第27話 私たちの練習場(2)
(どうしよう……)
グラティシモから告げられた決起集会まで1日、また1日と短くなっていく中で、ヴァージンはトレーニングから帰るとグラティシモの顔を思い出すようになった。トレーニングで見せる10000mのタイムも、特段心配事などなさそうな結果を出しているが、いざトレーニングが終わり、セントリック・アカデミーの敷地を出た瞬間から、アカデミーの未来を考えてしまうのだった。
あの日、ヴァージンは決起集会に行くと答えるしかなかった。練習する場所がなくなる、とグラティシモから何度も言われたヴァージンは、それを否定することができなかった。
(でも……、なんだろう……。うまく言葉にできないような気持ちが、どこかにある……)
そうこうしているうちに、ヴァージンは決起集会当日を迎えることになってしまった。
夜8時。普段なら夜間のトレーニングに励むアカデミー生もいる中で、この日に限ってアカデミーにはほとんど誰も残っていなかった。ヴァージンは、静まりかえったアカデミーを後にし、歩いて15分ほどのところにある小さな貸し会議室に向かった。そこに、トレーニングを終えたばかりのアカデミー生が60人ほど集まっていた。
(思った以上に、人が集まっている……)
入口には「セントリック・アカデミー」としか書かれておらず、また室内にも特段それを示すような横断幕などは飾られていなかった。また、特段正装をしているわけでもない。だが、正面を向いたまま椅子に座り、ひな壇に座るグラティシモを誰もが一心に見ている姿は、ただ事ではない予感をヴァージンに与えていたのだった。
やがて、グラティシモが立ち上がり、一礼する。そして、素早くマイクを手に持った。
「今日は、私たちのアカデミーを守るために、これだけ多くの選手がお集まり頂き、本当にありがとうございます。トレーニングでお疲れのところ、こんな夜も遅い時間帯に、こうしてアカデミーの将来を考えて下さる方が多くいて、声を掛けた私は、何よりも嬉しく思います」
(グラティシモさんの雰囲気……、なんかいつもと違うような気が……)
グラティシモよりはるかに先輩のアカデミー生もいる中、グラティシモが丁重に言葉を告げる。後輩のヴァージンは、グラティシモの落ち着いた声に驚きながらも、黙ってその姿を見るしかなかった。
「さて、皆さんはご存じだと思いますが、私の前のコーチ、ポールマン・フェルナンドによる、一連の不祥事により、セントリック本社、そしてアカデミーは大きな損害を受けました。セントリック社の製品にありもしない針が埋め込まれていたり、オメガ財務省から利益を剥奪されたり、一人で政界とつるんでいたり……。とても、私たちのメンバーとして考えられない行為を、残念ながらフェルナンドはしていました」
そこまで一気に言ったグラティシモは、かすかにうなずいて、ヴァージンと1秒だけ目を合わせた。
「フェルナンドは、先日アカデミーから追放されました。ですが、それだけで私たちの危機は終わりませんでした。アカデミーへの協賛スポンサーも手を引き、本社の業績も苦しくなり、ついに私たちにまでそのしわ寄せが来るようになりました」
そう言うと、グラティシモはスクリーンに一つの表を映し出した。
「今まで、私たちはトレーニングをアカデミーでして、食事までそこで取ることができました。人によっては居住スペースまで与えられていました。私たちは、わずか年1万リアという破格の年会費を払うだけで、アスリートとしての生活を不自由なく行うことができました。けれど、これがいま大きく変わろうとしています」
グラティシモが、そこでマウスをクリックした。すると、スクリーンに映し出された10000という文字の横に、「0」という数字が一つ付け加わり、会議室はどよめいた。
「新しいコーチを告げられる席上、私はCEOから年会費の値上げを告げられました。それが、この10万リアです。一気に、私たちの負担が10倍になるのです!」
(そんなの、聞いたことないです……!)
スクリーンに映し出されたその数字にいくつもの怒号が上がる中、ヴァージンは息を飲み込み、声にならない声をグラティシモに発した。ヴァージンですら、膝がガクガク震えていた。
「セントリックの業績がよくないという話は知っていましたが、私は数千リア程度の値上げで済むと思っていました。けれど、10万リアと言えば、私たちが今払っているものの10倍になります。オメガの一般の家庭だけではなく、私たちだって、年10万リアの賞金を取れるのは、ほんの一握りだと思うのです」
その時、会場の後ろの方から、耐えきれなくなった一人の青年選手が立ち上がった。ヴァージンが振り返ると、ハンマー投げか砲丸投げを専門としているような太い腕が、その目にはっきりと映った。
「こんな年会費をつり上げて、俺たちは、ここにいるな!ということなのか……!」
それに合わせるかのように、数多くの選手が一斉に気勢を上げる。グラティシモが再びマイクを口元に近づけるまで、年会費の値上げに対する不満がやむことはなかった。
「皆さんが怒るのは、無理はありません。残念ながら、セントリックは失った利益を私たちから補填しようとしているのです。これが通れば、私たちの多くはここにいられなくなります。まだ現役を続けたいと思っている仲間たちが、ここを去ることになるのです!」
グラティシモの一言で、ヴァージンは左右に首を軽く回した。そこには、アカデミーで知り合った数多くの仲間の表情がはっきりと見えた。その多くが姿を消してしまうことは、ヴァージンにも考えられなかった。
「だから私たちは、この素敵な練習環境を守るために、立ち上がらなければいけません!何としても、アカデミーの年会費の値上げ阻止、セントリック本社からの支援維持を貫かなければいけません!セントリックの危機を私たちにまで巻き込まないで欲しい。今日、私たちは練習場を守るため、立ち上がるのです!」
グラティシモが軽く一礼する中、湧き上がる拍手。ヴァージンも、やや遅れるようにして数回だけ手を叩く。そして、拍手が静まりかけた瞬間、グラティシモはマイクでヴァージンの名を呼んだ。
(私もしゃべるなんて……、何も聞かされていない……)
ヴァージンは、再び息を飲み込み、それでもやや早足でひな壇へと上がった。すると、グラティシモがヴァージンを手招きし、グラティシモの横に立たせた。
「ヴァージン・グランフィールド。彼女は、ご存じの通り女子5000mのスターですが、今回の不祥事の発端は、彼女を私たちから引き離そうとすることで起こりました。フェルナンドは、私を再び世界の頂点に立たせるために、ヴァージンの出身国の出来事を使って、私の最大のライバルをレースから遠ざけました。私以上に真面目に練習しているヴァージンは、何も悪くないのです……。事件の全てを知ったとき、どういう気持ちになったか、ヴァージンの口からみんなに告げて欲しいのです」
そう言うと、グラティシモはヴァージンを横目で見ながら、持っていたマイクを手渡す。ヴァージンは1秒だけ間を置いて、小さくうなずき、マイクを近づける。
「はい。私は、フェルナンドさんから全てを聞かされたとき、今まで生きてきて何度もないくらい、頭の中が真っ白になりました。もしかしたら、初めて怒りという言葉を自分の体で知ってしまった瞬間かも知れません」
そう言うと、ヴァージンはグラティシモにマイクを返す。すると、すぐにグラティシモがこう尋ねる。
「ヴァージンは、全ての預金や賞金が手元から消えていく中で、少しだけポスティングのバイトをしていました。本業ではないバイトをしているとき、どういう気持ちでしたか?」
「正直に言えば、楽しくなんかなかったです。1日の仕事が終わって、その場でお金を受け取っても、嬉しくなんかありません。早くレースに戻りたいという気持ちと、何のために走っているのかという気持ちが交互に生まれてきて、今から思うと、走り終えたときとは違った苦しさが私を襲いました」
ヴァージンは、そこまで言い切ると、グラティシモにマイクを戻そうとする。だが、その時ヴァージンの目に多くのアカデミー生の表情が浮かび、ヴァージンは手を止めた。
(怯えている……。もしかしたら私の辿ってきた足跡に……、みんなが怯えているのかも知れない……)
アカデミー生の表情は、ヴァージンの目にはどこか寂しそうに見えた。夢を失ったまま、ヴァージンと同じように彷徨ってしまうような雰囲気さえ飛び込んでくる。
(あの時の私のようになってしまったら……、戻るのはとても難しくなってしまう……)
ヴァージンは、首を軽く横に振り、戻しかけたマイクを再び近づけた。
「私だって、本心は夢を捨てたくなんかありません。でも、環境を失えば、強く思っていたはずの夢までが揺らぎ始めてしまうのです。夢を持ってアカデミーに入ってきたのに、追い出されてしまうなんて考えたくないです」
「よく言ったわね、ヴァージン!」
グラティシモがマイクを持たずに、ヴァージンの言葉に想いを重ねる。その声で我に返ったヴァージンは、急いでグラティシモにマイクを返した。
「いま、ヴァージンが言ってくれた通りです。私たちは、夢を実現するためにこのアカデミーに入ったはずです。それを奪おうとするのは、決して許されるものではないと思うのです」
そう言うと、グラティシモはヴァージンの右手を取り、そのまま一気に高く上げた。再び、割れるような拍手が会議室の雰囲気を盛り上げた。
「だから、私たちみんなが手を取り合いましょう!この素敵な練習環境を守り抜くために!」
その後、アカデミーの方針に意見を述べる選手が続出し、怒号に包まれる中で夜10時近くまで続いた。グラティシモは、決起集会の解散を告げると、まずヴァージンのもとに駆け寄った。
「今日は、こんな物々しいイベントに来てくれて、本当にありがとう」
「はい……。でも、今日やっと、アカデミーを守らなきゃいけないということが分かったような気がします」
「それよ、ヴァージン。あの言葉を聞いたとき、ヴァージンにもちゃんと想いが伝わったと思ったの」
ヴァージンは、グラティシモが微笑んだ瞬間、マイクを持ちながら言った言葉を頭の中に思い浮かべた。それを思い浮かべた瞬間、ヴァージンは首をかすかに横に振った。
「グラティシモさん。あれは、グラティシモさんに合わせて言った言葉じゃないのかも知れません。本能です」
「本能……?」
「私は、ライバルと勝負ができなくなる現実を、見たくないんです。あの時みんなの顔を見て、そういう気持ちが湧き上がってきたんです……。だから、この場所を守らなきゃいけないと思ったんです……」
「なるほどね……。そう思っている人は、ヴァージンだけじゃない。私も、少しだけそう思う」
グラティシモが、はっきりとうなずく。その目は、ほんの少し潤んでいた。
「ヴァージン。私、CEOやセントリック本社との交渉、頑張るから。ヴァージンから力をもらったような気がする!」
「私たちの未来のために、期待しています……」
ヴァージンは、グラティシモの手を取り、右手同士で握手した。二人の手は、熱かった。