第3話 たった一度きりの世界への挑戦(6)
(うそ……)
これまでライバル二人の5メートル後ろを走っていたヴァージンの視界に、突然バルーナの姿が大きく飛び込んできた。みるみるうちに、シェターラとバルーナの間が開いていく。バルーナの走るスピードは、走っているヴァージンから見てもやや落ちているように見えた。表情も苦しそうだ。
それは、逆にヴァージンにとってチャンスだった。追いつかなければならない相手は、もう一人しかいない。
(よし……!)
ヴァージンは、バルーナの右に躍り出ると、その疲れ切った表情など見向きもせずにバルーナを抜き去った。そして、この半周で数メートル間隔が開いてしまったシェターラ目がけて、わずかにスピードを上げる。少しずつではあるが、シェターラの体が大きくなり、やがてヴァージンはシェターラの真後ろについた。
(あと4周……)
その時、シェターラが思わず後ろを振り返った。ヴァージンの鼓動にここでようやく反応したのだった。シェターラの死に物狂いの眼差しに、ヴァージンの表情も幾分険しくなる。本当の勝負の時が始まりを告げる、と二人が同時に思ったとき、シェターラのトラックを蹴る足が一気に軽快になった。
(……ペースを上げた!)
ヴァージンがこの1週間ランニングマシンのスピードを上げたのは、残り1000m程度のところからだった。それをほぼ毎日見ているシェターラは、自分がその実力を認めたライバルとの勝負に勝つために、残り1600mからスパートをかけた。
だが、ヴァージンを次第に引き離しにかかる彼女のスピードは、残り1000mからヴァージンが出すスピードにははるかに及ばない。それが、シェターラの強さであり、かつ今の彼女にはその程度の実力しかなかった。
(勝てる……!絶対に、抜き去る……!)
もう一段、二段ギアを上げていくことができるヴァージンは、スピードを上げたシェターラとの距離を保ったまま、普段自分の見せている勝負に持ち込もうとした。そして、1分と少し粘って、残り3周を数えたとき、ヴァージンは右足を力強く前に踏み出した。
スピードを限界近くまで上げたヴァージンの視界に、シェターラの茶髪が大きく映り、そして彼女の茶髪が左に消えると、目の前にライバルの姿はなくなっていた。しかし、まだシェターラの動きは鈍っておらず、逆にヴァージンを再び抜こうと体に激しく鞭を打っているような鼓動さえ、ヴァージンには聞こえた。
(最後まで、私はスピードを緩めない!)
懸命に追い上げるシェターラを振り切り、ヴァージンは最大のライバルとの距離をじわじわと広げていく。それが、自分をライバルと認めたシェターラへの恩返しでもあった。
そして、目の前にゴールラインが飛び込んできた。どよめきに近い歓声が鳴り響く中、ヴァージンはその右足でゴールラインを誰よりも先に蹴り上げた。
(やった……!)
ゴールを駆け抜けたヴァージンは、大会事務員にタオルを渡されるよりも早く、両手の拳を丸めたまま後ろへと引き、溢れんばかりの喜びを表現した。誰よりも早く受け取ったふかふかのタオルで、額と首回りと腹に溜まった汗を拭うと、ゴール脇に置かれたタイマーを見る。
「14分57秒38……!」
自分の運命を懸けた勝負の中で、自己ベストを大幅に更新した喜び。そして、初めて15分の壁を打ち破った達成感。まだ赤く輝き続けようとする夕暮れの空が、世界の強豪との勝負に打ち勝ったアメジスタの少女、ヴァージンの姿を眩しく照らしていた。
(私は……今日、世界で誰よりも早く、5000mを駆け抜けた……)
しかし、ヴァージンは孤独だった。
ゴールで出迎えてくれるライバルはおろか、自分を支えてくれる人すらこの場に誰もいなかった。
ふと後ろを振り返ると、コーチに抱きかかえながら悔しさを吐き出すシェターラの姿が映った。大会4連覇を逃したシェターラは、何度も首を横に振り、荒い呼吸の中で、コーチに向かって「本物」という言葉をしきりに繰り返していた。
シェターラに声を掛けられるのは、まだ時間がかかりそうだ。そう思い、ヴァージンは再び顔を正面に戻した。
「あれ……。あなたは……」
頭の上の方まで刈り上げた黒髪に、ヴァージンはそれがバルーナだと分かった。
「初めまして」
「……?」
バルーナは、自分に何かを言っている。しかし、アドモンド共和国の公用語であるアドモ語は、外国語をまず学ぶ機会のないアメジスタの出では全く分からなかった。しかし、必死に何かを語りかけようとしているバルーナの表情に、ヴァージンは思わず右手を伸ばした。
「よろしく」
すると、バルーナも同時に手を差し出し、汗いっぱいに染まった右手でヴァージンの右手をやや強く握りしめた。
「こちらこそ。優勝おめでとう」
「……ありがとう」
バルーナの言葉の全部は分からないが、「おめでとう」のところが何となくアメジスタ語のそれに聞こえたことに、ヴァージンの表情は少しだけ緩んだ。ヴァージンが首を縦に振ると、バルーナの首もわずかに縦に振れた。
惜しいところまでシェターラと勝負しながらも、彼女の結果は少なくとも3位以下。最後失速したことを考えると、シェターラよりもはるかに悔しいはずなのに、バルーナの表情はさばさばとしていた。
(シェターラさんやバルーナさんと、また一緒に走りたい。のに……)
お互い同じ距離で勝負に挑むライバルたちと、こんなにも親しく付き合うチャンスが生まれる。ヴァージンは、その世界を離れたくはなかった。
しかし、これでもう自分の出場するレースは終わってしまった。あとは、グリンシュタイン行きの便で世界一貧しい国へと戻ることしか彼女のスケジュールにはなかった。
アドモンド共和国からこの大会のためにオメガに渡ったバルーナにも、後ろに黒い肌をしたやや筋肉質の男性が腕を組んで彼女を見つめていた。彼女は、その実力を買われて、その実力をさらに伸ばしてくれる人物に巡り合えたのだった。
(私は……)
事務員の言われるままに表彰台に上り、右にシェターラ、左にバルーナと世界でもその名の知られる選手に挟まれたヴァージンの表情は、どこか名残惜しさを見せていた。表彰台の正面から見える、国旗の掲揚台の真ん中にだけ何も掲げられなかったことも、記念品を受け取るヴァージンをより一層物悲しくさせた。
「私の……国旗が、ない……」
思わず、ヴァージンの目に涙が浮かんだ。嬉し涙を流すことがなかったその目に、まるで勝負に敗れたかのような悔しさだけが溢れかえっていた。
(アメジスタから、これまで世界に羽ばたいたアスリートはいない……。だから、一番でゴールした私を、世界はまだ認めてくれない……)
認められなければ、アスリートの夢を捨てる。走っているときはそれが楽しくて、その約束は全く頭に出てこなかった。それが、今になって彼女を苦しめた。
誰よりも……、誰よりも速く走ったのに……!
私は、ここで終わるの……?
終わってしまうの……?
「ヴァージン・グランフィールド……」
表彰式が終わったフィールドで、不意に聞こえたフルネームに、ヴァージンはうつむいた顔を上げた。目の前に、やや白髪交じりの長身の男性が立っていた。黒のサングラスを右手に持ったまま、彼はヴァージンの表情を見つめていた。
「ちょっと、話がある」
「……はい」
何かが起こりそうな予感しかしないヴァージンは、軽く首を振ってその男性の手招きに付いて行った。
「さっきから、君の走りを見させてもらった。後半からの力強い伸びは、完璧と言えるくらい素晴らしい」
「……ありがとうございます」
(もしかして、この人はコーチか……、評論家か……)
短絡的ながらそう考えたヴァージンは、思わず声が裏返り、軽く首を振ると同時に息を飲み込んだ。ここで、自分の想いを言うことが、夢を叶える最後のチャンスに他ならなかった。
男性は、再び口を開いた。
「それなのに、レースが終わって、君はずっと一人だった。君を一番に称えてくれる人が、いなかった。もしかして、君は一人でこの大会にやってきたと思うのだが、違うかね」
「……はい」
「そうか……」
ヴァージンの表情は、今まさにもう一度5000mを走ろうとしているかのように真剣だった。男性の唇にも、緊張が走っていたが、先に男性の方が表情を緩めた。
「覚悟はあるかね?その力強い両足で、世界に挑む覚悟は」
「……あります」
「本当に、だな」
「……勿論です」
(私は……、私はここで自分を終わらせたくない!)
「ヴァージン・グランフィールド……。その未来、私が買う!」
「……本当ですか!」
ヴァージンは、思わず声を嗄らして叫んだ。口を大きく開けて、これまで彼女を覆っていた悲しみを一気に蹴とばした。
「だって、こんなに素晴らしいアスリートを、誰も……誰も見てくれる人がいないなんて、世界が黙っちゃいないよ!」
「ありがとうございます……」
ヴァージンは両手を広げて、バッとその男性の体に飛び込んだ。男性は、飛び込んできたヴァージンをふくよかな両腕でしっかりと抱きしめ、彼女の背中を軽く叩いた。
「ここで終わらなくて……、よかった……」
「どうしてだい」
「だって、アメジスタのみんなが、もうアスリートの夢を諦めろって……。だから、この大会で認められなければ、私は……夢を……」
「そうかそうか……。辛かったんだな。でも、もう大丈夫だ。私が付いている」
ついに止まらなくなってしまった、ヴァージンの涙の一滴一滴を、男性は懸命に受け止めた。
「生まれがどんなに貧しいところでも、君は君だ。その熱い想いを、私は見捨てたりはしないから」
「ありがとうございます……」
その男性の名は、ベルク・マゼラウス。45歳になる彼は、ヴァージンは全く知らなかったが、これまで何人も世界のトップアスリートを育て上げてきた、有名すぎるコーチだった。彼自身も、現役時代に男子の10000mで世界記録を樹立したことがあるなど、数々の歴史を陸上の世界に残している。
「よろしくな」
「はいっ!」
たった一度きりの挑戦で、世界に認められたヴァージン。マゼラウスと熱い握手を交わす彼女が、トップアスリートの仲間入りを果たすには、十分すぎるパートナーと言ってもよかった。