第26話 アカデミーの危機はすぐそこに(7)
アムスブルグ選手権から戻った翌日、ヴァージンは早朝トレーニングをするためにアカデミーに戻っていた。大学での講義を抱えているにも関わらず、できるだけこのアカデミーでトレーニングをしなければならなかった。
(私は、できる限りこのアカデミーで強くなる!)
ライバルのためにアカデミーを潰そうとしているコーチすら、この場所にいることが分かってしまった。ヴァージンの身に何が起こるか分からない今、少しでもこれまで通りアカデミーの生活を送るために、ヴァージンはトレーニングをするのだった。
「おはよう、ヴァージン。今日は今までの中でも特に早いな」
マゼラウスが、トレーニングウェアを身に包みながら、ゆっくりとトレーニングルームに入ってきた。ちょうどベンチプレスをしていたヴァージンは、マゼラウスの姿が見えるとすぐにその前に駆け寄った。
「はい。今日は、ものすごくトレーニングしたくなったので、こんなに早く来てしまいました!」
「そうか。そんなお前に、今日は伝えなければならないニュースがある。いいニュースだ」
「いいニュース……。コーチ、早くそれを知りたいです!」
ヴァージンは、その目でじっとマゼラウスを見つめた。数秒経って、マゼラウスの口が動く。
「ポールマン・フェルナンドが、昨日付でアカデミーをクビになった。近いうちに、セントリック本社に対する背任で牢屋に入れられるだろう」
「そうですか……。ちなみに、一緒にいたマネーロック長官は、何も訴えられなかったんですか?」
フェルナンドやマゼラウスと話す間、ヴァージンの目からいつの間にかステヤード・マネーロックの姿が消えたことを、ヴァージンは気にしていた。マネーロックとフェルナンドとで一緒になって殴られる可能性だってあっただけに、あの時のマネーロックの動きが不可解で仕方なかった。
だが、マゼラウスはやや考えるしぐさを見せながら、ヴァージンにそっと告げた。
「マネーロック長官は、おそらく逃げると思う。あれは全てフェルナンドから依頼されたし、献金の額もそれほどではなかったから、フェルナンドが全てを認めたとしても、そのうちなかったことにされると思う」
「そうですか……。ちょっと複雑です……」
「まぁな。大人の事情というのは、地位が高くなればなるほど利用されがちだものな」
マゼラウスは軽く笑ってみせて、その後すぐにヴァージンに告げた。
「ただ、ヴァージン。マネーロック長官だって、一人の人間だ。誰かの働きかけと、その見返りなしに、あの預金封鎖条項をすぐ決定するようなことはしなかったと思う」
「そうだったんですね……」
ヴァージンは、ゆっくりとうなずいた。そして、マゼラウスの指示で次のトレーニングに移った。
その日、大学の講義が15時頃に終わったヴァージンは、再びアカデミーに戻ってきた。すると、ほぼ同じタイミングで入ってきたグラティシモに声を掛けられた。
「ヴァージン、おはよう。ひょっとして、大学から戻ってきたの?」
「はい……。ところで、グラティシモさんは、フェルナンドさんの話を聞いていますか?」
「知ってるわ。昨日、CEOからコーチのクビを直接告げられた。まぁ、なって当然だと思ったけどね」
グラティシモが、予め覚悟できているかのように今回の危機を乗り越えているように、ヴァージンには見えた。ヴァージンは、グラティシモのその言葉に、やや間を置いて返す。
「もしかして、グラティシモさんはいろいろ知らされていたんですか……」
「勿論よ。勝負クッキーを持ってきたときには、私もセントリック本社に行っていろいろ聞かれたし、この前セントリックの幹部が来たときだって、私にもいろいろ聞いてきたの」
グラティシモは、そこまで言って浅いため息をついた。
「もしかして、グラティシモさん。私にあの話をしたときには、噂は全て知っていたわけですか?」
「知ってた。けれど、そこまで言っちゃうと、ヴァージンがきっと怒りそうだったから、言えなかった」
「そうだったんですね……。でも、あの後私が、フェルナンドさんの噂話を全部聞いてしまいました」
「えっ……?」
ヴァージンの言葉に、グラティシモが驚きを隠せない様子だ。グラティシモが足早に競技場から去り、あの緊迫の現場には一切顔を見せていなかったことを、ヴァージンはようやく思い出した。
「私、フェルナンドさんが財務庁長官とつるんでいる会話を偶然聞いてしまって、ものすごく頭にきて、そこから全てが明るみに出てしまったんです」
「やっぱり、ヴァージンがあの話を知ってしまうと怒るのも無理はないわ」
「今から思えば、あまり聞かなくてもいい話だったのかも知れません。ちょっと入りすぎたと思います」
「そんなことないって、ヴァージン」
そう言うと、グラティシモがヴァージンの肩を持ち、じっとヴァージンを見つめた。
「ヴァージンが正義感を見せてくれたからこそ、マゼラウスも動いたんだと思う。ヴァージンを守るために」
「それは、間違いなく言えると思います……」
ヴァージンの目には、グラティシモの表情が突然輝き、笑みさえこぼれてきたのが分かった。それを見て、ヴァージンはグラティシモに、最も気になっていることを尋ねた。
「ところで、グラティシモさんは、このアカデミーに残るつもりですか?」
すると、グラティシモは少し考える時間を取りながら、首を小さく縦に振った。
「勿論、残るつもりよ。せっかく、ここから私が追い出されるようなことがなかったのだから。コーチも変わるし、私に対するアカデミーの風当たりも強くなると思うけど、それでも私はここにいる」
ヴァージンの耳には、このグラティシモの短い言葉がその何倍にも長く感じられた。かつてヴァージンに対する嫌がらせで、一人のライバル、バルーナを失ってしまった記憶が、グラティシモの大人びた表情と重なる。
「グラティシモさん……。やっぱり、そうこなくちゃいけないと思います」
「本当にそうね。でも、いま私は、ヴァージンを見ててそう思っただけなの」
「私を見て……、そう思ったんですか……」
ヴァージンは、思わず驚いた表情をグラティシモに見せた。逆に、グラティシモは落ち着いていた。
「そう。何度も何度も夢を邪魔されてきて、それでもこうして記録を出し続けるヴァージンは、本当に強いと思う。そんなヴァージンと離ればなれになるなんて、今は考えられない」
グラティシモは、そこまで言い切って、首を大きく縦に振った。ヴァージンは、グラティシモの目をじっと見つめ、そのまましばらく話すことができなかった。すると、今度は逆にグラティシモが先に話を切り出した。
「それと、ヴァージン。ここに残ると決めた以上、何としてもこの場所は守らないといけないと思う」
「セントリック・アカデミーを守る……」
ヴァージンは、小さくうなずきながら、グラティシモにそっと言葉を返した。
「そう。フェルナンドが退場しても、アカデミーの危機は終わると思えない」
「アカデミーの危機が終わらないなんて、そんなことないですよ、グラティシモさん。朝、マゼラウスさんがマネーロック長官ももう動かないとか言っていたような気がしますし……」
ヴァージンはこの時、事件は解決したものだと思っていた。だが、その見方にグラティシモは首を横に振る。
「ヴァージンは……、まだ大人の世界を分かってない。大人の世界は、そんな甘いものじゃない」
「えっ……」
グラティシモが、真剣な表情を浮かべている。ヴァージンは、その表情を見た途端、動きが止まった。
「コーチが財務庁長官に献金をしていたというイメージが、セントリック・アカデミーについてしまっている。棘付きのシャツが出荷されたというイメージだって、勝手に行われたこととは言え、簡単には消えない。セントリックは、様々な面で今やどん底に叩き落とされている」
「だからこそ、勝負クッキーとか売り出すようになったんですね」
「そう。でも、その額だって微々たるもの。もうすぐ、しわ寄せがここに来る……。私たちがここで生き残るために、何とかしないといけない……。だから、ヴァージンも結果で協力して欲しいの……!」
グラティシモの言葉は、次第に力が増していった。かすかに震えるグラティシモの手を、ヴァージンは取った。
「そうですよ、グラティシモさん!ここでアカデミーが潰れたたら、それこそフェルナンドさんの思い通りになってしまうじゃないですか!だから……、みんなで結果を残さないといけないはずです!」
「ありがとう……。それでこそ、ヴァージンは私のライバル……。いつも、どこに行っても……」
グラティシモが、その手を握りしめたヴァージンに微笑んでいた。
セントリックとアカデミーの危機は、着実に訪れている。
だが、その日がやって来ることを、少なくともこの時の二人が思い浮かぶことはなかった。