第25話 ヴァージンのあるべき姿を(1)
前年11月から半年以上デフォルトの状態だった、アメジスタのオメガ国に対する6000万リアの債務は無事返済され、オメガ国内にあったヴァージンの預金口座の凍結も解除された。
とは言え、この時点でヴァージンにはほとんどお金が残されていなかった。それどころか、ヴァージンが17歳の時に最初に契約したシューズメーカーのイクリプス以外、全てのスポンサーがヴァージンから手を引いたということも、レースに復帰できると知らされた直後に、ガルディエールから話があった。年30万リアという大口の契約料をヴァージンに支払っていたスポンサー、ウォーターサプリとの契約が解除されただけでも痛手だったが、それ以外のスポンサーが降りることもそれなりに痛手だった。絶望を抱えた状態で、ヴァージンにその話をエージェントが知らせなかったというのが大きな理由だが、これでヴァージンのスポンサーの数は世界記録を初めて樹立する以前の状態まで戻ってしまったことになる。
だが、ガルディエールは、その電話の最後にこう告げた。
「それでも、君の走りに共感してくれる人は、また現れると思うよ。現に、イクリプスはこんな状態でもヴァージンを支えようとしているんだから」
「そうですね……。あとは、レースで私自身を見せるしかありません」
「大事だからな、この後が」
ヴァージンの預金封鎖が解除された直後に、「アメジスタ・ドリーム」の口座もヴァージンはまた復活させた。アメジスタ情勢のニュースは、何か事件が起きるたびにオメガ国内の主要メディアで取り上げられるようになり、デフォルトから生じた混乱が、未だにアメジスタ国内でくすぶり続けていることを伝えている。その度にヴァージンはそのニュースに気を留めるが、全くレースができなくなったあの時のようなショックは感じなかった。
(私は、多くの人の心を動かしてきた……。それはきっと、アメジスタの人々にもいつか伝わると思う)
ヴァージンの活躍が故郷で伝えられていないことは、ヴァージンがレースに復帰しようがしまいが同じだった。だが、いつか混乱が収まり、アメジスタ出身であるヴァージンが向こうのメディアで取り上げられる日がくるかもしれない。ヴァージンは、そう胸の中で言い聞かせた。
それは、ただヴァージンの計算にすぎないかもしれないが……。
世界競技会のエントリーができなかったため、ヴァージンのレースは9月にグロービスのケープシティで行われるものが最初となり、次いで10月にオメガ国内で行われるネルスの大会に決まった。これら二つの大会は、スポンサーが撤退したヴァージンにとって参加料の面で大きな負担になったが、マゼラウスからの借金で何とか出場できるようになった。勿論、この二つの大会で賞金が取れなければ、マゼラウスへの借金も返せない上、その次の大会に出るためにアルバイト、またはスポンサー契約をしなければならない。
(それ以上に、大学2年生になるときには、学費が必要になるんだった……)
間もなく、1年生後期のテストがやってくる。ほとんどの講義に参加できたヴァージンにとって、大学の単位を取るのはそれほど苦にならなかったが、問題は今年の11月までに支払わなければならない学費だった。
(大学で貧困学を学びたいという気持ちはまだ残っているけど……、これも賞金がなければ無理な話……)
そう思ったヴァージンは、右手にギュッと力を入れ、トレーニングに臨んだのだった。
だが、ヴァージンにとって最大の危機は、スポンサーでも学費でもなく、タイムそのものにあった。
「15分09秒38!」
預金凍結が解除されて三日後、マゼラウスから伝えられたタイムにヴァージンはクールダウンをしながらガックリと首を垂れた。自らの世界記録よりも1分近く遅いタイムを5000mで叩き出してしまったのだ。
うなだれたヴァージンは、マゼラウスが近づいてくる気配を感じると意識的に顔を上げた。マゼラウスの表情は、レースに出られなかった時期にはなかったほど強ばっている様子だった。
「あの日からもう三日経つが、お前のタイムは相当悪くなってしまったようだ」
「はい……」
ヴァージン自身は、本気に近いタイムで走ったつもりだった。だが、体感的にラップ74秒ほどのスピードで落ち着いてしまったばかりか、最後のスパートもそれほどスピードに乗れていないことも、同時に分かっていた。
「お前がレースに出られなかったこの半年、他のライバルは着実に成長してきているはずだ。まだ今季14分15秒を切るようなタイムは出ていないが、夏から秋にかけてシーズンがピークを迎えたら、きっとお前の世界記録も危なくなってくる」
そう言うと、マゼラウスは軽く息をついた。その息の音で、アカデミーじゅうでトレーニングをしている全ての音が、ヴァージンの耳から消え去っていくようだった。
「ラップ70秒を、もう一度意識させないといけないようだ。明日から、お前がその走りを取り戻すまでの間、練習メニューに組み込んでおこう」
マゼラウスから示されたトレーニングは、まずラップ70秒でトラック5周を走り続けること。以前、インドアでスピードアップトレーニングをしたときのように、一回でもラップ70秒をクリアできなかったらその時点で最初からやり直しというルールだった。それができたら、次は2400m、2800mと距離を伸ばし、最終的にはトラック10周分となる4000mまでラップ70秒を維持するというものだった。
だが、このラップ70秒トレーニングをクリアすることは、長いこと実戦から遠ざかっているヴァージンにとっては酷だった。スタートでラップ70秒を意識してスピードを上げるが、それを2周、3周と続けることができない。
(決めたはずのスピードに、足が付いていかない……!)
「ラップ70秒のスピード、たった3周で終わりか、ヴァージン」
「いいえ……。もう少し続けられます!」
ヴァージンが、はっきりとした口調でマゼラウスにそう伝えると、10分のインターバルを置いて再びラップ70秒トレーニングが始まった。
(次こそは……)
スタートラインに立つヴァージンの目に、走り慣れたセントリック・アカデミーのトラックが飛び込んでくる。目を細めながら、コーチのスタートの号砲を待つ。
(よし……)
号砲が鳴る。ヴァージンは、右足を力強くトラックに叩きつけて、スピードを上げていく。ラップ70秒のスピードを感じ、ヴァージンはそこでスピードを落ち着かせ、4つ目のコーナーを回る。
だが、スタート地点まで戻ってきたとき、ヴァージンはマゼラウスの制止する声を聞いた。
「71秒じゃないか!スピードに乗ってきたと思ったら、カーブを回った後にスピードを落としている」
「はい……」
ヴァージンは、改めて自らの走りを振り返った。たしかにラップ70秒を意識してスピードを上げていく。だが、そのスピードを安定させられなくなっていて、結果1周回ったときに意識したラップが達成できないのだ。
「もしかしたら……、お前は長距離走者として少しまずい領域に入ってしまっているのかも知れない」
「相当、まずい領域……、ですか……」
マゼラウスから突然言われた言葉に、ヴァージンは思わず息を飲み込む。アメジスタの中等学校で陸上部にいたときから、これまでずっと5000mを中心にトレーニングを続けてきたヴァージンにとって、長距離走者として、という言葉が指導者の口から出てくることは、全くの想定外だった。
ヴァージンは、おそるおそるマゼラウスの次の言葉を待った。しばらくの間の後、マゼラウスは告げた。
「お前なら分かっていると思うが、長距離走者は、中盤で安定したラップが求められる。スピード、それにパワーを持続させる持久力だ。だが、お前の今の走りは、どこかガクガクしていて、勝負を短い時間で決めようとしている短距離走者のようだった」
「はい……」
たしかにこの半年の間、ヴァージンは夜のジョギングコースでゆったりと走ったり、2000mにも満たない短い距離を全力で走ったりして、ヴァージンがかつて見せてきた、ラップ70秒で走りを持続させることをほとんどしてこなかった。ラストスパートで力を爆発させることはできるが、それまでの間のスピードが悪くなっている。
「お前は、長距離の体格をしているし、私もずっとそれで鍛え上げてきた。だが、ここにきて無意識に短距離走になり始めているのは、本当によくないことだ。お前の体で、世界レベルの短距離勝負は難しいのだがな……」
瞬間的にパワーを出せるのが短距離走者、パワーを持続させるのが長距離走者。当たり前すぎることを伝えられたヴァージンは、思わず体が熱くなった。
「勿論、ラストスパートに強いのは、お前の最大の武器だし、それで世界記録が取れているというのはある。だが、長距離走者の本質は、スピードの持続だ。時間をかけてもいい。お前なら、まだ本来の走りを取り戻せる!」
「はい!」
ヴァージンの手を取るマゼラウスの表情は、強い決意に満ちているようだった。