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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アスリートになるためのスタートライン
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第3話 たった一度きりの世界への挑戦(5)

 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 両手でショックを隠していたヴァージンの額を、トラックで感じた温かい風が優しく撫でた。そして遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえ、ヴァージンはようやく首を上げた。

(……っ?)

 声のした方に顔を向けたヴァージンは、思わず口を軽く開いたまま、その場で固まった。自分と同じ距離を走りきった何人ものライバルたちが、彼女の視界にかわるがわる入り込む。

 そして、次の瞬間一人のアスリートがヴァージンの目の前に飛び込んできて、中腰になって彼女を見つめる。見覚えのある茶髪に、ヴァージンは思わず右手で口を押えた。

「シェターラ……さん。私……」

「ヴァージン、心配したわよ。走り終えたら下を向いてすぐにいなくなっちゃったから……」

「そう……、満足いく結果じゃなかったから」

 ヴァージンは、軽く首を横に振ってみせた。その首の動きに、シェターラは軽く首を縦に振って、バスの中から全く見せることのなかった笑顔をヴァージンに向ける。

「終わっちゃったレースは気にしないの。ヴァージン、決勝であの走りを見せればいいじゃない!」

「えっ……」


 椅子に座ってから彼女の頭によぎっていた嫌な予感と違う。

 アメジスタの小さなアスリート、ヴァージンは終わりではなかったのだ。

 48人中13位。シェターラは、続けてこう告げた。


「本当ですか……!私、まだ……!」

「なに、ここで終わりって考えちゃうのよ!私たち、決勝に進めたんだから!」

「そ、そうね……。信じられないけど……、私……」

 ヴァージンは、そこまで言い切ると目を大きく開いて、決勝で戦うことになるシェターラの表情を軽く見つめた。シェターラの額は、涙に近い汗にあふれていた。

「私だってよかったと思う……。だって、ヴァージンと戦えるんだから」

「私もよ!」

「そうこなくっちゃ。次は、本気の走りを見せて。約束」


 シェターラと右の人差し指を絡めたとき、不思議と悔しさがヴァージンの手に溢れ出していた。一度は絶望にかき消されてしまった彼女の熱い想いは、狭いロッカールームの中で再び激しく滾っていた。

(私には、もう後が……ないっ!)


 女子5000m決勝は、翌日の夕方。予選の時よりも少し気温が低い頃に同じトラックで行われる。

 ヴァージンは、ホテルに戻ると部屋には向かわずに、すぐに3階のトレーニングルームに向かう。周りを全く見ずにトレーニングルームに入ると、サイドで輝くガラスに彼女とシェターラの姿だけが映った。このホテルに泊まるほかのライバルたちは、疲れを取るために部屋に向かってしまったようだ。

(私は、まだこんなところで終わりじゃない……)

 ヴァージンは、もはや慣れた手つきでランニングマシンのタッチパネルを操っていた。走り出しのスピードまで上げるのに何秒押し続ければいいのかさえ、彼女はこの1週間で記憶していた。

 そして、最後にヴァージンはもう0.5km/hペースを上げる。今日のような失敗を繰り返さないように、あえて走り出しから自分に負荷をかけた。


 すぐ横を振り向くと、全く同じスピードで走り出したシェターラが横を振り向いていたが、入れ違いに顔を戻した。それも、意識的に……。


 ジュニア大会、決勝当日。

 他のライバルたちよりも1本早い送迎バスに乗り込んだヴァージンは、早足でロッカールームに向かい、ジャケットを力づくで脱ぎ捨てると、水色に染まったトラックが眩しい、勝負のフィールドに続く階段を駆け上がる。目の前で次々と真剣勝負が行われる中、ヴァージンはふぅと息をついてフィールドに立ち、胸に右手を当てた。

 赤と金とダークブルーのウェア。まだコーチすらついていないヴァージンにとって、その右手で触れているものが、数少ない心の支えだった。

 勝負に負けるだけの、世界一貧しい国の国旗。それでも、その中から数少ない人々が、彼女に世界へ羽ばたくチャンスをくれた。そんな温かい人たちのいる国の国旗。いま、ヴァージンの身を優しく包み込んだ。

 勝負の時は、近い。

(よし……)

 ヴァージンは、最後に自分自身を信じた。目の前に映る、ライバルやコーチたちの姿には全く目に留めず、軽くジャンプして集合場所へと向かった。その時、ヴァージンの体を聞き覚えのある声が揺さぶった。

「ヴァージン。ついに、同じスタートラインに立つわね」

「えぇ」

 予選の時は見向きもされなかったシェターラの声に、ヴァージンは軽く首を振って返し、シェターラの真剣そうな眼差しを睨みつけた。その細い眼差しをヴァージンだけではなく、全てのライバルに向けている彼女は、まさにジュニア大会3連覇を成し遂げている絶対王者の姿だった。軽い余裕すら湧き上がってくる。

 しかし、その表情とは裏腹に、シェターラはこう続けた。

「今まで、何度もジュニア大会に出てきたけど、これほどまで勝つのが難しそうな決勝はないかも知れない」

「……私が本気で走れば、ってことですか?」

「それもあるけどね……」

 そこまで言うと、シェターラは一度だけ激しく首を横に振って、再び目を細めた。

「私にとって、本当の意味で敵になるのは、バルーナ。それに、あなた。二人を振り切らなきゃいけない」

(バルーナ……さん)

 その名を聞いたヴァージンは、思わず唇を噛みしめて、集合場所に集まったアスリートたちの顔をキョロキョロと覗き込もうとした。空港でシェターラが到着を待っていた親友、エリシア・バルーナ。その名を聞いてから、ヴァージンは一度も彼女に出会っていない。

 トレーニングルームやスタジアムでは勿論、たまたまばったり会うこともなかった。

「あそこにいるわ。黄色と緑のウェアを着てるじゃない」

 シェターラが指差した先には、肌の黒い、髪を刈り上げた丸顔が映っていた。アドモンド共和国の国旗と思われるデザインの眩いデザインのウェアに包まれ、バルーナは腰を左右に回していた。

「あれが、バルーナさん……」

「そう。メールで私と連絡は取り合っているけど、バルーナはこの一年でかなり実力を上げてきた。うかうかしていると、私が追い越される」

 バルーナは、シェターラより一つ若い18歳。これまでシェターラに頭を押さえられていたジュニア大会で初優勝を掴もうと、周りのライバルの誰よりも体を動かしていた。

 バルーナの予選のタイムは、15分16秒39。シェターラをも上回り、予選1位通過を成し遂げている。

(シェターラさんとバルーナさんが、どう出るか……。でも、私はここで終わらない……!私は、こんなにまで速く走れるようになったじゃない)

 ヴァージンは、もう一度胸に手を当てて茜色に染まった空を軽く見つめた。


「On Your Marks……」

 ヴァージンの耳を前日も響いた低い声が叩き付け、アメジスタの小さなアスリートは目を細めた。もう、その場には緊張すらなかった。この約15分間、ひたすら前に出ることだけを考えればよかった。

 予選の順番でヴァージンはトラックの外側に近い方に、一方のバルーナとシェターラはトラックの一番内側に並んで立っていた。

(勝負……)


 号砲が鳴った。ヴァージンの足は予選の時よりも力強く青いトラックを叩き付けた。周りを気にせず、まずは横一直線に並んだ16人の中から抜けようと、懸命に内へと足を傾ける。100mに満たない最初の直線で、ヴァージンはトップ集団の最後尾にポジションを置くことになった。

(これだけじゃ、予選の展開と全く同じになってしまう……)

 トップ集団を引っ張るのは、バルーナとシェターラ。二人がほぼ横に並んで、後ろからの追撃を抑えている。トップ集団のその前に出られないのは、予選と全く同じ形だった。

 予選では、この後何周も同じスピードでの勝負を強いられ、最後のスパートを見誤って集団から遅れを取ってしまった。むろん、今のシェターラのような形で先頭に立てば、ライバルのスピードを絶えず気にしながら走ることができる。何としても、シェターラにバルーナと同じポジションとして認められた身として、二人の真横に付きたい。ヴァージンはゆっくりではあるがペースを上げていった。

(シェターラ……さん……)

 シェターラは、軽くバルーナの表情を見つめる。そして、首を軽く横に振って、再びバルーナの真横に立った。

 ライバルの一人を完全に射程に捉えつつ、一人で自分の走りを見せているシェターラ。ジュニア大会で3連覇しているそのたくましい姿に、ヴァージンには強さすら感じられた。周りの誰も勝負を仕掛けられない空気が、シェターラの背後から放たれていた。

 最初6人いた先頭集団を一人ずつ追い抜いたヴァージンも、シェターラやバルーナからわずかに5m後ろにつけたところで様子を見ることにした。既にスタートから7周を過ぎ、そろそろ残り2000mに入るところだった。


(……あっ!)

 これまでバルーナの横に並んでいたシェターラが、突然ヴァージンの目の前から姿を消した。

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