第25話 ヴァージンのあるべき姿を(2)
マゼラウスが提案した「ラップ70秒トレーニング」は、ヴァージンにとってこれまでのトレーニングで一、二を争うほど過酷なものだった。夕方でも気温の高い日が続くこの季節に、このトレーニングを一日に何回も試すことができず、ヴァージンは汗ぐっしょりになりながらも自らのラップタイムに一喜一憂するようになっていた。2000m、つまりトラック5周分すらクリアできず、その度にヴァージンは自分の出来に、首を横に振るのだった。
だが、それでもヴァージンはトップアスリートの意地を見せる。2週間後、ついに2000mのクリアにこぎつけたのだった。普段レースに出場する時の距離からすればまだまだ短いが、この日のヴァージンはマゼラウスにクリアを告げられた瞬間、全身の力を使い切ったようにトラック横に座り込んだ。
「やっと一つ、目標をクリアしたじゃないか。少しずつ、お前の本来の走りが戻ってきた」
「はい……。ラップ70秒だけ、頭の中で数えられるくらいになりました」
「そうか……。あと、もう一つヴァージンに聞こう」
マゼラウスが、やや間をおいてヴァージンの注意を引きつけた。
「次のレースがやってくると考えるのは、楽しいか?」
「もちろんです。そのために、私は毎日こうやって走っているんですから」
「ヴァージンよ、そうなればこのトレーニングのねらいの大半はクリアだ、明日からは2400mに挑め」
「はい、分かりました」
そう言ってヴァージンが口元を緩めると、マゼラウスもこの日一番の笑顔を見せた。
その後、2400m、2800mと距離が長くなるにつれ、スピードの維持がさらに難しくなる。距離が変わるにつれ、最初からスピードの組み立てをしなければならない。ただでさえ、イーストブリッジ大学の2年生の講義が始まり、レースまでの日数が徐々に短くなる。それでも、ヴァージンは少しずつタイムを修正していった。
「夏の間よくがんばった。ひとまず3200mクリアできたから、このトレーニングは終わりにしよう」
「はい。……3600mと4000mは、いずれまた挑戦したいです」
「……そう言うと思った。だがな、それは5000mのタイムトライアルの中で、お前自身が意識して欲しい。4000mまで完璧にやるのではなく、そのペースを意識し続ければ、きっと大丈夫だ」
マゼラウスは、落ち着いた口調でそう言った。そして、ヴァージンにしか聞こえないような声でこう続けた。
「次のワールドレコードを出した時、それが100点満点のお前の走りを手に入れた瞬間だ、と私は考える」
ケープシティ選手権が直前に迫り、セントリック・アカデミーの休憩室にあるテレビでは、「女子5000m世界記録保持者」ヴァージンの復帰をニュースで伝えていた。その瞬間、何人ものアカデミー生が一斉にヴァージンに目線を向けたように感じた。だがヴァージンは、そのニュースを特に気にすることもなく、首を縦に振った。
しかし、そのニュースが終わった直後、ヴァージンは思わずテレビを二度見してしまった。
「さて、そのヴァージン・グランフィールド選手の最大のライバルと言っていいのが、こちらソニア・メリアムです。大学を卒業した直後のマストブル大会で、なんと自己ベストを大幅に更新する14分13秒28を叩き出しました。1500mを専門にしてきただけあって、スピードは他の長距離走者を大きく上回っています!」
(14分13秒23……。あと1秒26……)
ヴァージンは、1年近く前に自らが叩き出したワールドレコードをもう一度頭の中に思い浮かべ、自然に両腕に力を入れていた。わずか1年近く、自分が本番の大会で走れないうちに、ライバルはヴァージンに少しずつ近づいてくる。ウォーレットも、中距離走の走りが少しずつ身を結びつつあるのか、自己ベストに近い走りでタイムを残すようになった。
(今度のケープシティで、きっとウォーレットさんやメリアムさんが私を意識してくるはず……!)
ヴァージンは、ゆっくりと目を閉じた。その目の先には、かつてライバルたちと走ったレースが浮かんでいた。序盤はリードを許しながらも、徐々にライバルとの差を詰め、最後はヴァージンの武器と言うべきスパートで抜き去る瞬間が、次々と流れてくる。
(そう言えば、私あまりイメージトレーニングをしたことがないはずなのに、珍しく思い浮かべている……)
ヴァージンは、再び目を開いた。ニュースはもう別の項目に移っていた。だが、ヴァージンはメリアムとの勝負を、いつまでも脳裏で思い浮かべていた。それは、長いこと離れていた勝負の場の感覚を取り戻すために、ヴァージンがどうしても必要なものだった。
(なんだろう、この楽しさは……)
そして、大会当日。ケープシティの空は、ヴァージンの復帰を祝うように青く澄んでいた。ホテルからタクシーでスタジアムに着くと、タクシー乗降場には既に何人もの人が小さなアメジスタ国旗を持って待っていた。
「ヴァージン・グランフィールド、頑張れ!ずっと待ってたよ!」
「今までで一番の走りを見せてくれよ!」
ヴァージンに向けて次々と飛び交う、言葉の数々。ヴァージンは、それら一つ一つに顔を向けて返した。一歩、また一歩と、久しぶりとなるスタジアムへの道を進むヴァージンには、不思議と過度な緊張は生まれなかった。声援が、ヴァージンの心を落ち着かせる追い風に変わっていく。
そして、ヴァージンが選手受付に着くと、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「グランフィールド、久しぶり!ずっとこの日を待っていた」
「メリアムさん……!」
そこには、紫色の髪がトレードマークのソニア・メリアムが立っていた。ヴァージンがほんの数ヵ月しかいられなかった、大学の陸上部での思い出がヴァージンに蘇ってくる。
「大学で一緒だったのに、ここ何ヵ月も全くグランフィールドのことを見なくなって、すごく心配した」
「私も、メリアムさんとなかなか会わなくて、陸上部のことを懐かしく思っていました」
ヴァージンは、一度うなずきながらそう答えた。すると、メリアムが軽く微笑むのが分かった。
「私だって、陸上部は懐かしいと思ってる。けれど、私たちは陸上部じゃなくても、こういうトップが集う大会で会うことができるじゃない。だから、グランフィールドが残酷な現実から解放される日を、私はずっと待っていたの」
「そう言ってくれると、本当に幸せです。ずっと辛い想いをしていたのが、どこかに消えていくようです」
「グランフィールド、今日は、一番の走りを見せてちょうだい」
「勿論です。世界記録まであと1秒26のメリアムさんと、本気で戦いたいです」
ヴァージンの復帰戦ではあったが、ウォーレットはエントリーしていなかった。この年、ウォーレットは世界競技会以来、レースに出場しておらず、この先のレースに出るという情報もヴァージンの耳には全く届いていなかった。
それでも、メドゥやグラティシモといった、これまで何度もヴァージンとの勝負を繰り広げてきたライバルたちのエントリーは確認できた。まだスタジアムには姿を現していないが、トラックの上に立ったとき、その場を流れる空気を思い出すだけで、誰と一緒に走るかはっきりと分かる。ヴァージンは、そう言い聞かせた。
そして、その時はやってきた。
「女子5000m出場選手は、こちらに集まってください!」
1年ぶりになる、勝負の12周半へと続く時間の始まりだ。ヴァージンも、トレーニングウェアをマゼラウスに預け、今年初めてとなるアメジスタの国旗に彩られたレーシングトップスで集合場所に向かった。
その瞬間、ヴァージンは輝くような金髪をなびかせるメドゥの後ろ姿をはっきりと見た。アメジスタの問題でどん底に落ちたヴァージンを支えた、そのうちの一人がメドゥに他ならなかった。
(メドゥさんが企画してくれたあの時は、本当にレースができて嬉しかった。いま、こうしてレースの場に立つときも、なんか同じようなゾクゾク感が生まれてくる……)
そう心に言い聞かせながら、ヴァージンはメドゥの後ろ姿を数秒間見つめた。その時、ヴァージンの目の動きに気が付いたのか、メドゥがゆっくりとヴァージンに振り向き、かすかに微笑んだ。そして、すぐに真面目な表情に戻り、最後のアップを始めた。
(私、この場に戻ってきた……っ!なんか、それだけで幸せな気がする……)
ヴァージンは、その目の先に薄青のトラックを眺めながら、この時はっきりとそう誓った。チャリティーレースの時より、ずっとその想いは強かった。1年前と同じように、カメラで顔が映される間ですら、ヴァージンはそう思うほどだった。
「On Your Marks……」
ヴァージンの再びのスタートを告げる声が、スタジアムに響き渡った。
その目は、5000m先のゴールだけをじっと見つめていた。