第28話 世界女王の選んだスポーツメーカー(1)
アカデミー生がストライキを起こしてからは、セントリック・アカデミーに特段大きな動きはなかった。ヴァージンが見るに、アカデミー生に対するコーチ陣の態度も柔らかくなっているようだった。それと同時に、年会費の値上げの話もいつの間にか聞かなくなっていたのだった。
(私だけがアカデミーにいたあの日、何が起こっていたのだろう……)
6月が終わり、7月に差し掛かったとき、ヴァージンはふと気にしてみた。グラティシモたちが先頭に立って立ち向かった今回の危機は、見た目では収束しているように思えた。だが、肝心のグラティシモの口からヴァージンにそれが告げられることはなく、見方を変えれば、さらに大きな嵐が吹き荒れる前触れにも思えた。
(でも、いま考えないほうがいい。8月の世界競技会に向けて、さらに調子を上げていかないと……)
ヴァージンにとって、世界競技会は何度も優勝確実と言われながら、これまで3回出場してすべて優勝を逃している。世界最高峰のレースとも言うべきその大会で優勝することこそ、22歳のヴァージンにとっては悲願だ。
(5000m……、できれば10000mも、誰よりも速く走り抜けたい……!)
ヴァージンの強い想いは、徐々にタイムを押し上げていった。7月最初の10000mタイムトライアルで、これまでのトレーニングで最高となる30分38秒29を叩き出したのだ。
「10000mのほうも、だいぶ調子が上がってきたようだな、ヴァージン。このまま行けば優勝も見えてくる」
「はい!」
ヴァージンは、10000mではラップ75秒を意識して走るものの、5000mと比べてトータルではそれほど負荷がかからなかったことから、意識的にラップ74秒に近づけていた。
「メルティナ・サウスベストの記録、29分57秒29に比べたらまだまだかも知れないが、それは徐々に近づければいい目標だ。あと1週間で、10000mの実戦。まずは、このタイムから落ちないようにしないとな」
ヴァージンは、マゼラウスの声に大きくうなずいた。
7月、オメガ東部にあるメルファスタジアムで、ヴァージンは約2年ぶりに10000mの実戦に戻ってきた。5000mとの同時出場ではないが、スタジアムにはヴァージンを待つ多くの観客の姿があった。だが、レースの目玉は5000mの世界女王よりも、10000mの世界記録に迫りつつある新たなライバルにあることを、ヴァージンはすぐに選手受付で知ることとなった。
(メルファナ・ヒーストン……。雑誌で結構名前を見る、トンバの選手だ……)
ヴァージンが声に出すことなくその名前を心で叫んだ時、ヴァージンは背後に何者かがいる気配を感じた。振り返ると、そこには赤いショートヘアで、男性のようなカクカクした顔の長身選手が立っていた。
「は……、はじめまして……。ヒーストンさん……」
ヴァージンは、後ろを振り返った瞬間に、軽く頭を下げた。ヴァージンよりも15cmほど身長があるヒーストンがヴァージンを見下ろす。27歳の大人びたヒーストンに、ヴァージンは言葉で言い表せない風格を感じた。
ヒーストンは、ヴァージンが頭を元に戻すと、すぐに右手を差し出した。
「もしかして、あなたがヴァージン・グランフィールド……?」
「はい……、そうです……」
「あなたは世界中にその名をとどろかす、スーパーアスリートと言ってもいいくらいだもの。顔を見てすぐに分かっちゃった。まさか、10000mにいながら一緒に走れる日が来るなんて、幸せね」
「私も、今や10000mではほとんど敵なしのヒーストンさんと走るなんて夢のようです」
ヴァージンは、ヒーストンの表情を伺おうとすると、勝負の前にも関わらず真っ先に微笑んだ。髪の毛と対照的な青い瞳が笑っている。その目の先にある、勝負を見つめながら。
メルファナ・ヒーストンの10000mの自己ベストは、30分13秒74。それも、この1年で自己ベストを5回更新してのタイムだ。ヴァージンも、次々と世界記録を叩き出してはきたが、これほどのペースで自己ベストを更新したことはなく、ヒーストンがいかに昇り調子の選手であるかがそれからも見て取れる。
ヴァージンは、ロッカールームからサブトラック、そして集合場所へと向かう間も、ほぼヒーストンと同じ場所にいた。意識するつもりこそなかったが、ヴァージンの目にはどうしても赤髪の長身が目立ってしまう。
(勝負をする前から、その存在に圧倒されてはいけない……。なるべく、ヒーストンさんより先に出よう……)
そして、ヴァージンはスタート位置に立った。ヒーストンが、最もトラックの内側でスタートを待っている。ヴァージンは、5000mのときとは違い、2段階スタートの外側からヒーストンら上位の選手を追うこととなった。
(よし……)
力強い号砲がスタジアムに鳴り響き、18人の両足が一斉にトラックを叩きつけた。ヴァージンは真っ先にトラックの内側に向かおうと前に出て、まるで5000mのレースでウォーレットが見せるような勢いで、最初の1周を終えたところで誰よりも前に立った。ここまで、内側からスタートしたヒーストンの姿は見えなかった。
(あとは、みんなをどれくらい引き離すか……。追いつかれないようにするしかない……)
ヴァージンは、トレーニングと同様にラップ74秒を意識したペースで走り続ける。1周、また1周とラップが進むにつれ、ヴァージンの背後から聞こえるシューズの音が少しずつ消えていく。5周を過ぎたあたりで、ヴァージンにぴったりくっついているライバルは3人まで絞られた。
そこでヴァージンは、後ろを振り返った。あの体が見えた。
(ヒーストンさんが、やっぱり私に食らいついてきている……)
ラップ74秒よりもペースアップすれば、本格的に10000mに取り組んだ直後のように、途中でペースがバラバラになりかねない。それでも、ヒーストンはほとんどペースアップすることなく、ヴァージンのペースを後ろから伺っている。まだ勝負をかける時ではないように、ヴァージンには思えた。7周、8周まで進むと、ついにヴァージンの真後ろにはヒーストンしかいなくなり、5000mと10000mの頂点に立つ二人による一騎打ちになった。
(まだ行かない……。ヒーストンさんは、どこでペースを上げるのか……)
だが、その時は予想の上を行く形で訪れた。12周半、つまり5000mであればフィニッシュとなるラインをヴァージンが通過した瞬間に、ヒーストンがあっさりとヴァージンの真横に並んだのだ。ヴァージンの目に、否応なしにヒーストンの長身と赤い髪が映る。
(5000mまでは私に気を遣ってくれたのかも知れない……。でも、そこから先は容赦しない……)
ヒーストンの横顔を見たヴァージンは、すぐに種目の差を思い浮かべた。その間にも、二人はコーナーを回りきり、直線に入ったところでついにヒーストンがヴァージンの前に躍り出たのだった。
その時、ヴァージンは首を軽く横に振った。
(私だって、今は10000mで勝負をしている……。けれどヒーストンさんは、私を5000mまでのペースメーカーにしか使っていない……!私は、そんな人間だったの……)
ヒーストンのあまりにも露骨すぎるペースアップに、ヴァージンもペースを軽く上げていく。ラップ73秒までは届かなくても、ヒーストンをラストで追い抜くにはそれしかなかった。
しかし、ヒーストンがヴァージンのペースアップに気が付いたのか、15周を終えたところでさらにペースを上げた。ラップ73秒を切っており、ヴァージンとの差は1周ごとにじわじわと広がっていった。
(これが、ヒーストンさんの走り……。でも、私にだってスパートがある!)
ヴァージンは、残り1200mとなる22周まで、ヒーストンに食らいつく懸命の走りを見せた。そして、ヴァージンが勝負と決めた22周を終えたところで、その差は80mほどとなっていた。
(これなら追いつけるかも知れない……!)
ヴァージンは、ラップ73秒近くで走っていたペースを、ここで一気に上げ、ヒーストンとの差を縮める。ラップ70秒ほどに上げたペースが、次の1周にはラップ68秒まで上がり、最後の1周での勝負に挑む。
しかし、ヒーストンも、最後の1周で軽々とラップ70秒を切るまでペースを上げた。
(私だって……、10000mで勝ちたい……!)
ヒーストンのスパートを目の当たりにしたヴァージンは、さらにギアを上げた。5000mのときのようなラップ60秒を切るペースまでは届かなくても、64秒ほどのペースまで上げ、懸命にヒーストンの背中を追いかける。
最後のカーブ。ヒーストンとの差は10mほどだ。ここで、ヒーストンがついに後ろを振り返り、睨み付けるような形相でヴァージンを見た。すぐにヴァージンも目を細くしてヒーストンを見つつ、懸命に足を前に出す。ゴールラインが見えても、ヴァージンは諦めなかった。
(……追いついたかっ!)
ヴァージンの目には、ヒーストンに追いついたように見えた。だが、それは錯覚でしかなかった。先に係員が向かったのは、ヴァージンではなくヒーストンの方だった。ヴァージンも、係員の後ろにつくかのように、ヒーストンへと近づいた。
「ヒーストンさん……。おめでとうございます……」
「ありがとう、グランフィールド……。でも、10000mでは私の勝ちね」
ヒーストンが、ヴァージンを軽く抱きしめたながらそう告げる。その差がほとんどないように見えても、ヴァージンの負けは変わらなかった。しかも、後で発表されたタイムでは、ヒーストンが30分27秒11、ヴァージンが30分29秒39と2秒以上の差がついてしまっていた。
(やっぱり悔しい……。自己ベストを出せたのに、悔しい……)
ヴァージンは、ヒーストンの目を見ようとしても、見ることができなかった。しかし、ヒーストンは何も言い出せないヴァージンに、さらに言葉を続けた。
「でも、5000mまではグランフィールドのほうが輝いているように思えた。そこまでは譲れないように見えた」
「ほ、本当ですか?」
「本当よ。グランフィールドを見て、私も5000mをやってみようと思ってるもの!」
ヒーストンはそう言うと、突然小声になり、ヴァージンに告げた。
「再来週、オメガセントラルの大会で、私が5000mのレースであなたと戦うのよ。そこでは負けたくない」
「ヒーストンさん……!」
ヴァージンは、再びヒーストンの目を見た。次の勝負は、もう始まっていた。
ヴァージンは、ヒーストンが記者たちに囲まれると、すぐにマゼラウスのいる観客席に歩き出した。その瞬間、マゼラウスがヴァージンを手招きした。
「そんなに急がせて、何があったんですか……?」
するとマゼラウスは、やや目を細めて、ヴァージンにこう告げた。
「ヴァージン。ちょっとアカデミーで急な会議が入った。悪いが、先に帰らせてもらう」
「えっ……」
ヴァージンは、尋常ではないマゼラウスの表情に、ただ立ちすくみ、マゼラウスの後ろ姿を見るしかなかった。