第27話 私たちの練習場(3)
セルティブ王国南部にあるラガシャ。4月にしては眩しすぎるほどの日差しがスタジアムを照りつけていた。この日がアウトドアシーズンのスタートとなるヴァージンは、ホテルから一歩踏み出し、思わず空を見上げた。
(暑い……。セルティブ王国は、こんなに暑くなるところじゃないはずなのに……)
予想最高気温32度は、4月としてはほぼ観測のない高温だった。だが、同じ高温でも、夏であれば決勝などの重要なレースは暗くなってから行われるが、この日の女子5000mは14時35分スタート。コンディションとしては最悪と言ってもいいレベルだ。
(でも、暑いのはみんな同じ。その中で、私がどれだけ自分を出し切れるか。それがレースなんだから)
ヴァージンは、顔を元に戻し、歩いて10分のところにあるスタジアムへと足を進める。自分では変えることのできない気候よりも、メンバーのことを考えようと、ヴァージンは気持ちを切り替えた。
この大会にエントリーしている強豪選手は、メリアムぐらいだとヴァージンは聞かされていた。ウォーレットは夏以降多くの大会に出るという話も聞いている。だが、そこまで考えた後、ヴァージンはふと一人のライバルの名前を思い出した。グラティシモだ。あの決起集会から、交渉については音沙汰がなかった。
(グラティシモさん、ラガシャの大会に出ると言っていたような気がするのに……、全く見ない……)
ヴァージンは1週間前に、グラティシモ本人からエントリーしたということを聞いている。だが、セルティブに向かう飛行機の中でも、ほとんどのライバルが押さえているはずのホテルの中でも、その姿を見なかった。
そして、選手受付までやってきて、ヴァージンは事実を知ることとなった。
(グラティシモさんの……、名前がどこにも見当たらない……!)
女子5000mの出場選手シートの一番下に、グラティシモの名前が二重線で消されていて、赤で「DNS」と書いてある。Do not start、つまりレースに出ないということである。
(グラティシモさんは、レースの合間を縫っていろいろやっている……。だから、今日は回避したのかも……)
ヴァージンは、決起集会の日に見た真面目なグラティシモの表情を心の中で思い浮かべながら、選手受付を済ませゼッケンを受け取る。グラティシモが、まさに今動いている可能性もあるが、それは気にしないことにした。
集合時間が迫るにつれ、スタジアムを吹き抜ける風は熱くなった。普段はウェアを優しく包み込むはずの風が、この日はウェアを燃え上がらせるような激しさを帯びていた。予想最高気温が完全に当たっていた。
(夏場のトレーニングでは、このコンディションで走ったことはあるけど……、本番では初めてかも……)
照りつける日差しの中、ヴァージンはシャツを脱ぎ、レーシングトップス姿で集合場所に向かう。これから走るトラックをその目に見つめた後、その前で軽く体を揺らすメリアムの姿に目をやる。
(今日こそ、私は1年半ぶりにアウトドアの記録を更新してみせるから)
「On Your Marks……」
トラックの上を、ヴァージンのシューズが軽く踏みつける。号砲を待つ間にも、日差しがライバルたちを、そしてヴァージンを照りつける。この日は、スタートまでの時間が普段よりやや長く感じた。
(よし……!)
重い号砲が鳴り響き、ヴァージンは一気に飛び出した。10000mのラップトレーニングもこなしているが、ヴァージンは5000mでのラップ70秒ペースをすぐに思い出す。最初のコーナーを回ったときには、既に体感ではラップ70秒のペースで駆けているように思えた。
だが、この日のレースは普段と様子がおかしい。1周を終えても、メリアムが前に出てこない。
(メリアムさんが……、今日はレースを引っ張っていない……)
ヴァージンは、後ろを振り向くことなくメリアムの足音を感じ取ろうとした。だが、足音と息遣いから察するに、ヴァージンの後ろには7、8人のライバルがひしめき合っているようで、メリアムがその中から抜け出しているようではなさそうだ。3周、4周とラップだけが増えていくが、状況は同じだ。
(ということは、みんなが私の後ろを追いかけている……)
ラップ70秒で走っていて、世界記録をも争うような強豪を除けば、後続を引き離せないレースはそれほどなかった。考えられることは、一つしかない。嫌な予感とともに、ヴァージンは4周半のところで記録計を見た。
(5分25秒……?)
記録計は目標よりはるかに遅いタイムを映し出していた。ラップ70秒で駆け抜けていれば、1800mでは5分15秒であり、トレーニングでもそれに近いタイムを出し続けてきた。だが、この日はラップ70秒のペースで走っているつもりが、それよりやや遅い、ラップ72秒ペースに成り下がっているのだった。
(ストライドが、いつもより小さい気がする……。いつものペースに乗れない……)
その時、ヴァージンの足は普段なら感じることのない光を感じた。焼けるような日差しが、容赦なくヴァージンのシューズを熱くしていく。加えて、吸い込む空気までもが熱い。この段階では滅多に流れない量の汗が、額を覆っていて、ヴァージンは首を横に振って汗を落とすしかなかった。
(この熱いレースで、やっぱりペースを乱される……。でも、その中で私は先頭を切るしかない……)
2位集団がこの時点で4人ほどになったとは言え、本来のペースを掴めないヴァージンに食らいついている。そして、ヴァージンがペースの異変に気付いてから3周、3000mを過ぎたあたりで、ついにヴァージンは背後から足音が近づいてくるのに気が付いた。
(メリアムさんが……、ここで動き出した……)
普段のレースでは見せない、ゆったりとした走りを続けてきたメリアムが、ここで軽々とヴァージンの真横に並ぶ。メリアムのペースは、体感的にラップ70秒ほど。ヴァージンの本来出せるペースだった。
(ここまで来て、抜かされるわけにはいかない……)
ひらりとかわして前に出たメリアムを、ヴァージンは睨み付けた。そして、本来のペースに戻そうと、徐々に落ちていったギアを再び上げていこうとした。
(……っ!)
だが、ギアを上げようとしたヴァージンは、体が重くなっていることに気が付いた。これまでこのコンディションの中でレースを引っ張ってきた代償は、ここに来てはっきりとヴァージンの身に現れたのだ。
(ペースアップしたいはずなのに……、体がそれをためらっている……)
ヴァージンは、ラップ72秒のペースに戻すのがやっとだった。じわじわとメリアムに差をつけられる。これまで何度も勝負してきた中で考えれば、二人の差はそれほど大きくなかったが、得意としてきたスパートにかけるパワーがほとんどないヴァージンにとって、追い越すための許容範囲は通常より相当狭まっていた。
そして、ペースが上がらないヴァージンは、これまで後ろをつけられてきたはずのライバル数人に追い抜いてしまった。ヴァージンは、首を横に振った。
(ラストスパート……。私は、それで数々の記録を打ち立ててきたはず……!)
間もなく残り1000mになる。一気に5位まで落ちたヴァージンは、4000mのラインを駆け抜けた瞬間、ストライドを大きく取った。普段のようなトップスピードに近づけるため、ヴァージンは懸命にその足を前に出す。一人、二人と抜き返し、残り1周となったときには、ついにヴァージンの前を走るのはメリアムだけになった。
(あと1周で、20mくらいの差……。私はこんな中でもベストを尽くす……)
ヴァージンは、さらにギアを上げようと右足に力を入れる。ほとんど発したことのない苦しい呼吸とともに、ヴァージンは懸命にメリアムを追いかける。
だが、ラップ67秒ほどのところで、もはやヴァージンの足はそれ以上スピードアップできなかった。逆に、メリアムがそれ以上のスピードで、ヴァージンを引き離していく。
(体が……、苦しい……!)
ヴァージンの目の前で、メリアムがゴールラインを割るのが見えた。その後、ヴァージンは全く記憶がないまま、ゴールラインの先で倒れ込んだ。
ヴァージンの記録は、15分02秒29。対して、メリアムだけがギリギリ14分台でレースを終えた。タイムを知ったヴァージンは、荒れた呼吸を引き摺りながら、マゼラウスの待つ観客席に向かった。
「暑い中でのペース配分がなっとらんな……。メリアムの作戦勝ちというより、お前の作戦負けだ……」
「はい」
マゼラウスは、やや低い声でヴァージンに告げる。もはや分かりきっていたが、ヴァージンはうなずくしかなかった。だが、すぐにマゼラウスはヴァージンに言葉を続けた。
「あと、これだけは確認したい。グラティシモのことを気にしていなかったか……?」
「いえ……、特には……」
ヴァージンは、マゼラウスの目をじっと見た。どうやら、グラティシモの動きがマゼラウスにも伝わっていることは間違いなさそうだ。
その時、マゼラウスがヴァージンにこう告げたのだった。
「ちょっと今日、二人きりで晩飯でも食わないか。今後のお前のことで、ちょっと話をしたい」
「はい」
ヴァージンは、ためらうことなくマゼラウスに言葉を返した。