第26話 アカデミーの危機はすぐそこに(3)
ヴァージンとメリアムとの差が20m、ウォーレットとはさらに30mの差がある。その中で、先にウォーレットとの勝負に賭けたのはメリアムの方だった。ウォーレットと違い、メリアムがレース中盤に極端にスピードを上げるのは珍しい。逆に言えば、それだけウォーレットのペースが以前と比べものにならないということになる。
ヴァージンも、その瞬間に足に力を入れかける。これまでの400mトラックを70秒、というペースを乱すリスクはありながらも、追い越さなければならないライバル二人が徐々に突き放していく中、ヴァージンもペースアップに対応しなければならなかった。
(ペースが速い……。私がラップ35~36秒なのに、ウォーレットさんはコンスタントにラップ35秒で走る……)
アウトドアのレースで見せたウォーレットよりは遅いペースだが、それでもこのペースで走り続ければ、ウォーレットが自らのインドア記録を更新する可能性が高い。それだけ、今日のレースはハイレベルになっている。
(その中で……、私は勝つ……!)
ヴァージンは、メリアムに後れること2周、体の重心を前に傾け、ややスピードを上げた。少しだけウォーレットに近づいてくるように、ヴァージンには見えた。1周、また1周と駆け抜けるごとに、ウォーレットとの差がじわりじわりと迫り、50mあった差を40m近くまで縮めた。
だが、メリアムとの差は変わらない。メリアムも、ヴァージンと同じペースでウォーレットに挑んでいる。メリアムもウォーレットとの差を縮め、ついに3600m付近でメリアムがウォーレットの背中にぴったりとついた。ここでウォーレットが後ろを見て、苦し紛れの表情を見せながらもスピードを上げていく。
(勝負は、最後まで分からない……。ウォーレットさんも、最後に伸びるようになってきているから……!)
ヴァージンは、ここで勝負に出ることにした。通常よりも数百m早くスパートをかけるが、この日のヴァージンに気の迷いはなかった。最後までペースを落とさずに勝負ができる、そう確信した。
(私は……、いくしかない……!)
ヴァージンのスパートが、真新しいトラックを駆け抜ける。メリアムがウォーレットの真横に並ぶその後ろから、一気にその差を詰める。20mあった差が15m、10mと縮まり、4200mを過ぎたとき、ヴァージンはついにウォーレットの真後ろまで迫った。再び、ウォーレットが後ろを振り向くが、その表情は先程以上に辛そうだ。
(ウォーレットさんは、もうこれ以上ペースを上げられないはず……)
アウトドアのレースでも、ペースを上げすぎて後半もたなくなることが多かったウォーレットは、この日もラストに自分のペースを維持するのがやっとだった。インドア自己ベストすら怪しい状況になっている。逆に、その前を走るメリアムは、既にインドア世界記録を射程圏内に捕えているようだ。
だが、ヴァージンはウォーレットを一気に抜き去り、そのままメリアムの背中を猛追する。少しずつギアを上げていき、4600m、残り2周となったところでトップスピードまで跳ね上がった。その差はもう体一つ分だ。
そのとき、メリアムがついに後ろを振り返り、ヴァージンを睨み付けた。まだペースを上げるという意思すら見える。だが、その表情にもヴァージンは動じない。
(スパートは、私の方が絶対上……!)
次のカーブを駆け抜け、直線に入った瞬間、ヴァージンはメリアムの真横に並び、そのまま一気に抜き去っていった。この時点で、ウォーレットの持つインドア記録を更新するのは、時間の問題だったが、ヴァージンは最後の1周もペースを緩めることはなかった。
ゴールラインが、ヴァージンの目の前に飛び込む。ヴァージンは、そのラインに一気に飛び込んだ。
14分24秒30 WIR
(WIR……、室内記録……っ!)
ヴァージンは、ゴール横に表示された自らの記録を見た瞬間、思わず全身で喜びを表現した。何度もアウトドアでの世界記録を打ち破ったヴァージンだったが、もう一つの世界記録を打ち立てた瞬間に力が入った。
「グランフィールド、おめでとう……!」
メリアムが紫色の髪から汗を流しながら、ヴァージンを抱きしめた。ヴァージンは笑顔でそれを受け止める。
「インドアにはそんな強くなかった私が、この記録を立てられなかったことが嬉しくて仕方ありません……」
ヴァージンがそう言う間に、ウォーレットもゴールラインを駆け抜け、かなり辛そうな表情を見せながらも記録計を一目見て、メリアムの真横からヴァージンに飛び込んだ。
「ウォーレットさんまで……。ありがとうございます……」
「当然よ……。悔しいけど、やっぱりグランフィールドが……、私の記録を破るんじゃないかって……」
ウォーレットの目は、涙を流していた。その涙が、ヴァージンのレーシングトップスを一滴濡らしていく。そして、歓喜に包まれる中で、ウォーレットはヴァージンに小声でこう言った。
「ヴァージン・グランフィールド。やっぱり、女子5000mでは一番強い……」
その後、表彰式が終わり、ヴァージンはトラックを一目見つつ、ロッカーに向かおうとした。その時、ヴァージンの目に見覚えのある茶髪の青年の姿が飛び込んできた。アルデモードだ。
「やぁ!11番ゲートの前で待ってるよ!」
ヴァージンは、その声に大きくうなずいた。だが、ヴァージンの目には、アルデモードがどこか浮かない表情を見せているように思えた。
(アルデモードさん……。今日は私に何か言おうとしているのかも知れない……)
ロッカールームを足早に去り、ヴァージンはアルデモードが待っているはずの11番ゲートに向かった。アルデモードが、近づくヴァージンに手を振る。
「アルデモードさん、今日は私のレースを見に来てくれて、ありがとうございます!」
「いや、僕が君から力をもらいたかったからね。やっぱり、ヴァージンはアメジスタ最強のアスリートだよ」
「最強って……、先輩のアルデモードさんに言われると、なんか照れます」
ヴァージンは、軽く笑ってみせた。アルデモードも、それに笑顔で答えるが、すぐに表情を戻す。
「ところで、君ならミラーニの成績はもう分かってるよね」
「はい。すごく心配です」
以前調べてから、今日このレースが始まるまでの間にも、既に負けを三つ増やしている。引き分けにすら持ち込めず、ミラーニの勝ち点は未だに0のままだった。
「リーグオメガから降格するとか、去年の11月ぐらいから言われ続けているよ」
「アルデモードさんは、すごく頑張っているはずなのに……、チームの勝利には結びつかないんですね」
「そう。最初に会ったときに、僕が言ったこと。今、もう一度君に言いたいぐらいだよ」
アルデモードは、そこまで言い切ると、急に顔を上げ、再び口を開いた。
「でも、君を見てて思ったんだ。可能性を捨てちゃいけないんだって。まだまだ残留の可能性は0じゃない」
「私も、アルデモードさんとチームの可能性を信じてます!」
ヴァージンは、力強い声でアルデモードに言った。すると、アルデモードはヴァージンにうなずいて、それから一呼吸置いた。
「でも、今日君にしたいのは、その話じゃないんだ」
「えっ……?」
ヴァージンは、思わずアルデモードの表情を見つめ、次の言葉を待った。
「ミラーニのユニフォーム、どこのメーカーが作っているか、君には分かるかな?」
「ちょっと分からないです……。スピードスターですか……?」
「いや、君がそれ以上に世話になっているところだよ」
アルデモードは、やや声を小さくしてヴァージンに言った。ヴァージンは、その言葉ですぐにピンときた。
「もしかして……、いいですか……?セントリックですか……?」
「大正解。厳密には、セントリック・フットボールというブランドのウェアなんだけど……、実はそのユニフォームを、他のメーカーに変えなきゃいけなくなりそうなんだ……」
「他のメーカーに……。もっとカッコいいウェアができたとか、ですか……?」
ヴァージンは静かにそう言ったが、アルデモードはその返事に首を横に振った。
「セントリック・フットボールというブランドを、もう続けられないという噂が経っている。理由は分からないけど、親会社のセントリックの業績が、相当悪くなっているとかいう話だからね……」
「そうなんですか……。なんか、私にも影響しそうな話ですね」
「アカデミーは、たぶん大丈夫だよ。君だって、他の所属選手だって結構な成績を残しているから、セントリック・アカデミーはきっと残ると思うさ」
アルデモードが、そう言ってヴァージンの肩に手を当てる。ヴァージンは、アルデモードの手のぬくもりを感じるなり、ショックがすぐに飛んでいきそうな感触を覚えた。