第26話 アカデミーの危機はすぐそこに(5)
(グラティシモさん……!)
スタート直後、フューマティックでのレースとほぼ同じストライドでスタートしたヴァージンの真横に、6人ものライバルが真横に並んだ。メリアムも、そして、グラティシモもいる。
メリアムではなく、この中ではベテランの域に入るグラティシモが全員を引っ張るような勢いだ。
(グラティシモさんが、結構飛ばしている……。200m35秒台を意識するような走り方……)
ヴァージンは、横に並んだライバルたちを意識しないように、目を前に向けた。だが、1周を終えて、次のコーナーに差し掛かったとき、グラティシモの力強い足がヴァージンの前に飛び抜けた。その後ろから、メリアムがポジションを確保するため、ヴァージンの前に出ようとしている。
(私は、それでも自分のペースで行く……)
200mトラックで、ラップ35~36秒。それが前回のレースで功を奏し、室内記録につながった。グラティシモのペースについて行けるかも知れないが、ここは様子を見ることにした。2周、3周、そして4周と走ったところで、ようやくメリアムがヴァージンより体3個だけ前に出たが、ヴァージンは極端なペースアップをしない。
――今日のレース次第で、もしかしたら私のコーチが変わる可能性だってあるんだから。
2000mを過ぎ、20mほど前を走るグラティシモの言った言葉が、ヴァージンの脳裏にかすかに思い浮かんだ。この日のグラティシモには、守らなければならない使命感がにじみ出ていた。対して、ヴァージンは普段通りのモチベーションで臨んでいた。ライバルを抜き、自らの記録を更新する。相手がどのように思っていようが、ヴァージンを突き動かす最大の力は、それだった。
(グラティシモさんに負けてられない……!ずっとずっと、アカデミーのライバルだったんだから!)
ヴァージンのストライドは、無意識のうちに大きくなる。限りなくラップ35秒に近づけた走り方だった。目の前を走るメリアム、そしてグラティシモとの差がわずかながら小さくなった。
残りは10周以上ある。ヴァージンは、普段通り終盤での勝負に挑むと決めていた。だが、3000mに差し掛かったとき、ヴァージンは、その目で感じていた距離感が突然崩れていくのを感じた。
(……っ!)
メリアムが、徐々にペースを落としていく。懸命にグラティシモに食らいつこうとして、一時はグラティシモの背中を捕えかけていたメリアムが、少しずつグラティシモに差をつけられる。ヴァージンは、すぐにメリアムの真横に並び、1周かけることなく追い抜いていき、再びグラティシモとの差を詰める。
だが、次の1周でヴァージンはメリアムの足音を絶えず感じた。ヴァージンに捕えられた後、メリアムも再びペースを上げ始め、ヴァージンの真後ろをぴったり追走していたのだった。
追い上げてグラティシモを抜き去るヴァージンと、最後に勝負をする。それが、メリアムの作戦なのだろうか。
(メリアムさんは、いつか勝負を仕掛けてくる。早いうちにグラティシモさんとの決着をつけなければ……)
3600mを過ぎたあたりで、ヴァージンは重心を前に傾け、さらにペースを上げた。この時点で、グラティシモとの差は10m。トップスピードまで上げなくても、1周2周あればすぐに追い抜けるとヴァージンは確信した。
その時、グラティシモがついに後ろを振り返った。全身に力を入れたように、ヴァージンには見えた。
(グラティシモさんは、負けられない。でも、私だって負けられない!)
ラップ33秒まで高まったヴァージンのスパートに食い下がるように、グラティシモがややストライドを大きく取っている。グラティシモが、トラックをこれまでより強く叩きつけた。
(差がほとんど縮まらない……。でも、まだ数段はペースを上げられる)
ヴァージンは、4000mを過ぎると、さらにペースを上げた。この時点で、タイムは体感的に11分45秒ほど。室内記録更新のためにも、ここでペースアップするしかない。すぐさまヴァージンはグラティシモの背中を捕え、4200mを通過するとグラティシモの真横に並び、コーナーを回るうちに抜き去っていった。
だが、そこでライバルたちの足音が途切れることはなかった。逆に、大きくなるのをヴァージンは感じた。
(周回遅れのはずがない……!)
ヴァージンは、次のコーナーを回るとき、横目で後ろを見た。だが、そこに見えるのはグラティシモだけだった。その後ろにいるはずのメリアムが見えない。
ヴァージンは確信した。ここからはメリアムとの勝負になるということを。そして、ライバルは来た。
(メリアムさん……!)
4400mを過ぎ、メリアムがヴァージンの真横に並んだ。その目は本気だった。ヴァージンのスパートに食らいつき、いま追い抜こうとしている。
(でも、ここからの実力は、私の方が上のはず……!)
ヴァージンは、抜かされまいと力強くトラックを蹴った。想定より1周早いが、ヴァージンはここで一気にスピードを上げる。ラップ30秒を切るような激しいスパートで、一度は並ばれかけたメリアムを一気に突き放し、自らの室内記録に立ち向かう。
ヴァージンにはもはや、更新できるという確信しかなかった。その確信を持って、ゴールへと飛び込んだ。
14分20秒87 WIR
(やった!)
記録計に輝く数字を見て、ヴァージンはフューマティックの時と同じように、体で喜びを表現した。だが、その時と違い、すぐにメリアムがヴァージンのもとに飛び込んできた。
「グランフィールド、おめでとう!私も、今までの記録より速かったはずだけど、一歩及ばなかった」
「メリアムさん……。最後本気になったのは、メリアムさんのおかげです……」
メリアムのタイムは、14分23秒29。フューマティックでヴァージンが叩き出したタイムよりも速く、ともすればメリアムが室内記録を手に入れていたかも知れない展開だった。
メリアムが、ヴァージンの記録が輝く記録計に目をやる。そして、激しい呼吸を吐き出しながら言った。
「次は、グランフィールドの持つ、もう一つの世界記録。本当に、次を誰が更新するか楽しみ」
「それは私に決まってます。なんか、今日のレースで、また一歩それができるって確信しました!」
ヴァージンは、力強くそう言った。メリアムが笑うのが、ヴァージンの目に見えた。
ヴァージンに抜かされた後、大きく失速したグラティシモは、最終的に4位に終わり、足早にトラックから消えていった。ヴァージンはグラティシモに話しかけようとしたが、グラティシモは一切振り向くことがなかった。
(グラティシモさん、相当悔しいように見える……。あそこまでレースを引っ張っていたのに……)
ヴァージンは、時々グラティシモのことが気になって仕方なかったが、自らの記録更新に歓喜していた。だが、ロッカールームを出たとき、ヴァージンは目の前に飛び込んできた光景に、その歓喜は吹き飛んだ。
「もう十分待った。いい加減に、残りの代金を払え」
「ちょ……、もうちょっと待って下さいよ……。いつかグラティシモ選手は優勝して……」
「そのために、我々はいくつもの便宜を図ったはずだが……。どうしてくれるんだ」
レース前にヴァージンがほんの数秒だけ見たはずの、メガネの男性がフェルナンドの襟を引っ張っている。メガネの向こうで、その男性が鬼のような形相を見せているのが、遠くで見るヴァージンにもはっきりと分かった。
「ですから、もう少し待って下さい……。必ず、必ず……」
「必ず?もうその言葉は聞き飽きた。あのな。預金封鎖をしてまで叩き潰しておいたライバルに、私の目の前で世界記録を出されたんだぞ。どう責任取ってくれるんだ!」
(預金封鎖……、叩き潰しておいたライバル……。世界記録……?)
ヴァージンは、頭の中で何かが切れた。メガネの男性を激しく睨み付け、ついに足が動き出した。
「すいません。それ、誰のことですか?」
ヴァージンは、やや早足でフェルナンドの真横に立ち、メガネの男性に尋ねた。フェルナンドが驚いた表情でヴァージンに顔を向け、待て、と一言声を掛けようとするが、言葉にならなかった。
「現れてしまったか……。偶然にもほどがある。お前は、何一つ知らなくていい話だ」
アムスブルグのスタジアムに、低い声が溢れかえる。周囲を観客が通り過ぎるが、張り詰めた空気の中では、メガネの男性の声しか、もはやヴァージンの脳裏に入らない。
「いいえ、私にもそれを聞く権利があります。預金封鎖がなければ、私はもっとレースに出られたんです!」
ヴァージンは、力強くそう言う。その声よりもさらに大きな声で、メガネの男性は言い返した。
「ほう。このステヤード・マネーロックを前にして、そこまで言い返せるとはな……」
(まさか……、この人がオメガ国の財務省長官……!)
ヴァージンは、預金封鎖のニュースで何度も見た名前を聞き、思わず目を細めた。