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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
突然の別れは奇跡の出会いの始まり
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第27話 私たちの練習場(1)

「今年の君は絶好調だよ、本当に。インドア記録2回出してるくらいだから、夏に期待するよ」

「ガルディエールさん、ありがとうございます!」

 アムスブルグでの大会が終わって1週間が経った頃、夜ワンルームマンションに代理人ガルディエールから電話がかかってきた。ちょうど机に向かって「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の最新号を読んでいたときに電話がかかってきたため、ヴァージンは自分が室内記録を出したレースのページを広げ、相手に見えるわけもないのに電話口に向かってそれを見せようとしたくらいだった。

「で、君に確かめたいんだけど、4月とか5月とか、一昨年と同じくらいレースを入れて大丈夫かな?これから、君のコーチにも電話するつもりなんだけど、体調は特に問題ない?」

「大丈夫です。むしろ、今だったら14分11秒97のワールドレコードも打ち破れるような気がします!」

「その意気だ!きっと、多くの人が君の次の記録を待っていると思うよ」

 ガルディエールは、半分笑いながらそう言った後、ヴァージンに次のレースの予定を告げた。4月にセルティブ王国のラガシャで行われるレース、6月に一つ前の世界記録を叩き出したアロンゾでのレース、7月にオメガのサウザンドシティで行われるレース、そして8月の世界競技会と、女子5000mのレースが4回続く。さらに、それに続けてガルディエールがヴァージンにこう尋ねた。

「それと、これはまだ調整中だけど、世界競技会で5000と10000の両方出てみないか?」

「10000mですか……!なんか、トレーニングだとやってますが、レースはすごく久しぶりです」

「そうだな……。でも、君なら何とかなるかも知れない。もし10000mでエントリーできそうなら、一昨年より多少本番の回数は増える。けれど、一つ一つのレースを大切に頑張るんだよ」

「ガルディエールさん。分かりました」

 ヴァージンは、ガルディエールとの電話が切れると、軽く天井を見上げた。夏までに、例年になく本番をこなす。言ってしまえば、記録を量産できる可能性だってある。そう、ヴァージンは信じていた。


「10000m、まずは本番で確実に30分台前半を出せるようにしなければいけないな」

 それから数日後には、マゼラウスから夏の世界競技会に向けて10000mのトレーニングもすることを、ヴァージンは告げられた。トレーニングでは何度か30分台を叩き出すこともあったが、5000mと10000mの両方で臨んだ、一昨年の世界競技会では31分38秒29で終わっている。短期間で本番が二度回ってくることを考えれば、確実性が求められるのも無理はなかった。

 ヴァージンに与えられたメニューは、単純に31分00秒をトラック25周で割った、ラップ75秒のペーストレーニングだった。厳密には、ラップ75秒で走り続ければ31分15秒になってしまうが、5000mのときに集中的に行ったラップ70秒と同様にペースを掴むことに、このトレーニングの目的があった。さらに、10000mのラップ75秒トレーニングを毎日行うのではなく、数日おきに5000mでのラップ70秒トレーニングも行うなど、2種目両輪でラップタイムの定着をはかるように調整が行われた。


 とは言え、二つのテンポを同時に維持させるのは、ヴァージンにも厳しかった。

「ちょっと速すぎるかな、ヴァージン。足が自然とラップ70秒になりたがっているように見える」

 3月下旬のある日、10000mを走り終えたヴァージンにマゼラウスがやや早足で歩み寄る。ストップウォッチに映るタイムこそ、31分12秒28で平均的には目標のラップをクリアしているとは言え、この日のヴァージンのテンポには、ヴァージン自身も気付くほどムラがあった。

「たしかに、お前の一番の専門は5000m。だが、今日は10000mをやってるにも関わらず、やっぱり5000mを意識して、ペースが多少速くなったりするようだ」

「はい」

 ヴァージンは走っている間、ペースが速くなってる、という声を何度も聞いた。それが、走り終えてもなお、頭の中に蘇ってくる。そして、何度かギアを上げてしまった足の感触も。

「とりあえず、ヴァージン。世界競技会の本番までにもう一回本番を作った方がいいのかも知れないな。ライバルのいる前で、ラップ75秒を意識した走りができるかどうか……」

「はい。できれば、そうしたいと私も思っていました」

「決まりだな。目標は決まったから、それまでの間にラップ75秒を定着させること」

 マゼラウスの声が、アカデミーのトラックに響く。ヴァージンは、それに合わせて力強く返事をした。


 その日の夕方、トレーニングを終えたヴァージンがロッカールームに入ると、その入口でグラティシモがボストンバッグを持ったまま立っていた。ヴァージンの戻りを待っていたようだ。

「グラティシモさん。こうやって待っていたということは、私に話があるんですか?」

「ちょっと、ヴァージンだけに折り入って話をしたいことがあって……。ここで軽く晩飯食べたら、帰り一緒に近くのカフェとか行かない?」

「別にいいですよ。今日は特にこの後何もないですし」

 アカデミーで長いことグラティシモと顔を合わせているが、トレーニングの帰りにカフェに誘われることはこれまで一度もなかった。それだけ、グラティシモの話は重要なものなのかも知れない、とヴァージンは感じた。

「じゃあ、6時半ぐらいにロビーで待ち合わせ、いいね!」

「分かりました」


 それから2時間後、ヴァージンとグラティシモはゆったりとしたジャズの流れるカフェの、一番奥の二人席にいた。二人の間には、レモンティーが注がれたガラスのコップが二つ。ヴァージンは、その向こうにグラティシモが何かを言いたくて仕方ないように、体を微かに動かしているのが分かった。

 コップの3分の1ほどを飲んだヴァージンは、両手を膝の上に置き、グラティシモを見た。

「グラティシモさん。今日は、カフェに誘ってくれて、本当にありがとうございます」

「気にしないで、ヴァージン。私から勝手に誘っちゃってるだけだから」

 そう言うと、グラティシモは小さくうなずき、両腕をテーブルの上に置いて、ヴァージンに体を乗り出す。

「そうそう。この前、アカデミーの危機は終わってないって話をしたと思うんだけど、覚えてる?」

「覚えてます。たしか、結果を出すことで協力して欲しい、とか言ってたと思います」

「そうね……。そういう話はした。でも、やっぱりそれは違うのかなって思う」

 グラティシモが、目線をやや下に向ける。ちょうど、レモンティーの氷がかすかな音を立てて傾き、その音でグラティシモが再び目線をヴァージンに戻した。

「どう思ったんですか……。グラティシモさん」

「私たちには、そんな悠長なことを言ってられない。たしかに、アカデミーがいろいろ言われている中で、それに負けずに結果で答えることは大事だけど……、それ以上に自分たちの身を守らないとダメって思った」

「身を守る……。それって、どういうことですか?」

「簡単よ。私たちが、力ずくでアカデミーの危機を食い止める。力というか、私たちが立ち上がるというか……」

 ヴァージンは、グラティシモの体がこれまで以上に震え上がっていることに気が付いた。グラティシモとしても、あまり言いたくない言葉を言っている。そうヴァージンには映った。

「えっ……、グラティシモさん……。もしかして、直接CEOに直訴とかするんですか……?」

「そのつもり。でも、誤解しないで。これは私だけで始めようと思ってないし、既に何人かのアカデミー生が私を頼ってそう言っているの。例えば、ハードルのヤイブラスとか、幅跳びのマックウェルとか……」

 ヴァージンはほとんど話したことがなかったが、グラティシモから出てくるアカデミー生の名前は、それなりに大会で上位の成績を収めている有名選手に違いなかった。そして彼らは、一連の不祥事を生んだコーチの下にいたグラティシモを、その中心に据えようと動いていたのだった。

 そして、グラティシモは再び小さくうなずくと、ヴァージンにさらに体を乗り出した。


「ヴァージン。私は、アカデミーを変えなきゃいけないと思う。セントリックも変えなきゃいけないと思う。たしかにトレーニングだって大事だけど、このまま私たちの居場所がなくなったら……、悔しくて仕方ない」


 グラティシモが力強く言うと、ヴァージンはやや眺めに静寂の時間を取り、グラティシモに返した。

「私だって、その気持ちは分かります。居場所がなくなったら……、って考えたくもないです、けど……」

「じゃあ、ヴァージンは私たちと一緒ね……。ヴァージンこそ、今回の最大の被害者だもの!1週間後、トレーニング終わったら決起集会をやるんだけど、来てくれない?」

「……やっぱり、私が行かなきゃダメですか?」

「もちろんよ」

 ヴァージンは、グラティシモに迫られ、思わず体を震わせた。展開が急すぎる、としか思えなかった。

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