すことができないのだが」
(……そうだった)
ヴァージンは、ガックリとうなだれかけた。自らがたった一度だけ世界に挑戦するだけでも、金銭的には果てしなく長い道のりだった。親元を離れて国外でトレーニングし続けるとなると、その額をはるかに超える金銭が必要になってしまうのだった。
でも、私はこの足で夢を……、夢を掴みかけてるじゃない!あと、少しなのに……!
「私……、それでも行く!……セントリック・アカデミーに行くっ!」
「ヴァージン……」
「私は、もっと強くなりたい。もっと速く走りたいの!」
ヴァージンは、うなだれた首を何とか正面に戻し、両手の拳を丸めて腕に力を入れた。マゼラウスは、ヴァージンの力強い表情に軽く首を振り、ジョージにこう告げた。
「彼女はきっと、自らの足で私たちに恩返ししてくれるでしょう。むしろ、そうなってくれなければ、ヴァージンさんをこのアカデミーに入れた全てが、音を立てて崩れます」
アメジスタの数少ない国民でさえも夢見た、自らの肉体で生計を立てる職業、アスリート。しかし、本当にその稼ぎだけで生活ができるのは、その中でもほんの一握りだった。
ヴァージンはその仲間入りをすると信じて……。
「分かりました。娘を、アカデミーに預けましょう」
「決まりだな」
ジョージとヴァージン、それにマゼラウスのサインが書かれた。それは、ヴァージンにとって、これまでとは想像のつかない日々の始まりであった。