第26話 アカデミーの危機はすぐそこに(1)
ネルスでの優勝賞金は8万リアで、大学2年生の学費、約1万リアを払ったところでヴァージンにはまだ余裕があった。再び口座を開設した「アメジスタ・ドリーム」に賞金の半分を寄付し、切り詰めていた生活からようやく解放されることとなった。
これでこの年に開催されるレースはもうなく、陸上選手にとってはオフシーズンに突入する。年明けの室内選手権もいくつか申し込むが、それも数ヵ月先の話である。だが、ヴァージンは時折記録のことを考えた。
(今年は、自分の記録を大きく下げてしまった……)
18歳で女子5000mの世界記録を出し、その後も立て続けにワールドレコードを更新し続けたが、昨年の10月、レスタルシティで打ち立てた14分11秒97でぱったりと止まってしまった。私生活で故郷のデフォルト問題に巻き込まれたこともあるが、トレーニングを含めて最悪のタイムを出し続けてしまった。今は少しずつタイムを戻しつつあり、先日のネルスでのタイムも14分21秒28とまずまずの出来だった。
だが、それでもヴァージンはどうしても一つだけ達成できなかったようにしか思えなかった。
(メリアムさんが、あそこまで私に迫ってきて……、ウォーレットさんも、フォームを完成しかけている……。私がレースに出られなかったこの一年で、少なくとも女子長距離は少しずつ進歩している……)
そう思いつつ、ヴァージンはベッドに腰掛けて天井を見上げた。そこでヴァージンはあることに気が付いた。
(天井が黒くなりかけている……)
かれこれ5年以上、ヴァージンはセントリック・アカデミーから支給されたワンルームマンションの同じ部屋で生活している。アカデミーに入ったときには、右も左も分からず、ワンルームマンションも新鮮なように思えたが、ヴァージンが偶然見つけてしまった、天井の黒い斑点を見る限り、ヴァージンがプロの世界に飛び込むよりもはるか昔からこの部屋があったということになる。もしかしたら、ヴァージンが生まれるよりも前に、このマンションが建てられ、それから一度も改修されていないのかも知れない。
(実家に比べたら、まだそんな汚れていないけど……、これだけ汚れると目立ってしまう……)
翌日、朝のトレーニングのためにアカデミーに入るとすぐ後ろからグラティシモが駆けてきた。
「おはよう、ヴァージン。ここで一緒になるなんて珍しいじゃない!」
「グラティシモさん……。言われてみれば、5年間でそう何度もなかったような気がします」
ヴァージンは、かすかに笑った。その様子を見て、グラティシモはすぐに話題を切り替える。
「それはそうと、ヴァージンは大変ね……。ワンルームマンションの建て替え計画がなしになって」
「え……?ワンルームマンションを建て替えない……って、それ、本当ですか……?」
ヴァージンにとっては偶然すぎる話に、思わず目を丸くした。
「そう……。私も昨日、コーチからその話を聞いて……。ヴァージンの住んでいるところなんて、今もう40年くらい経っているみたいだし、そろそろ建て替えるって話があったんだけど……、それどころじゃないって」
「グラティシモさん。それって、セントリックの話ですよね……。ここでしちゃっていいんですか」
「私は、してもいいレベルだと思うけど。逆に、セントリックの外に漏れるとあまりよくない話なのかも」
グラティシモは、時折うなずきながらそう言う。普段の明るさを何とか見せようとしている表情だ。
「もしかしたら、その裏に言えない何か……、あるんですね……」
「そうかも。でも、それが何なのか私には分からない……。今後、コーチ控室の話とか耳を傾けた方がいい」
「分かりました」
ヴァージンは、グラティシモに大きくうなずく。だが、セントリック・アカデミーで何が起こっているのか、ヴァージンにはこの時点でも、何一つ見当が付かなかった。
ネルス選手権が終わってからは、トレーニングメニューにラップ70秒トレーニングが入ることが少なくなり、逆に翌年に再チャレンジするよう10000mのタイムトライアルを行ったり、室内での筋力トレーニングを行ったりと、夏以降とは少しずつ変化していた。5000mもネルスで出したものより数秒程度遅いタイムで落ち着き、14分20秒を切ることもなければ、逆に前のようにマゼラウスに心配されるようなタイムも叩き出していなかった。
その日、午前中のトレーニングが終わりに差し掛かった頃、マゼラウスはヴァージンを小会議室に案内した。何か映像でも見せるのだろうか、と案内された場所ですぐにヴァージンは察した。
「ヴァージン。ちょっと、これを見て欲しい。この前のネルスでの大会で、ウォーレットの走り方だが……」
「はい」
ヴァージンがうなずくと、マゼラウスはネルスでのレースの国際映像をスクリーンに映し、最初のコーナーの後、ウォーレットがヴァージンを抜き去ったところでその映像を一時停止させた。
「ヴァージン。これを見て、お前が何か気が付くことはないか。私は、すぐ二つ見つかったが」
「腕を、私よりもはるかに大きく振っています……。あとは……」
「そうだな。これは、長距離を走る中で、短距離走者のフォームを意識させている。極端に腕を振りすぎるのもよくないが、この振れ幅でも長距離走者にはあまり見られないくらいだ」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉にかすかにうなずく。そして、しばらく考えたが、二つ目が出てこなかった。
「もう一つは、あまり分からないようだな……」
「えぇ……。ストライドとか足の上げ方ではなさそうですし……」
「そこは、最後についてくるものだと私は思っている。むしろ重要なのは、重心の傾きだと思う」
マゼラウスは、映像をもう少しだけ先に進ませた。ヴァージンも、マゼラウスに言われてみて、ようやくウォーレットが体をより前寄りに傾けていることに気が付いた。
「コーチ。スピードを意識しているように、私には見えます……」
「それは間違いない。現に、それで少しずつペースを上げて、ラップ67秒ちょっとまで上がっていったからな。だが、それもやりすぎるとよくないということは、お前も分かっているだろう」
「はい。瞬発力を前面に押し出して、後半に力が続かなくなるから、ですよね」
「そういうことだ。あごを上げて、重心を中心に持って行ってしまうのはブレーキになるが、かといって、そこまで前に出すことは、私は賛成できない」
マゼラウスは、軽くうなずき、ヴァージンの表情を伺った。ヴァージンが、ややほっとした表情を浮かべかけたその時、もう一度うなずいて、こう言葉を続けた。
「ただ、長距離を専門としてきた私がそう言っているだけかも知れない。もしかしたら、よりタイムを速くするための、ベストな重心とか、ベストな腕の振り方とか、きっとあるのかも知れない」
「ベストな重心……、ベストな腕の振り方……、ですか」
「そうだ。アカデミーに入ったときから、ずっと見ていればよかったが、お前のタイムが徐々に伸びてきているから、そこまで気にはしていなかった。お前もだが、まだお前は変われるかも知れない」
「はい」
「少し、前に重心を出しながら走るようにしよう。スタジアムに流れるわずかな風を切るような走り方を」
マゼラウスは、そこまで言うとスクリーンに目を向けた。ウォーレットのスピードがラップ67秒ペースまで達した瞬間だった。
(ウォーレットさん……。さっきよりもずっと体を前に傾け……、そしてここで、何かを思い出したように重心を戻している……)
ウォーレットは、まだ中距離走のペースを完全には制御できていない。ヴァージンは、この時もそう察した。昨年、ジョナブロンズの世界競技会のときもそうだったが、ガクンとペースが落ちるのは、ウォーレットにとって最大の課題だ。
しかし、それを克服しフォームを完成させれば、ヴァージンにとっては脅威の存在になることは、言うまでもなかった。
その夜、ガルディエールから電話が入った。
「1月のフューマティックでの室内選手権、新しいインドアスタジアムだから、どの種目も倍率の高い抽選になりそうだ。それくらい、注目されている会場だ」
「初めての会場なんですか……?」
「そう。室内専用のスタジアムは、最近あまり作られてこなかったからね。でも、多分君とウォーレットは、抽選なしで出て欲しいって感じだから、安心だ」
「本当ですか……!この会場初のタイトル、必ず私が取ってみせます」
「さすが……。じゃあ、1月の大会は間違いなく優勝と室内記録を叩き出すね」
「はいっ!」
ヴァージンは、電話口の向こうにいるガルディエールに分かるように、大きくうなずいた。まだ見たことのない会場であるにも関わらず、ヴァージンは想像でそのスタジアムを思い浮かべていた。