第25話 ヴァージンのあるべき姿を(4)
ケープシティでのレースの後、そしてオメガに戻る飛行機の中でも、ヴァージンはマゼラウスからタイムのことについてほとんど言われることはなかった。15分台になってしまったタイムから本番で少しでも元に戻せたことを評価する一方、ラップ70秒のスピードを維持できなかったことについては何も言われなかったのだ。
だが、ワンルームマンションに戻ったヴァージンは、レーシングトップスをバッグから撮りだした瞬間に、すぐに次のレースのことに気持ちを切り替えた。
(次は、もっと速く走りたいし、絶対にトップでゴールを駆け抜けたい……!)
レースに出ることができず、次が見えなかった頃と比べ、前と同じようにガルディエールから予定を告げられている今となっては、次のレースにも自然と熱が入る。その感覚をヴァージンは取り戻した。
ベッドに座り、天井を見上げると、ヴァージンの目には本当のベストの自分が、うっすらと映る。
(意識しなくても、ラップ70秒のペースになるようにしないと、いざという時に勝負にならない……)
ヴァージンはそう誓うと、天井から目を反らし、立ち上がった。
あのレースで新たな走り方に気が付いたのか、再びラップ70秒トレーニングと告げられたヴァージンからは、過度の緊張は消えていた。アカデミーに戻って最初の日に、ケープシティでのレースでとった作戦のことをマゼラウスに告げると、マゼラウスはヴァージンにこう返した。
「それは、間違いないな。本番で出せるようにするのがトレーニングなら、もしそれが不可能なときにベストな走りを見せるのは、お前自身の実力だからな」
そう言ったマゼラウスは、最後に小声で、意外にも早くそのことに気が付いた、と付け足したのだった。そして、その後のラップ70秒トレーニングでは、たとえラップ70秒をクリアできなくてもレースを止めず、最後に周回ごとのタイムを告げて、走り方のポイントを告げるようにしたのだった。
「2周目と3周目で、うまくいかなかったようだな。この前のレースでもそうだったが、序盤のペースが乱れるのが、もはや弱点になっているのかも知れないから、序盤で意識するのを忘れるな」
「はい、分かりました!」
2週間後。ネルスの大会まで、レースの間がちょうど中間に達していた。
午前のトレーニングの後、ヴァージンは普段と同じようにアカデミーの食堂に向かうと、すぐ前をグラティシモが歩いていたので声を掛けた。グラティシモの手には、菓子メーカーの紙袋がつり下げられていた。
「グラティシモさん……、お疲れ様です。何を持っているんですか?」
「あ、ヴァージン。食堂でみんなに配ろうかと思っていたんだけど……」
グラティシモは立ち止まり、ヴァージンにだけ見えるようにその袋を小さく開いた。
「これ、クッキーなのに、何かギザギザした模様が入っていますね……」
「ヴァージン、いいところに気が付いたようね。これは、ブレイククッキーと言われる、ある有名スポーツブランドの本社でしか手に入らないお土産。いわゆる、験担ぎみたいなもの」
「さすが、グラティシモさん、土産物コレクターですね……」
もう5年も同じアカデミーにいるにもかかわらず、久しぶりに見たグラティシモの土産物に、ヴァージンは思わず物珍しそうな視線を隠すことができなかった。食生活もコントロールしなければならないアスリートが、土産にお菓子を買ってくること自体それほどないため、まさにレアなケースにヴァージンは遭遇したことになる。
「その有名スポーツブランドって、どこですか……?」
「え?ヴァージン、ここまで私が名前伏せているのに、そのメーカー知らないの?」
「知りません……。このロゴも見たことないですし……」
「このギザギザしたのはロゴじゃないの。ほら、ここでは絶対に口に出せないところ」
「まさか……、セントリック……?」
セントリックと言えば、アカデミーにも名前が付いている以上、このアカデミーの運営母体である。だが、クッキーにロゴが一つも入っていないのを見たヴァージンは、思わずグラティシモに聞き返した。
「どうして、このクッキーには箱も含めてロゴが見当たらないのでしょうか……」
すると、グラティシモはヴァージンの質問を聞いた瞬間、やや首を下に傾けて答えた。
「ちょっと、言えない事情を聞いてしまったの……」
「言えない事情……。グラティシモさん、それ、私が知らない方がいい話題ですか」
「勿論。アメジスタの問題の時のように気にしちゃって、ベストなヴァージンじゃいられなくなると辛いから」
「それは、そうですね……」
ヴァージンは、この時、この謎を不思議と気にしていなかった。全てが再び順調に動き出した直後だけに、小さなショックは全く受け付けなくなっていたのだった。
その返事を聞いて、グラティシモは少し笑うような声で、小さく口を開いた。
「その言えない事情とは、勝負クッキーも始めるということ。ね、全然スポーツブランドぽくないでしょ」
「本当に、私もそう思います」
この時、グラティシモが心から笑ったような表情でなかったことを、ヴァージンは気付かなかった。
10月、オメガ国内でのネルス大会には、前回のケープシティでのレースで言われた通りメドゥがいた。だが、事前にマゼラウスから聞いた情報では、それ以外に有力選手がいないという話だったが、いざ選手受付に向かうと、そこには一番下の行にウォーレットの名前が見えた。
(ウォーレットさん、今回参加する……)
メリアムと並び、パーソナルベストだけを考えれば強敵と言わざるを得ないウォーレットが、このネルスでのレースに登場する。それを知っただけで、ヴァージンの気持ちは自然と高まっていった。
(ウォーレットさんを抜けば、間違いなくトップでゴールできる)
ラップ70秒トレーニングは、回数を重ねるうちにもはや意識しなくても体が付いてくるようになっていた。あとは71秒か70秒かといったところまで、ヴァージンの序盤から中盤にかけてのスピードが回復していった。それどころか、最後の5000mタイムトライアルも、10月に入って14分30秒を軒並み切るようなタイムに戻っている。この状態で、今日このレースを迎えることが、ヴァージンにとって最大の武器だった。
(あとは、ウォーレットさんの中距離ペースの走りに惑わされないようにしないと……)
ヴァージンがロッカールームに入ると、ウォーレットはいた。これまで何度となく出会ってきた場所だ。
「ウォーレットさん……。なんか、こうやって一緒に走るのはものすごく久しぶりな気がします……」
「グランフィールドじゃない。今まで勝負ができなかったから、今年は全然記録が伸びなかったわ」
ウォーレットは、軽く笑いながらヴァージンにそう告げた。だが、その目はもう真剣だった。
「逆に、今日は出ていないですが、メリアムさんが最近調子を上げているのがものすごく気になります」
「そうね……。でも、私は世界記録を私とグランフィールドで争うと思っているけど」
そう言うと、ウォーレットはロッカーの鍵を閉めて、バッグを肩に担いで歩き出した。そして、数歩歩くと、ウォーレットはヴァージンに振り返り、やや小さな声で言った。
「私は、そろそろフォームが完成形と言われている。そのことだけ言っておくわ」
(完成形……。もしかして、それは中距離ペースの走りということなのかも知れない……)
ヴァージンは、ウォーレットの姿が見えなくなると、一度うなずいて荷物をロッカーにしまい始めた。
(それでも、私の方が自己ベストは上。ウォーレットさんの飛ばすような走りを、まだ気にしなくていい)
スタジアムには、ケープシティ選手権をはるかに超える人々が集まっていた。その中には、見るからにヴァージンの応援をするような横断幕もあった。
(Go,VIRGIN,Go!!……って、何か私の力になりそうな感じの横断幕……)
ヴァージンが、その横断幕に向かって手を振りかけた瞬間、女子5000mの出場選手を係員が集合場所に呼んだ。ヴァージンはトレーニングウェアをバッグに入れ、ゆっくりと集合場所に向かった。その間も、観客席からヴァージンの名を呼ぶ声が絶えなかった。
(私の本気、みんなに見せてあげたいです……)
集合場所からスタート地点へと歩くヴァージンの目は、やや細くなっていた。勝負となるトラックの感触を、一歩、また一歩と感じながら、ヴァージンは勝負の始まる場所へと向かった。
その後ろを付いていく、ウォーレットやメドゥには、一切振り返ることをせず……。
「On Your Marks……」
ヴァージンの耳に、始まりの時を告げる声が響いた。今度こそ、タイムとスピードを取り戻したい。その想いが、ヴァージンの全身から強く解き放たれていた。