第28話 世界女王の選んだスポーツメーカー(3)
セントリックの情報を告げられた後、ヴァージンはアルデモードと何の話をしたか覚えていなかった。気が付くと、ライトの色がゆっくりと変わっていく噴水を二人揃って眺めていたのだった。
しかし、ヴァージンが忘れかけていた話の内容は、ワンルームマンションに戻ってすぐに蘇るのだった。ベッドに腰を下ろした瞬間、まるでその時を待っていたかのように電話が鳴り響いた。
(ガルディエールさん……。こんな時間にかけてくるということは、何かあったのかもしれない……)
ヴァージンは、代理人の名前を見て、そのまま数秒間固まった。そしてゆっくりと電話を取った。
「こんばんは、お久しぶり。何度かかけたけど出なかったから、寝てたかと思った」
「いえ、ちょっと……人と約束をしてて……、こんな時間になってしまいました……」
「そうか。で、話というか相談なんだけど……、君が最近悩んでいること、ないかな」
「悩み……、ですか……。特には……」
ヴァージンは、やや途切れ途切れにガルディエールに返す。すると、電話の向こうでガルディエールが言った。
「そうかな……。最近のレースを見ていると、心に悩みを抱えて、本来の力を出し切れていない感じがしてね」
「本来の力を出し切れていない……。たしかに、ここのところ悔しい想いばかりしています」
この年のヴァージンは、冬のインドアシーズンこそ室内世界記録を二度も叩き出したものの、春から始まったアウトドアシーズンではあと一歩のところで表彰台の一番上まで届かないレースが続いていた。ガルディエールに言われて、先日ヒーストンに打ち勝てなかった瞬間を、ヴァージンはすぐに思い出した。
「やっぱり、君ならそう言うと思ってたよ。で、ここから先は推測なんだけど、私は君がセントリックの問題で、見えないおもりをつけられているような気がしたんだ」
「言われてみれば、そんな気がします。今まで当たり前だったことが、少しずつ崩れていくような……」
「だろうな……。意識していなくても、セントリック・アカデミーの一員として、気にすると思う」
「気になります」
ガルディエールが、そこでわずかな間を置く。ヴァージンはその間に小さくうなずいた。
「そこで、君に確認したいんだ。このままセントリック・アカデミーで続ける意思があるのか」
「そうですね……」
ヴァージンは、そこまで言って言葉を止める。アルデモードから告げられた言葉が、頭の中に響き渡った。
――ゆくゆくはブランドを捨てることになる。
(セントリックに、未来はない……。もし未来があるにしても、それは今の延長にないのかも知れない……)
ヴァージンは、電話の向こう側に伝えることを考えながら、アルデモードに告げられたブランドの未来を何度も思い返してみた。少なくとも、ヴァージンが思い描いてきた楽観的な未来はなかった。年会費の値上げと、アカデミー生の脱落、そして未だ想像できないような現実が、少しずつ確実なものになっていくのだった。
ヴァージンは、首をやや重く振り、ガルディエールに返した。
「私にとって重圧になってしまうなら、もうセントリック・アカデミーにいる意味がないように思えます」
「それが、君の選ぶ未来だな」
「はい。これ以上、この問題が深くなるのなら……、そうするしかないと思います……」
ヴァージンは、やや声を小さくしてガルディエールに言った。すると、ガルディエールはすぐに口を開いた。
「じゃあ、騙されたと思って私の話を聞いて欲しい。君をトップブランドに売り込もうと思ってるんだ」
「どのブランドですか……?」
ヴァージンは、目線をやや天井に向けながら、思わずガルディエールに聞き直した。
「まだ公式には発表されていないが、エクスパフォーマが今度陸上のウェアやシューズにも手を出すそうだ。もし君がよければ、エクスパフォーマと専属契約を結んでみる気はないか?」
「せ……、専属契約ですか?その話、ぜひ聞かせて下さい!」
ヴァージンは、やや大きな声でガルディエールに返す。ヴァージンの見ることのできない電話の向こうで。今にも喜んで説明しようとしているガルディエールの表情が目に浮かんだ。
「今まで君は、いくつかのメーカーとスポンサー契約をして、ウェアやシューズを安い値段でもらっていたと思うんだ。けれど、今度の専属契約は今までとは180度違うものだ。簡単に言うと、君がそのメーカーのイメージキャラクターとして契約することになるんだ」
「イメージキャラクター……、例えばエクスパフォーマのCMに出るとかですか?」
かつてウォーターサプリとプロモーション契約を交わしたことのあるヴァージンは、初めて自身の姿をCMで見たときのことを思い出した。だが、それをもかき消すほど、ガルディエールの声が響く。
「CMも出るかも知れないね。ただ、今までと違って、スポーツメーカーのCMだ。CMだけじゃなく、レース中の君の動き一つ一つが、そのまま宣伝になると言っても過言じゃない。それに、スポーツメーカーとの専属契約ともなれば、その契約金は破格のものになること間違いなしだ」
「契約金……。CMにも出てくるような専属契約だと、どれくらいになるんですか?」
「ウォーターサプリからもらっていた年30万リアとは、比べものにならない額だと思う。種目にもよるけど、トップ選手がスポーツメーカーと専属契約を結べば100万単位にはなると思う。ブランドを背負って勝負をするんだから、スポーツメーカーも結構な額を出すはずだよ」
「し、信じられません……!」
ヴァージンの電話を持つ手が、思わず震えた。アルデモードからはそのような話が出てこなかっただけに、初めて聞いたこのスケールの大きすぎる話を、ヴァージンは何度も心の中で言い聞かせなければならなかった。
「そして何より、もし専属契約を結べば、君はエクスパフォーマ・トラック&フィールドの、最初のモデルとなる。君のその走りが、エクスパフォーマの新たな道を切り開くんだよ」
「……やってみます!」
ヴァージンは、ワンルームマンションの隣室にも明らかに聞こえるほどの大きな声で、ガルディエールに快諾の返事を告げた。まだ契約が決まったわけではないにも関わらず、ヴァージンの目にはアルデモードの着ていたユニフォームのロゴが、大きく焼き付いていたのだった。
それから数日後、エクスパフォーマが陸上競技に参戦する意向を正式に発表した。ブランド立ち上げは翌年の1月、そしてガルディエールも言っていた専属契約を、複数の選手と結ぶ方向との発表も行われた。
しかし、その中ではセントリックの工場買収の件は触れられておらず、既に内情を知っているヴァージンもアカデミーの中でセントリックの未来を口にすることはできなかった。
それでも、ヴァージンのタイムだけは一段と上がってきた。ヒーストンと5000mを争うことになるサウザンドシティが数日後に迫ったある日、マゼラウスがヴァージンのタイムに思わず歓声を上げた。
「14分13秒73……!ワールドレコードの一歩手前じゃないか!嬉しいことでもあったのか?」
「特に何もありません。なんか今日は、ペースをスムーズに上げられたような気がします!」
「それなら私も安心だ。ここのところ、優勝から遠ざかっているぶん、サウザンドシティと世界競技会では本気の走りを見せてくれよ!」
「はい、分かりました!」
ヴァージンはそう言いながら、マゼラウスの持つストップウォッチにもう一度目をやり、笑みをこぼした。
そして、勝負の日がやって来た。約5年ぶりにサウザンドシティのスタジアムにやって来たヴァージンは、多くの観客が見守る中、普段と全く変わらない歩幅で選手受付に向かった。この日は珍しく、メリアムやメドゥ、それに新たなライバルと言うべきヒーストンが揃って、ヴァージンより前に選手受付を済ませていたのだった。
(みんな、早くから最終調整をしている……)
ヴァージンは、そう思いながらロッカールームに入ろうとした。その瞬間、ロッカールームから赤いショートヘアがその姿を覗かせた。
「ヒーストンさんじゃないですか……!すごく早い入りですね」
「グランフィールドもなかなか早くからスタジアムに来るじゃない!感心するわ」
「ありがとうございます!」
ヴァージンは、そう言うとヒーストンから目を反らそうとした。だが、ヴァージンの目線からヒーストンが消えかかった瞬間、ヴァージンの耳に再びヒーストンの言葉が響いた。
「そうそう、今日グランフィールドとは、5000mのタイムの他に、もう一つ勝負をすることができたから」
「もう一つの勝負……って、何ですか……?」
ヴァージンは、ヒーストンに向かって軽く目線を動かし、ヒーストンの次の言葉を待った。
「話は聞いたわ。エクスパフォーマの専属契約、私とグランフィールドで対決することになりそうね」
そう言って、ヒーストンはサブトラックに向けて歩き出した。ヴァージンは、その後ろ姿を目で追った。
(エクスパフォーマの専属契約……、思った以上に大変な争いになりそう…)