第27話 私たちの練習場(6)
ウォーレットに遅れること3秒、ヴァージンはゴールラインを駆け抜けた。激しい呼吸を浮かべながら、優勝したウォーレットのもとに向かおうとするが、ヴァージンは無意識のうちに記録計に目をやった。
(世界記録は……、私が更新しなきゃいけなかったはずなのに……!)
14分11秒97――それがヴァージン、そして世界中の全ての女性がこれまでに叩き出してきた5000mの最高の記録だった。それが、目の前で打ち破られたかも知れない。ヴァージンは、記録計の正面に立ち、オレンジ色の光が指し示す数字を左から順番に読んだ。
「14分11秒99……」
その横に「WR」の文字は見えなかった。ヴァージンは、二度、三度とその数字を確かめる……。
(破られてない……!私の記録は、破られてなんかなかった……!)
その時、ヴァージンは背後からウォーレットの足音が迫るのを感じ、すぐに体を振り向かせた。
「グランフィールド……、やっぱり私の記録が気になったのね……」
「勿論です。本当に、ウォーレットさんの走りがすごくて……、後ろからヒヤヒヤしながら見ていました」
「そう言ってくれると嬉しい……。それでも、私はグランフィールドの最高の実力を、超えられなかった……」
「それでも、ウォーレットさん。今日の私を超えることはできたと思います……。私の負けです」
ヴァージンはウォーレットに、息を切らしながらそう告げた。だが、その言葉を聞いた途端、ウォーレットがややうつむきながら、首を軽く横に振るのだった。
「今日のところは、ね。でも、あれだけフォームを変えたのに、あと一歩世界記録まで届かなかったのが、今はとっても悔しい。私の走りは未完成よ。ワールドレコードを取るのは、次の機会ね」
「その時は、私だって今より成長してみせますから……!」
そう言って、ヴァージンはウォーレットを軽く抱きしめた。ウォーレットの体は、これまでで抱きしめてきた中で、最も熱がこもっていた。
ウォーレットが、世界記録まで100分の2まで迫る走りを見せる中、ヴァージンは14分14秒48に終わった。そして、トレーニングとセントリック本社との交渉の両方に追われるグラティシモは、最下位から2番目となる15分59秒28と、自己ベストから1分半以上も遅くゴールしたのだった。
グラティシモは、ゴールするなりヴァージンに向かってゆっくりと近づいてきた。
「ヴァージン。やっぱり、今の私には本番は厳しかった……。走り出しても、なかなか集中できない……」
「たしかに……、そう思えます。私がグラティシモさんを周回遅れにしたの、たぶん初めてだと思うんです」
「そうね……。言われてみれば、この6年で一度もなかったような気がする……」
グラティシモが、やや考えるしぐさを浮かべながら小さくそう言うと、すぐに首を横に振った。
「それはそうと、ヴァージン。レースはこれで終わったから、私たちは次の戦いに備えなければいけない。後で、ロッカールームで渡さなきゃいけないものがあるから、表彰式が終わるまで私はトラックの外で待ってる」
「それって、もしかしてストライキのですか……」
「カメラが回っているかも知れないのに、その言葉は口にしない方がいいわ。まだアカデミーに言ってないし」
「そうですか……。すいません……」
グラティシモの目は、まるで勝負に挑む前であるかのように細くなっていた。グラティシモの視線の先に、アカデミーがあるかのようにヴァージンには見えた。
その後ヴァージンは、ロッカールームでグラティシモからスト計画の用紙を渡された。他のライバルたちに知られないように、印字面を下にしてこっそりと渡されたため、ヴァージンはそれをボストンバッグの下の方に入れ、ワンルームマンションに着くまでその用紙を取り出さず、汗に濡れたレーシングウェアなどを洗濯機に放り込んだ後に、ようやくその用紙を手に取った。
「朝10時、先日の貸し会議室に全員集合……。誰もがトレーニングをボイコットしたアカデミーを、CEOやセントリック本社に見せつけるために、ぜひご協力を……」
ヴァージンは、書かれている文章を目で追いながら、軽く息をついた。やがて全て読み通すと、ヴァージンは用紙を手にしたまま天井を見上げた。
(14分11秒99……。スタートの反応が早ければ、私の世界記録は……、過去のものになってしまっていた……)
ヴァージンの目には、驚異的なペースで突き進むウォーレットの走りが、未だに焼き付いていた。ヴァージン自身も自らの記録を更新できるペースで走っていたはずなのに、ウォーレットのほうがそれ以上に実力をつけているように、ヴァージンには思えた。
そして、あのタイムでもウォーレットは未完成と言う。少なくとも、世界記録を狙ってきている。この先、さらに強くなったウォーレットと勝負をすることは、間違いないと見てよかった。
(今はまだ……、私が世界記録を持つ……。でも、もう追いつかれているのは間違いない……)
ヴァージンは、右手にグッと力を入れる。ウォーレットから渡された用紙が、ヴァージンの手で潰れる。
「私は……、私は止まってなんかいられない……!より速くなるしか、道はない!」
アカデミー生によるストライキが行われる朝、ヴァージンは貸し会議室に背を向け、いつも通りにセントリック・アカデミーの門をくぐり抜けた。コーチ控室の中は多くのコーチ陣が出勤しているが、普段はアスリートの鼓動があちこちから感じられるはずのロビーは、静まりかえったように動きがなかった。自動ドアの開閉する音、ヴァージンがロビーの床を踏む音など、いつも聞いているはずの音が、ヴァージンの耳には違って聞こえてくる。
(誰も……、いない……)
その時、ヴァージンの姿を見たマゼラウスが、安堵の表情を浮かべ、勢いよくコーチ控室から飛び出してきた。
「ヴァージン……。お前が来てくれて本当によかったよ……」
「コーチ、おはようございます。部屋から急に飛び出してきたので、びっくりしました……」
「嬉しくてたまらないよ。たぶん、お前も分かっていると思うが、たぶんアカデミー生のストライキだ」
ヴァージンは、分かっているとマゼラウスに言われた瞬間、小さくうなずいた。
「私も、今日やるって話は聞きました。でも、それはやっぱり……、おかしいと思うんです……」
「おかしい……、というのはどうしてだ?」
「たしかに、私たちの練習場を守るために行動に出ることは間違いじゃないはずです。でも、私にはそれよりも大事なことがあると思うんです……。たった一日何もしないだけで、ライバルは私を抜き去ります……」
ヴァージンは、ところどころで言葉を止めながら、マゼラウスにそう告げた。すると、マゼラウスがやや表情を硬くした後、すぐにその表情を緩め、ヴァージンに言葉を返す。
「ヴァージン……。お前は、やっぱり間違った方向に体を向けている。だが、それでも一人のアスリートとして、今を懸命に生きようとしている姿勢だけは……、強いな……」
そう言うと、マゼラウスはゆっくりと歩き出し、トラックの見えるところに立った。ヴァージンも、マゼラウスに歩調を合わせるようにして、何度も記録に挑み続けてきたトラックをその目に焼き付けた。
「ヴァージン。今日は、ここでトレーニングをするのは、お前だけになるかも知れない。そうしたら、お前一人のプライベートトラックになるだろう。だが、この広いアカデミーで私と二人きりでいる世界を、お前はどう感じるか、いっぺん外に出て感じた方がいい」
マゼラウスは、そこまで言うとロビーの外へと続くドアを開け、一歩足を踏み出す。まだ着替えを済ませていないヴァージンも、マゼラウスに促されるままに外に一歩踏み出す。
(やっぱり……、これが一人ぼっちの世界……)
ヴァージンは、朝の涼しい風を肌で感じた。アカデミーの中にいるのに、外の世界と何も変わらない、熱気ひとつない空間があった。
「やっぱり、熱気が伝わってこないです……。誰も勝負する人がいない、というか……」
「そうだな。いくら陸上が個人種目だからと言って、勝負する相手がいなければ、力は発揮できない。今日のアカデミーは、まさにそういう、死んだ空間だ」
(死んだ空間……)
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に小さくうなずく。ストライキによって、ついに決定的となったアカデミーとアカデミー生の対立。その間に取り残されてしまったヴァージンは、小さい涙をこぼすしかなかった。
(環境は整っているのに、そこに誰もいない……)
「どうしたんだ、ヴァージン。やっぱり、寂しいと思っているのか」
「少し、寂しいです……」
「だろうな。でも、こんな変わった空間でも、本気を出せるのがお前のはずだろ。せっかく今日も強くなりたいと思っているのなら、寂しさなんか吹き飛ばしてしまえ」
「はいっ!」
ヴァージンにとって1分にも2分にも感じられた時間は、マゼラウスのほとんど見せない軽い言葉で消え去っていった。その言葉で、ヴァージンは我に返ったようにロッカールームへと急いだ。
だが、その日はヴァージンが予想していた以上に決定的な一日となってしまった。