第25話 ヴァージンのあるべき姿を(3)
スタートの号砲が鳴り、ヴァージンの足は他のライバルたちとほぼ同時にトラックを叩きつけた。これだけのライバルに囲まれてスタートするのも、この年初めてのことだった。何足ものシューズが代わる代わるトラックを叩きつける中、ヴァージンはトレーニングで何度も感じてきたはずの、ラップ70秒のストライドを意識する。
(あれだけ、ラップ70秒トレーニングを繰り返してきた。本番でも、きっとできるはず……)
ヴァージンは、普段のトレーニングよりもややストライドを小さく取る。このトレーニングを本当の意味でクリアしていない段階で、4000mまでラップ70秒のペースを維持するには、そうするしか方法がないと、ヴァージンは前から戦術を決めていたのだった。
だが、ヴァージンのストライドを乱すのは、この日もハイペースでレースを引っ張っていくメリアムではなく、ヴァージンよりも一歩前に出たメドゥの方だった。スピードを上げようとするが、メドゥに前を押さえられる。横に出て追い抜こうとするが、この早い段階で勝負をかけなければ横にぴったり付く体勢になってしまう。
(トレーニングの時とは、全然違う……。それでも、私はスピードを重視しなければいけない……っ!)
ヴァージンは、3周目で早くもギアを上げていき、メドゥを外から追い抜いていく。瞬間的にはラップ68秒ほどのスピードでメドゥの横を駆け抜け、メドゥより前に立つと再びラップ70秒ほどに落ち着かせようとした。
ところが、すぐさまメドゥが抜き返そうと横に出る。メドゥは特段ペースを上げている様子ではない。その段階で、ヴァージンはペースを落としすぎたことに気が付いたのだった。
(72秒ぐらいになっている……。いや、73秒……)
早く勝負をかけたことで、維持を心がけてきたはずのスピードが失速し始めていた。これまで何度も走ったはずのトレーニングでは、ほとんど見せなかったパターンに、ヴァージンはハマってしまったのだ。
(このままじゃ、悪いときの私に逆戻りしてしまう……)
4周目に入り、ヴァージンは再び前に出たメドゥを追い抜こうと、若干ペースを上げようとする。だが、一度落ち着いたペースを元に戻すのは難しく、この中盤でのスピードアップも思ったほど伸びていかない。5周、2000mを過ぎたあたりには、早くもラップ73秒まで戻ってしまった。
少しずつ遠くなるメドゥと、少しずつ見えなくなるメリアム。
これまで勝負し、打ち勝ってきたはずのトップアスリートが、戻ってきたヴァージンを突き放す。
約1年、勝負の世界から遠ざかっているだけで、できたはずのことができなくなっていた。
そのことに気が付いたヴァージンは、自らの声で語りかけた。足、腕、そして全身に。
――できないならできないなりに、自分の最高だと思う走りを見せればいい。タイムはそれでついてくる。
その瞬間、ヴァージンは足が軽くなった。ラップ70秒を意識しなければならないという義務感から解放されたのか、ヴァージンの足はより力強くトラックを叩きつける。スピードはそれほど上がらないが、ヴァージンは全力で勝負に臨んでいるように思えた。何より、それが楽しかった。
そして、懸命に勝負するうちに、100mほど開いていたはずのメドゥとの差を数十mだけ縮めたように、ヴァージンの目には見えた。メリアムは、まだラップ70秒ほどのスピードで走っているようだが、まだ追える範囲だと信じ、ヴァージンは終盤でのスパートに賭けた。
(私は、この場所、このレースで、本気にならなきゃいけない。そして、自分の全てを出し切る……!)
勝負の4000mを過ぎた。体感的には12分06秒前後だ。ヴァージンは、ここでスピードを上げる。
(65……、31……、57……!だっけ……。でも、今日は意識しない方がいい!)
ヴァージンは、ここで首を横に振った。残された体力で出せる限りの力を出そうと決めた。最初のカーブを曲がる頃にラップ70秒ほどのスピードまで上げていき、残り2周となる4200m通過あたりでラップ68秒へと、徐々に本来のラストスパートに近づけていった。メドゥとの差も、50mほどまで迫る。
(残り1周……っ!)
ラップ66秒ほどまで上がったその足を、ヴァージンは一気にトップスピードまで高めていく。メドゥを、そしてその先でレースを引っ張っていくメリアムを追いかけながら、ヴァージンの力強い加速がカーブで冴える。
全ての力を出しているように感じた。その状態で、ヴァージンは残り少ない距離を駆け抜ける。
メドゥが目の前に見える。その足を、ヴァージンはついに目の中に捕えかけた。
だが、戻ってきたヴァージン・グランフィールドのレースは、そこまでだった。
14分47秒26。3位。
復帰後初めてとなるレースでヴァージンを待っていたのは、最後はそのタイムと順位だった。
ヴァージンは、ゴールラインを駆け抜けた瞬間、疲れ切った膝に両手を当て、その目はトラックでも、フィールドでもなく、青い空を見つめていた。
(全力を出し切った……。これが、今日の私の出せる力だった……)
タイムが付いていかなかった。体を、スピードを元に戻すことができなかった。けれど、ある地点から先は最高の走りを見せることができたのかも知れない。いろいろなことを、この時のヴァージンは考えていた。
しかし、そんなヴァージンの前に、二人のライバルが同時に姿を現した。ヴァージンは、顔を正面に戻す。
「メドゥさんと……、メリアムさん……!」
左右から同時にバッと抱きしめられたヴァージンの目が、思わずにじんだ。じわじわと現れたはずの足の疲れも、二人のライバルの全てを出し切ったような肌に触れるだけで、どこかへ消えていくようだった。
ヴァージンの目から、涙が一滴こぼれると、二人はほぼ同時に、同じ言葉をヴァージンに言った。
「おかえりなさい、ヴァージン」
(メドゥさん……、メリアムさん……。本当に……)
チャリティーレースの後にも、メドゥから言われたはずの言葉だったが、実戦のレースではその言葉の重みがまた違っているように、ヴァージンには思えた。
「ありがとうございます……」
ヴァージンがそう言うと、メドゥがゆっくりと中腰になり、ヴァージンに視線の高さを合わせた。
「私たち、ヴァージンと勝負できる日を、本当に待っていたんだから!この時が来て、本当に嬉しかった」
「私も……です。負けたはずなのに……、走り終えてものすごく楽しかったように思うんです」
ヴァージンは、涙を浮かべながらも、軽く笑ったような表情を浮かべようとした。メドゥから軽く目を離し、まだ汗の残る右手で涙を拭うと、その先にはメドゥのほほえましい表情が飛び込んできた。
「それはよかった。その気持ちがあれば、私たち、いやヴァージンを応援してくれる世界中の人々が、良かったって思っているはず。それくらい、ヴァージンと今日本気で勝負できたことは、素晴らしいことなのだから」
すると、メリアムもメドゥの真横に立って、そっとヴァージンに語りかける。
「それでもこの場所に戻ってきたグランフィールドに、みんな勇気づけられてると思う」
「勇気づけられてる……。本当にそうですね……」
そうヴァージンが言うと、メドゥはやや間を置いて、ヴァージンにこう告げた。
「前に、ヴァージンの出したタイムだけは消えないって話をしたと思うの」
「はい……。たしか、私が一番落ち込んでいたあの時ですよね」
「そう。でも、その言葉、ちょっと間違っていたのかも知れない……。ちょっとだけど」
メドゥの言葉に、ヴァージンは軽く首をメドゥのほうに傾ける。
「たしかに、タイムは私たち陸上選手の足跡。でも、みんながヴァージンを見たときに思うことは、それだけじゃない。きっと、タイムだけじゃなくて、レースに挑むヴァージンの全てを感じると思う。ストライド、呼吸、スピード……、その一つ一つが、みんなに夢や希望を与えると思う」
「……まさに、メドゥさんの言う通りです。それが、私たちのできることなのですから……」
今度は、ヴァージンがメドゥの胸の中に飛び込んでいった。いつまでもアスリートとしての先輩であり続けるメドゥに、言葉にならない感謝の気持ちが、ヴァージンの表情に溢れ出していた。
「次はもっと夢や希望を与えられるような走りを見せたいです……。メドゥさんやメリアムさんと、そして世界記録との勝負をする私の姿を見せたいです」
「いいじゃない、ヴァージン。私は、次のレースでも待っているから」
メドゥはそう言うと、ヴァージンの両肩を持った。そして笑った。その様子が、スタジアムに押し寄せた多くの観客の記憶に残ったことは、言うまでもなかった。
汗と涙が、ヴァージンには眩しかった。