第26話 アカデミーの危機はすぐそこに(4)
「だいぶ元に戻ってきたようだな、ヴァージン。体の重心もちゃんと取れている」
フューマティック室内選手権が終わって1週間後、やや冷たい風の吹き抜けるセントリック・アカデミーのトラックに、マゼラウスのやや高い声がこだまする。この日、ヴァージンは5000mのタイムトライアルで、レース復帰後では初めてとなる14分17秒台で走り抜けた。前日には10000mでも再び30分台の走りを見せ、ベストの状態だった頃に、ヴァージンはまた一歩戻していったのだ。
「ありがとうございます!」
「半年のブランクを埋めるのに、半年はかかる。二度とお前が勝負の世界から遠のくことはしないでほしい」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に大きくうなずいた。
その日、クールダウンを終えて、ヴァージンはロビーに戻ってきた。その時、コーチ控室に見慣れない、灰色の髪の男性が立っているのが見えた。黒のスーツを着て、セントリックのロゴが入った赤いネクタイをしている。
(もしかして……、セントリックの重役がここに来ている……)
契約書の締結さえ実家で行ったヴァージンは、これまでセントリックの本社に行ったこともなければ、CEOのリッチ・ウィナーより立場が上の関係者とも話したことはなかった。
(いったい、誰なんだろう……。私には関係ない話だと思うけど……)
ヴァージンがロッカールームの方に体を向けると、コーチ控室の奥から、茶髪を輝かせてウィナーが足早にやってきて、その訪問者を中に入れた。ドアが閉まると、重苦しい雰囲気もすぐに消えていった。
翌日、午前中のトレーニングが終わると、ヴァージンは食堂の入口でグラティシモとばったり会った。グラティシモは、ヴァージンを見るなり、すぐにヒソヒソ話をするかのようにヴァージンの耳に口を近づけた。
「ヴァージン、昨日ロビーで変な人と会わなかった?黒いスーツの人……」
ヴァージンは、思わず体をのけぞった。確かに偶然会ったが、それをグラティシモが知るはずがない。
「会いました。でも、別に私のことを話しているようには思えませんでした……」
「ヴァージン、CEOからいろいろ言われてた頃の話を覚えているの?今じゃ私をはるかに上回る実力なのに」
「そうじゃないです。でも、やっぱり気になるものは気になります」
ヴァージンがそう言うと、グラティシモは首を軽く横に振った。
「気になるのは、本当は正解なの。昨日、セントリックの幹部が来たのは、私たちにすごく関係あることだから」
「本当ですか……?」
「私は、ウソを言ってないわ。私は、昨日フェルナンドからその話を聞いたんだから」
ポールマン・フェルナンド。ヴァージンはその名を久しぶりに聞いた。グラティシモのコーチとして何年もアカデミーで指導をしているベテランだったが、ライバルのコーチともあってほとんど話すことはなかった。
「フェルナンドさん……からですか」
「そう。でも、何故そういう話を私が知っているか、ヴァージンにだけ教えてあげる」
「え?いいんですか……。グラティシモさんだけが知っている情報のはずですよね……」
「いいのいいの!いずれ、全てが明らかになることなんだから。平たく言うと、フェルナンドがちょっとどころじゃないまずいことをしている噂が立ってるみたいなの……。フェルナンド、何度かセントリックの本社に呼ばれてて、その日のトレーニングは代理の人にコーチをやってもらって、私は本当に驚いた」
グラティシモは、小さい声でここまで一気に話し通した。時折言葉を強調しかけようとするのが分かった。
「フェルナンドさんが……、まずいことをしている……。それで、昨日幹部がやってきたわけですね」
「そういうこと。でも、フェルナンドが何をやったのか、私には分からない。自分のことで、今日セントリックの偉い人がやって来るとしか、私には教えてくれなかった……」
「結局、そこはトップシークレットということですよね……」
ヴァージンは、一度うなずいた。その瞬間、思い出したように閉じかけた口を再び開いた。
「フェルナンドさんに、もしものことがあったら……、グラティシモさんに新しいコーチがつくのですか?」
「そういうこと。だから、私には教えているの。去年の秋に、私がセントリックの本社から勝負クッキーをもらってきたのも、本社に呼ばれて、その話をされたからなの」
グラティシモは、そこまで言い切ってため息をつき、首を何度か横に振った。まだ話し足りない様子だったが、その中でも何とか要点だけはヴァージンに伝えようとしていた。
「グラティシモさん……、本当に心配です。私も去年、不安から実力を出せなくなってしまったので、人のこと言えないですが……」
「そうね……。でも大丈夫。ヴァージンだって、あれだけ叩き落とされてからの室内世界記録を出したんだし」
「そうですね。グラティシモさんにも、きっといつか好転する日が来ると思いますよ」
ヴァージンがそう言うと、グラティシモはそっと笑った。その間にも、何人かのアカデミー生が二人の真横を通り抜けていったが、二人が話していることを誰一人として覗こうとはしていなかった。
やがて、2月になり、ネザーランドのアムスブルグ室内選手権まで、あと数日というところまで迫った。ヴァージンは、アムスブルグの大会には2回出場しているが、3年ぶりの出場となるこの年は違った。今や、アウトドアとインドアの両方の世界記録を手にするヴァージンには、普段とは違う緊張感が生まれていた。
(きっと、みんな私に期待している。次の室内記録に一番近い私に、次の記録を夢見て……)
ヴァージンは、拳に力を入れながら心の中で誓い、フューマティックで見せたあのスパートをもう一度思い浮かべた。アムスブルグのトラックは新しくないとは言え、今の実力なら記録は出せるはずだ。
(今年は、たくさんのワールドレコードを出せるかも。いま、すごく昇り調子だから!)
ヴァージンが予想していた通り、アムスブルグ室内競技場にはたくさんの報道陣が詰めかけ、ヴァージンが中に入ると、それを映すカメラすら現れるほどだった。
前回のリベンジもあってか、この大会にメリアムも出場している。だが、それ以上に驚いたのは、この大会にグラティシモが出場しているということだった。アカデミーで何度も顔を合わせているにも関わらず、アムスブルグ室内選手権に出るということは一言も口にしていなかったからだ。
(それこそきっと、トップシークレットだったのかも知れない……)
ヴァージンは、密かにそう思いつつ、選手受付を済ませた。グラティシモとはロッカールームでも出会わなかったが、どこかでヴァージンを待っているような匂いだけは、たしかに感じることができた。
(グラティシモさんとは、久しぶりの勝負……。実力の違いを見せつける……)
集合時間が迫り、ヴァージンはトラック脇に姿を現した。そこでようやく、普段から見慣れている黒のツインテールが目に飛び込んできた。久しぶりにレーシングウェアに飾られたグラティシモは、どこか強そうに見えた。
その時、観客席からひときわ大きい声が、ヴァージンの耳に届いた。
「グラティシモ、今日はトップを取れ!お前の実力なら大丈夫だからな!」
その声に、グラティシモが大きくうなずく。ヴァージンは、声のする方を振り返ると、観客席にメガホンを持ったフェルナンドの姿が見えた。だが、その横にもう一人、明らかにコーチでも解説者でもなさそうな、メガネをかけたスーツの男性が座っていて、フェルナンドと何やら話している様子だ。
(あの人は誰なんだろう……)
ヴァージンはその男性からすぐに目を反らし、それからゆっくりとグラティシモの背中に近づいていった。気配を感じたのか、グラティシモが体を軽く振り向かせた。
「ヴァージンと戦うの、久しぶりね」
「はい。でも、まさかグラティシモさんとここで会えるなんて思わなかったです」
「そうね……。ちょっと理由があって、タイムを試さなきゃいけなくなったのよ」
「そうなんですか……」
ヴァージンは、グラティシモの一言に思わず面食らった。その目の前で、グラティシモはさらに言葉を続ける。
「ヴァージン、今日は悪いけど負けられない。すごく重要なレース。今日のレース次第で、もしかしたら私のコーチが変わる可能性だってあるんだから」
グラティシモの表情は、かつてないほど緊張しているようだ。そしてその言葉も、ここ最近のグラティシモからは考えられないほど重みに溢れていた。
「それはあるかも知れないです。けれど、トラックに立つ私だって、気持ちは同じです」
「いい勝負になるわ」
その時、号令がかかった。
「On Your Marks……」
ヴァージンは大きくうなずき、スタートラインに立った。