第24話 ヴァージンのようになりたい!(6)
(本気の足……!)
スタート直後、リバーフロー小学校第1走者の女の子が、小刻みにトラックを叩きつける。回数にして、ヴァージンの1.5倍だろうか。ヴァージンのほうがストライドの長い分だけ前に出ているにも関わらず、その音に焦りすら覚えた。ヴァージンのやや後ろにつけられながらも、懸命に食らいつこうとする。
10秒ごとに相手が変わり、地面を叩きつける音も変わる。そして、四方八方から聞こえる児童たちの声援。普段と違う空気に、ヴァージンは児童たちの生命力を感じた。ヴァージン自身が、走ることに全てを懸けているのと同様に……。
(まだ始まったばかり。最初からそんなの気にしちゃいけない……)
ヴァージンは、一度だけ首を横に振り、自分が進むべきトラックを見た。ただ己の走りに集中することにした。トレーニングでもほとんどラップ70秒をクリアしていないだけに、この日も体感で73秒、74秒ほどのスピードで小学生たちの様子を伺うことにした。
そして、最初の22人が終わり、小学1・2年生から小学校の教諭へとバトンが渡される。相手は大人だ。まだ1100mというこの地点で、普段はまずありえない、意図しないスパートに注意しなければならない。
ヴァージンは、意識的に後ろを振り返った。70mくらいは差をつけているだろうか。だが、教諭8人で50mを平均8秒くらいで走るとなると、その差は一気になくなる。その後の小学3年生も、男子で速い児童となるとヴァージンのラップを上回るバトンリレーが行われるだろう。
(よし……!)
ヴァージンは、ここでややスピードを上げた。ヴァージンは重心を前に傾け、意識的にラップ70秒になるようストライドをより長く取った。
だが、なかなかペースが上がらない。ラップ70秒へペースアップしようとしても、体感的に71秒に落ち着かせるのがこの日のヴァージンにはやっとだった。トレイルランニング以外ではまず走らない土のトラックなのか、それとも実戦から遠ざかっているのかは分からない。
レース序盤でもがいているうちに、ヴァージンは小学生の足音を再び感じた。教諭だけで相当差を縮めたようだ。少しずつ引き離してきたつもりだが、小学生の声援をかいくぐって現れるその足音を耳で感じる限り、80mほどあった差はおよそ40mまで縮められているようだ。
(まるで、学校全体で私を追いかけている……。私だって、抜かされたくない……)
ヴァージンは、その想いで自らの体を奮い立たせた。瞬間的にラップ70秒ペースのストライドを取り、普段より力強く大地を蹴った。
ヴァージンが抜かされるとさえ思っていた4年生との勝負では、意外にもその差は多少広がった。ヴァージンの耳には再び足音が聞こえなくなった。だが、次は教頭のウェリトスだ。スタート位置で待っていたウェリトスの、楽しそうで、本気にも見える表情がヴァージンの目に飛び込む。
(私が、心を動かしたかも知れない人の一人。ここは集中していかないと!)
残り5周半だが、ヴァージンは再びストライドを広く取った。何十歳も歳の離れたウェリトスと校長を相手に差をつけ、平均タイムが今のヴァージンのラップを上回る5・6年生との勝負に賭けることにした。
だが、その目論見は見事に外れた。ウェリトスが、これまで話したときには全く感じることのなかったほどのスピードで、ヴァージンを猛追してきた。わずか50mだが、それでもヴァージンとの差を数mほどは縮めただろうか。逆に、ヴァージンは、足が残り距離を意識しているのか、ここでも思うようにスピードを上げられない。
そして、最後は5・6年生が懸命にヴァージンを追いかける。残り5周を切った。ヴァージンはここでもう一度後ろを振り返る。
(明らかに、小学生のスピードが上がってきている)
後ろを振り返ったのは1秒にも満たない時間だったが、それでもヴァージンの目にははっきりとそれが感じられた。成長して足が長くなっていることもあるが、機動力がこれまでと全く異なっている。
次の1周でじわじわと差を詰められ、残り1400mまで達したときに、ついに小学生に真横に並ばれてしまった。そして、瞬時にかわされる。トラック全体を駆け回る声援が、よりいっそう大きくなる。
(……追いつかれたっ!)
メンバーも走り方もスピード加減も普段と違う「ライバル」を、嫌でも意識しなければならない瞬間がヴァージンに訪れた。5000mと100mで、その力の出し方はあまりにも違う。
(でも、普段のレースで想定外なんて言葉を決して口になんかしちゃいけない……!)
ヴァージンは、首をもう一度横に振っていた。無意識だった。その時、その背後からはっきりと声が聞こえた。
――グランフィールド先生!頑張って!
(……っ!)
これまで、小学生からの声援はどれでも走っている「仲間」に対する声援だった。だが、小学生はその「仲間」の一人として、ヴァージンの名を呼んでいる。児童や教員たちを勇気づけ、「運動会」を初めて行う力となったヴァージンの本気をもう一度見たい、と言わんばかりに叫んでいるのだった。
その声に、ヴァージンは首を縦に振った。
(何度も戦っている距離で、負けるわけにはいかない!ここからが、私の本当のスピードを見せるとき……!)
ヴァージンは、力強く大地を蹴り、一気にスピードを上げて小学生を再び捕え、突き放しにかかった。懸命に食らいつく小学生。100mごとに切り替わっていく相手に対し、少しずつスピードを上げながら、ヴァージンは残された距離と戦った。だが、それでも小学生との差はほとんど開かない。
(ラストスパート……!)
いよいよ最後の1周。ヴァージンは、ギアをトップまで上げた。ラップ60秒を切るまでぐんぐんとスピードを上げ、ヴァージンが土のトラックを駆けていく。小学生との差を少し、また少しと広げていく。
勝負の第4コーナー。ヴァージンは体を傾け、スピードを維持する。そこに、イリスが待っていた。
(私は、イリス君の目の前で、彼のやっていることが無意味じゃないって証明する!)
わずか7~8m。イリスの手にバトンがわたる。イリスの心に、火が点るように思えた。
その力を見せることのできなかった一人の少年はいま、トラックを駆ける陸上選手の姿になったのだ。
立つ者全てが本気になれるこのフィールドで競り勝つ。そのために生きる二人が、残り100mで本気を見せる。
(私は……、イリス君より一歩でも前に出る!)
ヴァージンの目に、ゴールラインが近づく。最後の瞬間まで、ヴァージンはトップスピードを緩めない。
だが、同時にヴァージンは、その視線に輝くような茶髪が飛び込むのを感じた。
(……っ!)
イリスの本気のパワーが、ヴァージンにもはっきりと伝わった。残り数mのところで、イリスがヴァージンを抜き去っていく。
ストップウォッチこそないが、時間にして0コンマ何秒の差で、小学生と教諭のリレーがこの勝負を制した。
夢を諦めないことを教わった子供たちが、ヴァージンを追い抜いたのだ。
(でも、何故なんだろう……。やっぱり、走り終えたときには楽しいとしか感じない……)
ヴァージンは、決して悔しさを体で表現しなかった。それどころか、すぐにクールダウンのために歩くその足で、イリスの前まで進み、やや膝を屈めながらイリスに微笑んだ。
「おめでとう、イリス君」
イリスは、ヴァージンの声に気付いた瞬間、既に顔いっぱいに涙を浮かべ、思わずヴァージンに飛びついた。
「ヴァージン・グランフィールド先生……。こんな僕を本気にさせてくれて、本当に、本当にありがとうございます!楽しかったです……!」
「イリス君の本気は、私にも伝わりました。すごい走りで、プロの陸上選手がいるような感じがしました」
「そう言ってくれて助かります……。あと、これを言っていいか分かりませんが……」
「言ってごらんなさい」
イリスは、涙を手で拭いつつ、潤んだ目をヴァージンに向けながら告げた。
「夢や希望を諦めずに生きる先生の走る姿が、僕の力になりました!」
「イリス君の力……」
「はい。先生の走りは、このトラックに全てを懸けてるって感じがします。トラックを蹴る音とか、息づかいとか、真横に並んだときに僕と全然違うって思いました」
ヴァージンは、イリスの言葉ひとつひとつにうなずいた。時折溢れる、全てを出しきった呼吸のたびに、イリスの表情が和らぐのがはっきりと分かった。
「僕も早く、先生のように全てを懸けて走れる陸上選手になりたいです!」
そう言うと、イリスがヴァージンの右手をギュッと握りしめた。イリスのその手に、燃え上がるような熱さがあるように、ヴァージンには感じた。
そして、その瞬間、イリスの握手に共鳴するかのように、児童たちから次々と言葉が飛び交った。
「グランフィールド先生、最初会ったときは優しかったのに、走るときはとても本気でした!」
「最後すごく速くて、しびれました!」
「僕はサッカーをやってるけど、先生の姿を見て、陸上もやってみたいと思いました!」
止まらない言葉の数々に、ヴァージンも胸が熱くなった。児童たちの誰もが、ヴァージンから夢や希望を与えられているように思えた。
(ライバルや記録に勝つために、私はトラックの上を本気のパワーで戦う。そんな私の本気は、多くの人に夢や希望を与えている……。だからこそ、私は一人のアスリートなのかも知れない……)
今は、世界の強豪を相手にレースをすることのできない、ただの世界記録保持者とさえ思われてしまう。そう思うことも、ヴァージンにはあった。それでも、本気で走ることで夢や希望を与えることができる。そう気付かせてくれたのは、他でもない、このリバーフロー小学校の優しさだった。
(私、まだ諦めない……。みんなの夢や希望を、消したくなんかない……!)
ヴァージンは、そう誓って首を縦に振った。そして、集まった全ての人に向けて、力強く言った。
「ありかとう!本当にありがとう……!」
リバーフロー小学校から戻ったヴァージンに、数日後信じられないニュースが飛び込んできた。
「今日は、とても嬉しいニュースを伝えにやってきた」
朝、普段通りにセントリック・アカデミーに姿を見せたヴァージンの目の前に、ガルディエールが、半ば微笑んだ表情でロビーに立っていた。その横に、マゼラウスも立つ。
「どうしたんですか……?」
「君は、本当に素晴らしい。奇跡を起こしたじゃないか!」
ガルディエールは、今朝刷られたばかりの新聞の社会面をバッと広げ、小さくまとめられた記事を指差した。
――リバーフロー集落長、一人のアスリートの選手生命を救う!グランフィールド選手復帰へ!
「……うそ!」
トラックを力強く叩き続けた足は、一瞬だけガクガクと震えた。その新聞記事を間近で見て、ヴァージンは思わず涙を浮かべた。
「集落全体に夢や希望を与えた君が、アメジスタの危機でレースができないと知って、君が走る前には基金を募らせたらしい。レースの後、あの集落の大地主を含め、集落のほぼ全員が君の未来を買ったようだね」
「アメジスタの債務は、ひとまず全部片付いたようだ。じきに、預金凍結も解除されるだろう」
「そ……、そんな……!レースができるんですか!」
「そういうことだ。夢を諦めなかった君の走りが、君自身を救ったんだ」
ガルディエールの言葉に、ヴァージンはただ泣くしかなかった。着替えたばかりのトレーニングウェアが、涙に滲む。
「世界競技会のエントリーは締め切っているけど、今年終盤のレースには戻れるかも知れない。その時までに、ワールドレコードの名に恥じない走りに戻さないとな」
「はい!」
ヴァージンは、涙を含ませながらも力強くそう言った。