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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速のアスリート いま再びトラックに立つ
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第25話 ヴァージンのあるべき姿を(5)

 号砲とともに、ネルスの空の下にヴァージンは力強い一歩を踏み出していく。ウォーレットに、これまで何度もレースの主導権を握られてきたヴァージンにとっては、ここでウォーレットのスタートダッシュを牽制するしかない。そして、ラップ70秒トレーニングで身についたペースを序盤から崩さないためにも、なるべく体を前に出さなければいけない。

 様々なことを意識しつつ、最初のカーブを、ペースを落とさず駆け抜ける。そこにウォーレットが右から攻めてくる。

(これが、完成形に近い走り……)

 これまでは、最初のカーブの途中までの間にウォーレットがヴァージンの前に立つことが多かったが、その時と比べると、幾分ペースが緩やかになっている。それでも、ヴァージンが感じたウォーレットのペースは、ラップ69秒ないし68秒ほどだ。しかし、それでも戦略であることには間違いなかった。

(でも、私は私のペースがある。いつものように、勝負をするのは終盤戦にすればいい)

 ヴァージンは、すぐに気持ちを切り替え、ラップ70秒のペースを崩さずに1周、2周と駆け抜ける。2周を追えた時点で、先頭のウォーレットとは20mほどの差で、そしてヴァージンのすぐ後にメドゥが離されまいと食らいついているのが分かった。

 だが、普段ならここでペースを安定させるウォーレットが、この日は何やら違うしぐさを見せていることに、ヴァージンはすぐに気付く。3周目に入って、ウォーレットがトラックを力強く蹴り上げているのだ。

(ペースを、また上げていく……!)

 ヴァージンの見た目で69秒だったラップが、たちまち68秒へと跳ね上がっていく。中距離走の走り方を意識しつつペース配分を行う走り方なのか、それとも耐えられるスピードを少しずつ確かめているのか。

 ヴァージンには、ウォーレットの意図が分からないまま、2000mが過ぎた。体感的には、通過タイム5分52秒。だが、その時既にウォーレットが60mも先に進んでいた。それどころか、ウォーレットはカーブでさらにスピードを上げ、ラップ67秒に近づこうとしているようだ。

(追いつくべきか……、それとも最後に捕えるか……)

 ヴァージンは、ペースを維持しながらも、これまでと全く違う走り方のウォーレットを前に戦略を組み立て始めた。100mの差をつけられて最後の1000mに突入すれば、ラップ67秒まで加速したウォーレットを捕えるのは、ヴァージンのスパートをもってしても相当厳しくなる。

 だが、ここでもヴァージンは追いかけようとする心を落ち着かせた。

(私が、こんなところでラップ68秒まで上げたら、最後まで力が持たない。何度も失敗してきたはず……)


 ヴァージンは、一言だけ自分にこう言い聞かせた。

 ハイペースとなったこのレースに勝てば、ワールドレコードも更新されるかも知れない、と。

 そう思ったヴァージンは、不思議と心が軽くなっていた。


 だが、次の1周を終えたとき、ヴァージンはペースがやや落ちたように思えた。明らかに72秒を数えたようなラップだった。ヴァージンは、再びラップ70秒のストライドに戻すため、足に力を入れようとした。

 しかし、ヴァージンがそう感じたのは、ヴァージン自身のスピードが原因ではなかった。

(ウォーレットさんが……!)

 2400mを過ぎたところで、突然ウォーレットがガクガクッと体を震わせ、ペースを数段落としたのだった。ラップ67秒からラップ70秒ほどまで落ちたようだ。カーブを回りきって、ヴァージンの目に飛び込んでくるウォーレットの後ろ姿は、どこか落ち着いてしまっている。

(ウォーレットさんは、ペースを維持できなくなった……。ここで私まで巻き添えにされるわけにはいかない)

 ヴァージンはやや目を細めて、ウォーレットを見つめた。ウォーレットとの差はわずかに広がっているものの、見るからに突き放すような勢いではない。ヴァージンのペースが崩れなければ、勝てる範囲だ。

 勝利への確信を持ったヴァージンは、再びペースを上げ始めた。そして、8周目、9周目と懸命にウォーレットを追いかけていく。ウォーレットのほうが、さらにペースを落としかけたのか、10周目に入ったときには60mあったはずの差が50mほどに縮まっていた。

 そして、勝負の残り1000mを、ヴァージンの体は駆け抜けた。タイムは11分45秒。

(ウォーレットさんを捕える、私のスパートを!)

 ヴァージンは、力強くトラックを蹴り、スピードを一気に高めた。この年最も、ヴァージンの足が軽くなったように感じた。この1年、本番でのラストスパートでなかなか本来の出来にたどり着けなかったが、この日は違った。懸命にウォーレットを追うために、ペースを思い出していく。

(65……、31……、57……!)

 じわじわとウォーレットとの差を詰め、残り1周に入る直前でヴァージンはウォーレットを抜き去る体勢に入った。勝負の1周を告げる鐘が、スタジアムに響き渡る。

 体感的に、ヴァージンのタイムは13分22秒。世界記録を狙うのは、相当厳しそうだ。


 だが、ここでウォーレットがヴァージンをかすかに振り返り、眠りから覚めたような獣の目でヴァージンを睨み付けた。そして、これまでラップ70秒程度に落ち着かせていたはずのスピードを、懸命に突き上げていく。

(私と同じ走り方を……、意識し始めた……!)

 ヴァージンは、ウォーレットの本気の目に臆することなく、かつて何度も見せてきたようにトップスピードまで高めていく。だが、ウォーレットもヴァージンに先を越されまいと、懸命にスピードを上げる。カーブの内側を走る分ウォーレットのほうが有利で、ヴァージンはなかなかウォーレットの横に並ぶことができない。

 だが、それでもヴァージンはスピードを緩めない。直線に入った瞬間にウォーレットを捕え、残り250mでウォーレットより前にその足を突き出す。そして、一切後ろを見ることなくウォーレットを突き放す。

(これが、私の戦術……。私は、これで数々の記録を打ち立ててきた……!)

 飛び込んでくる、白いゴールライン。そのラインを、ヴァージンは一気に駆け抜けていった。


 湧き上がる歓声。それは、世界記録保持者ヴァージンが1年ぶりに女子5000mのレースを制した瞬間だった。


(なかなか、ウォーレットさんもしぶとかった……)

 フィニッシュタイム14分21秒28。ゴールした直後、自分のものが刻まれたタイムを見ながら、ヴァージンはやや苦し紛れに呼吸をした。そのわずか5秒後、ゴールに飛び込んできたウォーレットに、ヴァージンは思わず抱きしめられた。

「やっぱり、グランフィールドのスパートには勝てないようね……。今日も、私の完敗でしかなかった」

「ウォーレットさん、私はそうじゃないと思います。今日のウォーレットさんが、今までで一番強かったです」

 ヴァージンは、抱きしめてきたウォーレットの耳にだけ聞こえる、かすかな声で答えた。

「どうして……?」

「ほら、だって序盤はどんどんペースを上げていったじゃないですが。フォームが完成したように見えました」

「あれは、完成に近いけど、完成なんかしていない。あそこで、まだちょっときついって思ったのよ」

 明らかにペースを落とした、ウォーレットの2400m地点。距離にして、まだ半分ほど残っていた。ウォーレットは、そこまでのペース配分を悔やみながら、ヴァージンにそう答えた。

 しかし、ヴァージンはわずかに首を横に振りながら、ウォーレットに言葉を返す。

「分かります。でも、あのペースが完成したら、私ももっと勝負をしたくなります!」


「よかったな、ヴァージン」

 ヴァージンの手に、観客席からアメジスタの国旗を手渡すマゼラウスは、この年最も輝きに満ちているようにヴァージンには見えた。そして、ヴァージンが大きくうなずくと、さらに言葉を続けた。

「このフラッグは、今日はいつも以上に意味のあるものになる。この1年、アメジスタから辛い報道が流れてくる中で、アメジスタ人のお前がそれに負けなかったという、何よりの証だ」

「負けなかった……。たしかに、そうですね……」

 そう言って、ヴァージンはアメジスタの国旗を大きく広げ、観客席の前を駆ける。そこにメドゥが語りかけた。

「ヴァージン、さっきコーチが言ってたこと、私もそうだな、と思った」

「メドゥさんまで……、そう思っているのですね……」

「もちろんじゃない。アメジスタの危機に負けなかったアスリート、ヴァージン・グランフィールドは、とても強いと、みんな思っている。今日のヴァージンは、みんなにそんな夢を見させてくれたのよ!」


 ヴァージンにとって、この時の「夢」という言葉は、何よりも輝かしく聞こえた。たとえ世界記録を生み出すことができなかったとしても、この場所で本気の勝負をするヴァージンの姿は、夢と希望を与えるのだった。

 それが、みんなの期待するヴァージンの姿に他ならなかった。


「私……。なんか今、とても嬉しい……。みんながそう思っているって思うと……」

 ヴァージンの潤んだ目に、アメジスタの国旗が眩しく輝いていた。

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