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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
突然の別れは奇跡の出会いの始まり
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第28話 世界女王の選んだスポーツメーカー(4)

 女子5000mのスタート時間が迫ると、サウザンドシティのスタジアムはたくさんの観客で賑わっていた。世界記録14分11秒97を持つヴァージン、その世界記録に自己ベストで2秒以内に捕えているメリアム、元世界女王メドゥというビッグネームが揃っている。そして、10000mでは次々とライバルを打ち負かし、27歳で初めて5000mに挑戦するヒーストンにも注目が集まっていた。世界競技会まであと1ヵ月あるにもかかわらず、スタジアムの雰囲気はまさにそれと匹敵するような盛り上がりを見せていた。

 スタート前のカメラワークも、普段より多くの選手を映しているように、ヴァージンには思えた。

(今日こそ、私は誰よりも先にゴールする。これ以上止まっているにはいかない……!)

 ヴァージンは、首を軽く左右に動かし、スタートを待つ15人のライバルたちの表情を軽く見た。その中で、ヒーストンだけがただ一人涼しい表情を浮かべていた。

(ヒーストンさん、今までの半分の距離を楽勝と言っているような気がする……)

 ヴァージンは、ヒーストンに向けて軽く目を細めた。それと同時に、勝負の時を告げる声が耳に響いた。

「On Your Marks……」

 目の前に広がるトラックを、ヴァージンは見つめた。駆け抜ける道に向かって、全身を集中させる。

(よし……っ!)

 普段よりやや音の高い号砲が鳴り、ヴァージンは一気にラップ70秒のペースまで上げた。メリアムもほぼ同じようにスタートを切り、最初の直線でヴァージンの真横にぴったりとつく。ヴァージンの耳には、メドゥやヒーストンもすぐ後ろを走っているように思えた。

(普段通り、メリアムさんを追いかける展開にした方がいいかもしれない……)

 2周目に入って、メリアムがややペースを上げていき、ヴァージンの前に出る。だが、その後10秒もしないうちに、ヴァージンは真横に再びライバルが並ぶ気配を感じた。コーナーを回ると、ヴァージンに影ができた。

(ヒーストンさん……。ここで出てくる……!)

 そうヴァージンが思った瞬間、ヒーストンが体一つ分だけ前に出た。長身からなびかせる赤い髪がヴァージンの目にはっきりと見えた。10000mのペースに慣れているはずのヒーストンが、5000mのトップ選手のペースに合わせているのだ。先日の10000mのときのような容赦は、ヒーストンにはなかった。

(初めてのレースなのに、ペースを掴んでいる……。私のほうが経験もたくさんあるのに……)

 たちまち3位になったヴァージンは、前を行く二人の姿をじっと見つめ、心なしかペースを上げていった。ラップ70秒だったペースを、4周目には69秒から70秒の間に落ち着かせ、メリアムとヒーストンの出方を見る。メリアムのすぐ後ろにヒーストンがつき、そこから20~30m後ろをヴァージンが追いかける形になった。


 その時、ヴァージンはその足がわずかながら軽くなったように感じた。

(ラップ69秒でも、少し物足りないのかも知れない。もう少し速くしても、大丈夫かも知れない……)

 トレーニングでは、常にラップ70秒を意識しつつ、終わった後に69秒ペースで走っていたと告げられることが多々あった。それでも、ヴァージンの体にはそれほど負担にならず、その最大の武器とも言える爆発的なスパートにもほとんど影響しなかった。

(私は、気付かないうちに強くなっている……。いま、それを試さない選択肢なんて、私にはない!)


 ヴァージンは、2000mを過ぎたあたりで再びペースを上げ、前を行く二人との差をわずかに詰める。体感的にはラップ68秒までは届かないものの、明らかに69秒ペースは上回っている。それでもヴァージンの足は、普段のレースと同じように、ラストスパートに挑む力を余していた。

 その時、ヒーストンがコーナーで軽く後ろを振り返り、徐々に迫ってくるヴァージンを細めで見た。レース前の涼しそうな表情は、何一つ面影がなかった。5000mでは初めてとなるレースでペース配分も変わっている上、メリアムとの勝負を意識しすぎているように、ヴァージンには思えた。

(ヒーストンさんは、確実に追い抜ける……。問題はメリアムさんかも知れない……)

 ヴァージンは、メリアムの後ろ姿をほんの1秒だけ見つめた、ヒーストンの足に隠れてストライドをなかなか見ることができないが、メリアムの走り方は先日のウォーレットにも似たような力強さを見せていた。もともと1500mを得意とするメリアムが、中距離で培った走り方を、この日はいかんなく発揮している。

(メリアムさんが、ラガシャ選手権の時のように、最後にペースアップするようだと、記録に手が届く……)


 ――記録に手が届く……!


 ヴァージンは、ふと頭の中に思い浮かべたその言葉を、自らの足にまで刻み込ませた。2戦続けて、女子5000mの世界記録を奪われる危機に怯えていられなかった。逆に言えば、そのメリアムを追い抜けば、ヴァージン自らが持つ世界記録をまた一歩縮めることができる。

(どこで私は、メリアムさんとの勝負をする……)

 2800m、3000m、そして3200mを通り過ぎ、ついにヴァージンはヒーストンを捕え、9周目のうちにメリアムの10m後ろについた。ラップ68秒台後半のペースを変えることなく、ヴァージンはメリアムとの勝負する瞬間を待った。そして、ヴァージンの体感的に11分33秒で、4000mのラインを駆け抜けた。

(ここからが、私の本気を見せるところ……!)

 ヴァージンは右足に力を入れ、一気にペースを上げながらメリアムの真横に躍り出ようとした。だが、同時に、メリアムもその時を待っていたかのように、ヴァージンを引き離しにかかった。スピードをかわされたヴァージンは、真横に出た分だけ距離をロスする形になってしまった。

(メリアムさんも、4000mでスパートをかけてきた……!でも、私はここからさらにギアを上げられる!)

 4200m、残り2周となったとき、ヴァージンはさらにペースを上げ、今度こそメリアムの真横に躍り出た。その時、メリアムがかすかに右に目をやり、ヴァージンを睨み付ける。決して離されまいと、メリアムがヴァージンに食らいついており、ヴァージンはメリアムより体一つ分も前に出せない。

 二人が並んだまま、残り距離だけが短くなってくる。それを見て、ヴァージンは心に決めた。

(トップスピードで、一気に引き離すしかない……!この距離なら大丈夫だし……、たぶん記録にだって勝てる)

 4400mを過ぎている。残り1周半にも満たない距離からのラストスパートなら、失速しないはずだ。全ての確信を持って、ヴァージンは次のコーナーで、一気にスパートをかけた。瞬間、ヴァージンの目に苦しそうに首を振るメリアムの表情が映ったが、ヴァージンはすぐにそれをも振り切り、直線に入るとメリアムとの差を一気に開けた。

 そして、最後の1周を告げる鐘を13分13秒で耳にしたとき、ヴァージンは、久しぶりに世界記録との勝負にもゴーサインを出した。決して緩むことのないヴァージンのスパートに、高まる歓声。最後のコーナーでも、決して後ろを振り返ることなく、ヴァージンは前に前に進んでいった。

(私は……、これ以上立ち止まってなんかいられないのだから!)


 一昨年10月以来、女子5000mのアウトドアの世界記録は、ぴたりと止まっていた。100分の2秒にまで迫られたこともあった。それでも、止まっていた世界記録を前に進めるのは、自らしかいない。そう信じて、ヴァージンはスピードを緩めることなく、ゴールラインを駆け抜けた。


 14分11秒94 WR


(ワールドレコード……!勝った……!やっと世界記録を……、世界記録を叩き出せた……!)

 ヴァージンは、ゴールした瞬間、足の疲れをものともせずに記録計を見た。11秒の後の9という数字を見たときには心臓の胸打つような音をかすかに感じたが、最後の数字を見て、その喜びを全身で表現した。

(たった100分の3秒だけど……、これが私の出した記録……!)

 100分の2秒の差で世界記録を打ち立てられなかったウォーレットと、そのわずか1ヵ月後に、100分の3秒だけ新しい世界記録を打ち立てたヴァージン。記録計に映る数字は、その実力の差をはっきりと示していた。

「おめでとう、グランフィールド!」

 ヴァージンは、すぐにメリアムに抱きかかえられた。メリアムの表情はひどく疲れており、結局ヴァージンから7秒以上引き離された。そして、メリアムから2秒ほど遅れてゴールしたヒーストンにも抱きかかえられた。

「今日は私の完敗よ、グランフィールド……。やっぱり5000mにはプライドがあるように思えたわ……」

「そう言ってくれると嬉しいです……。やっぱり、もともとこっちが私のメインステージですから……」

 そう言うと、ヴァージンは逆にヒーストンを抱きしめた。だが、それが終わると、ヒーストンはすぐに一言、ヴァージンにこう告げたのだった。

「でも、今日私は自信を掴んだ。10000mだけじゃなく、5000mでもトップになれると。たぶん、エクスパフォーマからも、最近のレースを踏まえれば、私こそ世界女王だと思われてと確信するわ」

 そう言うと、ヒーストンは観客席に手を振った。その姿を、優勝したはずのヴァージンは眺めるしかなかった。

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