第27話 私たちの練習場(5)
それから2ヵ月近くの月日が流れた。ラガシャ選手権の夜にレストランで真剣に語り合った後は、マゼラウスの口からヴァージンの将来について何も告げられなかった。たまたまヴァージンが聞いてしまった移籍要望書の話も、聞き出せないままだった。次のアロンゾ選手権が1週間後に迫る中、ヴァージンとマゼラウスの会話の内容は、次第にタイムや戦術のことが中心になっていった。
ある日のこと、ヴァージンは30度を超える真っ昼間の空の下で、5000mのタイムトライアルに挑んだ。ややラップ70秒より遅く走ろうと意識したが、走り終えた後にヴァージンの目に飛び込んできたのは、体感的にも想定していないようなタイムだった。
「14分22秒30。少し暑い中でも、ラップがそこまで悪くならずに走っているじゃないか。上出来だ」
「はい。やっぱり、この前のラガシャ選手権が悔しかったので……」
そう言うと、ヴァージンは額の汗を拭いた。ラガシャ選手権のゴール後はほとんど意識がなかっただけに、この2ヵ月ほどでヴァージン自身もはっきりと進歩しているように思えた。
「今のお前なら、アロンゾ選手権ではトップで駆け抜ける。コンディションさえ整えば、ワールドレコードも夢じゃない。期待しているからな」
「はい!」
ヴァージンの目には、マゼラウスと、その先にあるアロンゾのスタジアムがはっきりと映っていた。
その日の夕方、ヴァージンはロッカールームで久しぶりにグラティシモの姿を見かけた。決起集会の後、ヴァージンはグラティシモのトレーニングをしている姿をほとんど見かけなかったが、この日はトレーニングウェアに身を包んで、ヴァージンとほぼ同じ時間にトレーニングを終えたのだった。
グラティシモは、ヴァージンに体を向けてゆっくりと近づいてきた。
「ヴァージン。アロンゾ選手権では、直接対決になるわね。今度こそ、ちゃんとスタジアムに向かうわ」
「そう言ってくれると嬉しいです。一人でもライバルの多い方が、私もモチベーションも上がりますし」
ヴァージンは、やや笑いながらグラティシモにそう言った。だが、グラティシモは一緒になって笑った後、突然表情を引き締めて、先程とは全く違う低い声でヴァージンに告げた。
「それはそうと、ヴァージン。やっぱり、私たちは行動に出ないといけないのかも知れない」
「行動……。いよいよセントリック本社と、直接話し合いをするわけですか……」
「それはもう、この前終わった話。結論を言えば、今まで通りの環境で練習したいという私たちと、会社の危機を救いたいというセントリックの間で、意見が折り合わなかった……」
グラティシモが、首を力なく横に振る。ヴァージンを見るその目は、どこか寂しそうだった。
「じゃあ、あの時言ったように、私たちの年会費が値上がりしてしまう……、というわけですか……」
「そういうことになる。だから、それを止めるために、私たちはアカデミーとセントリック本社にアピールをしなければいけないと思うの。その時は、ヴァージンも含めて、私たちアカデミー生が一丸となって行動しなければいけなくなるけど、大丈夫?」
「行動……、アピールって言っても、グラティシモさんは何をやるつもりなんですか……?」
ヴァージンは、周りに聞こえないくらいの小さい声で、グラティシモに尋ねた。
「ストライキよ。アロンゾ選手権の翌々日、私たちはまる一日、トレーニングをしない」
「トレーニングをしない……、ですか……」
「その日だけ、オフにすればいいじゃない。たった一日だけなんだし、みんなが一つにならないと、アカデミーやセントリックに対する抗議の気持ちが伝わらないじゃない」
グラティシモは、ヴァージンと打って変わって徐々に声を強めていく。最後は、何人かの女子選手がグラティシモのほうを向くほどインパクトのある声になっていた。
その中で、ヴァージンはグラティシモにそっと告げた。
「言いたいことは分かります。でも、グラティシモさん。私には、まだレースがあります。勝負がしたいんです。ストライキのことを考えるのは、その後でもいいような気がします」
「なるほどね……」
グラティシモは、ヴァージンの一言でやや目線を下に向け、すぐにヴァージンに視線を戻した。
「たしかに、ヴァージンの言ってることも間違いではないわ。今は、私たちの勝負に集中しましょう」
そして、アロンゾ選手権の当日がやってきた。このアロンゾは、ヴァージンがかつて世界記録を叩き出したことがあり、好タイムが狙える場所だ。それだけに、女子5000mの次の世界記録も確実視されているようで、ヴァージンはスタジアムに足を踏み入れた瞬間からカメラでその姿を撮影されるほどだった
(私は、今年インドアの世界記録を2回も叩き出している。だから、アウトドアだって狙えるはず……!)
ラガシャの時と違い、体感的には25度くらいの快適な気候だ。1年半以上世界記録を叩き出せていないことなど、この日のヴァージンには全くプレッシャーには感じなかった。
(誰が私の前に出ようと、私は最後には必ず抜き返すから)
選手受付に向かうと、ラガシャであと一歩及ばなかったメリアムはいなかったが、それ以上の強豪とも言うべきウォーレットの姿がすぐ前に見えた。グラティシモの名前も、今度はあった。
(このメンバーでは、世界記録を賭けてウォーレットさんとの一騎打ちになりそう……)
ヴァージンは、本番のレースの展開を思い浮かべながらロッカールームに入る。その入口に一番近いところで、ウォーレットがバッグからウェアを取り出していた。ウォーレットが、ヴァージンに気付いて体を向ける。
「グランフィールドじゃない……。今日という今日は、完成した私の実力を見せてあげる」
「私だって、アウトドアの世界記録を1年半以上更新できない悔しさを持って、このレースに臨みます」
「そう。なかなかの意気込みじゃない。でも、私のほうが、最近調子が上向いているから、先にワールドレコードを取るのは、私かもね」
そう言って、ウォーレットは言葉を捨てつつロッカールームを後にした。春先のレースに出なかったぶん、夏に入ってほぼ毎週のようにレースを積み重ねるウォーレットは、14分15秒を切るタイムを2回連続で叩き出しており、今季の女子5000mでランキング1位となっている。昨年以前のウォーレットは、ハイペースを保てずに後半で伸びなくなってきていたが、タイムだけを見る限りではその心配はなくなっているように、ヴァージンには思えた。
「On Your Marks……」
夕方近くの涼しい風がスタジアムを駆け抜ける中、女子5000mのライバルたちがスタート位置に集う。ヴァージンの目に、好タイムの狙えるアロンゾのトラックがはっきりと映る。
(私は負けない……。みんなより前に出て、私自身の記録を更新する……!)
号砲が鳴った。その瞬間、ウォーレットが他の全ての選手を引き離すかの勢いで前に飛び出す。ヴァージンがこれまで何度も見てきた光景だが、ウォーレットのスタートがこれまで以上に素早い。最初のコーナーを駆け抜ける頃には、ウォーレットがヴァージンをも数メートル引き離し、ヴァージンはウォーレットとその他のライバルたちの間に、一人で挟まれるような形になった。
最初の直線で、トラックを叩きつけるウォーレットの姿が、ヴァージンの目に飛び込んできた。
(やっぱり、ウォーレットさんの走り方が力強くなっている……)
ヴァージンはそう思って、すぐにウォーレットの足から視線を離した。だが、いくら力強い走り方を見たところで、ウォーレットのペースは、ラップ68秒前後とこれまでとほぼ同じペースだ。ラップ70秒を意識するヴァージンは、この時点で特段ウォーレットに合わせてスピードアップする必要はない、と心に決めた。
(最後の1000mでの勝負を前に100mの差をつけられなければ、私は勝てるのだから……)
トラックを4周、5周と駆け抜けるうちに、徐々にヴァージンとウォーレットとの差は開いていく。ヴァージンが3000mのところで記録計を見たときには、8分42秒という数字が目に飛び込んできた。対してウォーレットは、それより10秒ほど早いタイムで3000mを駆け抜けているように、ヴァージンの目には見えた。
(ウォーレットさんのペースが落ちない……)
昨年のネルスでの大会で、2400m過ぎにペースを落としたウォーレットが、この日は順調に飛ばしており、全くペースが落ちない。そう思ったヴァージンの脳裏に、ウォーレットのあの言葉が思い浮かんだ。
――完成した私の実力を見せてあげる。
ヴァージンは、ウォーレットを細い目で見た。その目に映るウォーレットの走りは、スタート直後のように力強さを見せている。それを見て、ヴァージンは少しだけギアを上げようと決めた。
(60mくらいの差がある……。この差を広げられたら、今のウォーレットさんのペースだと、もしかしたら私でも追いつくのは苦しいかもしれない……!)
ヴァージンは、右足にグッと力を入れ、残り1000mよりもはるかに前にペースを上げた。体感的にはラップ68秒ほどとウォーレットと同じスピードで、懸命にウォーレットに食らいつく。
だが、普段からヴァージンが意識してきた4000mを過ぎても、ウォーレットのペースは変わらない。ヴァージンは、4000mを過ぎたところでさらにペースを上げ、ウォーレットを追いかけるが、差が縮まらなかった。
4200mのヴァージンの通過タイムは、12分09秒。それでも、世界記録が十分狙えるはずのこのタイムを前に、ヴァージンに焦りの気持ちが生まれ始めた。ウォーレットは12分ちょうどで4200mを通過しているのだ。
(ウォーレットさんが……、本気で世界記録を狙いにきている……!)
ヴァージンは、普段より1周早く、意識的にトップスピードへの加速を始め、60m前を走るウォーレットを猛追する。体感的にラップ60秒を切るか切らないかのペースまで上げ、さらにギアを上げようとする。
(まず、ウォーレットさんには勝たなきゃいけない!)
最後の1周を告げる鐘が鳴り響いた。その瞬間、ウォーレットがこれまでよりもシューズを激しくトラックに叩きつけた。スタートから全く変わらなかったペースが、わずかながら上がっていく。一方ヴァージンは、懸命にペースを上げようとするが、もはや体が言うことを聞かない。全体的に早めにギアを上げすぎたことが尾を引き、ヴァージンが自慢としてきたスパートが不完全燃焼になってしまった。
ウォーレットとの差は確実に縮まっているが、最後のコーナーに挑むときには、ヴァージンにもはっきりとスピードが衰え始めているのが分かった。新たな世界記録誕生の瞬間を望む声援は、もはやヴァージンではなくウォーレットに向けられているようだった。
(世界記録……、破られるっ……!)
ヴァージンがそう思った瞬間、ウォーレットがゴールラインを駆け抜けていった。




