第27話 私たちの練習場(4)
レースが終わって3時間、夕闇が窓に大きく映える展望レストランで、ヴァージンはマゼラウスと向かい合わせに座っていた。マゼラウスのおごりで、独特の香辛料を多用するセルティブ料理のフルコースを食べる。
前菜を食べ終わり、ヴァージンがナイフとフォークを皿にゆっくりと置くと、マゼラウスが話を切り出した。
「あの時も話したが、今日はちょっとお前の将来のことを考えて欲しくて、長めの夕食を一緒に取ることにした」
「はい。でも、今後の私のことって言われても、いまいちピンと来ないです……」
アカデミーに入りたての頃は、結果を残せないことへの不安がくすぶっていた。だが、今やヴァージンは、誰もが認めるような女子長距離走のトップアスリート。この日のタイムが良くなかったとは言え、かつてのような切り口でマゼラウスから言われることはないと踏んでいた。
そのような中で、マゼラウスがヴァージンに軽くうなずき、やや時間をかけて口を開いた。
「ヴァージンよ。今の練習環境に、何か物足りないことはないか?」
「セントリック・アカデミーの……、練習環境ですか?」
「それしかないだろう。お前が一人の選手としてトレーニングを行う中、今の場所をどう考えているのか、だ」
マゼラウスの言葉の裏側に何かがある。ヴァージンは、そう感づいて言葉を探った。
「特に、不満はありません……。今まで6年近くアカデミーで過ごしてきて、練習できる環境は十分です。このような場所で、トレーニングできることが、未だに夢の中にいるような気がしてならないです」
「そうか……。ただ、ちょっとお前に話をしなければならないのは、その点だ。最終的に決めるのは、お前自身だから、私の話はあくまで参考として聞くだけにして欲しい」
マゼラウスのやや低い声に、ヴァージンは小さな声で「はい」と返す。すぐにマゼラウスが言葉を続けた。
「フェルナンドが、お前に対してやった嫌がらせは、あまりにも大きいものだ。そして、アカデミーが負ってしまった傷も、相当深い……。私としては、お前だけではなく、挑戦する心を持った全てのアカデミー生に、今まで通りの練習環境を与えたいと思っている」
マゼラウスが、じっとヴァージンを見つめている。ヴァージンの目に、もはや窓の外の景色は入らない。
「けれど、アカデミー、そしてセントリックそのものが、それを許してくれなくなっている。ヴァージンよ、お前の知っている限りでいい。ここ最近でアカデミーに関する不穏な動きを教えて欲しい」
(どうしよう……。グラティシモさんの決起集会に出たとは、表だって言えない……)
あの日以来、アカデミー生の誰もがそのことについてはコーチ陣に口を閉ざしている。グラティシモが何かしらの行動に出たという話も聞いていない以上、ヴァージンが率先して真実を明かすわけにもいかなかった。
ヴァージンは、少しだけ考えた後、短くこう言った。
「年会費の値上げをしようとしている、という話を聞きました」
「やっぱり、その話はアカデミー生に伝わっていたか……」
マゼラウスは、軽くため息をつき、グラスの水を飲んだ。そして、ややヴァージンに体を乗り出した。
「お前の言ったことは、事実だ。早ければ、来年分の年会費は今の10倍になる。そうでもしなければ、セントリックそのものが倒産してしまうようだ」
「セントリックが……、倒産するくらいまで追い込まれているんですか……」
「そうだ。ウェアの売上げは、事件が起きてから悪くなるばかりだ。セントリックとの契約を切るチームが数多く出ている。それに、フェルナンドがやったことそのものに対する批判も未だに根強い」
「やったことそのものに対しても、批判が続いているんですか……」
ヴァージンは、小さく息を飲み込んだ。それだけは、もう終わったことだと思っていた。
「今のお前なら、分かると思う。一人のアスリートの夢を潰しかけてまで、フェルナンドはグラティシモを守り通そうとした。そんな、スポーツマンシップのかけらもないスポーツメーカーに、お前は夢を感じられるか」
「感じられないと思います」
「だろ。お前がレースに出られなかった期間、アカデミーにはお前を擁護する、いくつもの手紙やメールが来た。お前宛と書かれてなかったので中身を読ませてもらったが、そのほとんどは、アカデミーやセントリックに対する批判から始まっていたのも事実だ」
マゼラウスは、胸ポケットから手紙を三つ取り出し、ヴァージンに手渡した。
「お前に対する応援のメッセージだが、ショックを受けるかも知れないと思って、私は今まで渡さなかった。今のお前なら、たぶん大丈夫だ。ちょっと、目を通して欲しい」
「はい」
ヴァージンは、ゆっくりと手紙を開いた。
(うそ……)
そこには、セントリック・アカデミーに対する糾弾のメッセージが、力強い筆跡で書かれていた。ライバルの夢を潰すような会社はスポーツブランドを名乗る資格がない、とか、アカデミーのトップは全員頭を下げろ、などの言葉がどの手紙にもあった。全般的な内容としては、ヴァージンに対する応援や擁護の文面だが、セントリックに対しては相当過激な言葉を使って非難していたのだった。
「私は、いくらお前に対する応援だとしても、この糾弾はあまりにもショックだった。ショックすぎて、言葉も出なかった。それから、私はこのアカデミーと、お前自身の将来をずっと考えていた」
「コーチ……」
ヴァージンは、やや小さい声でそう言ったが、その続きが出てこなかった。マゼラウスが、何かを言おうとするヴァージンの動きを細い目で見つめ、静かにこう言った。
「もはや、セントリック・アカデミーは崩壊しているのかも知れない」
(セントリック・アカデミーが……、崩壊している……)
ヴァージンは耳を疑った。グラティシモたちがアカデミー生を守るために動いている中、その内部にいるマゼラウスがはっきりと「崩壊」の二文字を口にしたのだった。
「崩壊……、ということは、アカデミーはこの先……、どうなってしまうんですか……?」
「まず、お前も含めて本社の方針に不満を示すだろう。コーチとアカデミー生との関係が悪くなり、やがてアカデミー生はここから姿を消す。そうなったら、セントリック・アカデミーは終わりだ」
「そんなことないと思います。セントリックと私たちが、うまく折り合いをつけることはできると思います!」
「そうか……。お前が素敵だと言った、今の練習環境はそのまま残ると思うのだな……」
「勿論です。今はフェルナンドさんの問題で非難を浴びていますが、いつかは元通りになると思います」
ちょうどその時、二人の目の前に卵とタマネギのスープが運ばれてきた。マゼラウスは、やや熱くなっているカップを持ち上げ、スープを軽くすすった。そして、カップを置くと、ヴァージンを見つめながら言った。
「お前は、昔から前向きに物事を考えている。それは、夢を追い続ける人間として、ものすごく大事なことだ。だが、お前は時として、前向きに考えた結果、違う方向に体を向けてしまうことがある」
「やっぱり、よく言われる世間知らずってことですか……?」
「平たい言葉で言えば、そうだな。ただ、それが間違った方向なのかどうかは、結果だけが教えてくれる。お前にも、お前なりの見方があるわけだからな」
「はい……」
「道は、お前が決めるんだからな」
そう言うと、マゼラウスは再びカップを持ち上げ、今度は一気にスープをすすった。ヴァージンはカップを持ったまま、しばらく口に運ぶことができなかった。
結局その日は、ヴァージンの将来についてマゼラウスの口から事細かに語られることはなかった。だが、それはオメガ国に戻り、早朝トレーニングのためにアカデミーのロビーに入ろうとした瞬間、ヴァージンの耳にも明らかになった。
「おい、マゼラウス!アカデミーから引き抜くとはどういうことなんだ!」
「その話は、あくまでも構想段階のものだ。しかも、そのことを本人も嫌がっているみたいだ」
(CEOの声だ……。なんか、私のことを言われているような気がする……)
ヴァージンは、その声に振り向くことなくロッカールームに向かおうとする。だが、その間も会話は止まない。
「本当か?机の下に、この移籍要望書が落ちていた。あとはヴァージンのサインだけになっている」
「だから私は、それを本人に見せてはいない。具体的な話も煮詰まっていない中で、何故話を進める」
「まぁいい。だが、アカデミーとして、世界一の実力がある選手に出て行かれたら困る。それだけは覚えとけ」
厳しい口調で、CEOのウィナーがマゼラウスに釘をさしたようだ。その会話をたまたま聞いてしまったヴァージンは軽くうつむき、それからすぐに上を向いた。
(私が、間違った方向に進んでいると決まったわけじゃない。ここで、頑張るしかないんだから!)
ヴァージンは、小さく息をついて、トレーニングウェアに身を包んだ。