第24話 ヴァージンのようになりたい!(4)
ヴァージンは、廊下側の壁に貼ってある世界地図の前に立つ。児童の視線が、世界地図に向く。
「私は生まれたのは、ここオメガ国から遠く離れた、小さく描かれた国、アメジスタというところです。この国は、オメガ国よりずっと貧しくて、私の家にもそんなにお金はありませんでした。生活するのも、やっとでした。そんな私が、もしみんなくらいの歳で、学校で走るのが速いから世界中のライバルと一緒に走りたい、と言ったら、みんなどう思いますか」
少し難しい質問をしてしまったように、ヴァージンには思えた。だが、児童たちはその質問にも勢いよく手を挙げる。答えたのは、先程からサッカーが好きと答えていた、周囲より背の高い、茶髪の少年だった。
「親が許してくれないと思いまーす!」
「どうして、そう思いましたか?」
「だって、世界中を旅するだけでもお金がかかるから、お小遣いくれないと思います」
その児童は、最初からヴァージンの意図した通りの答えを返した。ヴァージンは他の児童にも聞いたが、経済的な理由で許してくれないという答えが大半だった。
「みんなの言っていることは、ほとんど正解です。アメジスタには、お金がなくて陸上競技場がありません。だから、世界を相手に戦う場所は、例えばオメガ国だったりしますが、飛行機に乗るのもお金がかかります。陸上選手は、サッカー選手やバスケットの選手みたくボールは必要ありませんが、それでもウェアとか靴は、お金を出して買わなければいけません。アメジスタで生まれた私には、あまりにも高い買い物でした」
ヴァージンの脳裏に、「夢語りの広場」で自らの夢を叫んだときの思い出が蘇る。打ち砕かれそうになった夢に、手を差し伸べてくれた人々の姿。児童の前で話す、ほんのわずかな時間でも一通り辿ることができた。
「それだけではありません。アメジスタは、スポーツをやる人が本当に少なくて、サッカーをやってもバスケットをやっても、それに陸上をやっても、他の国と戦ったら力の差がありすぎて、全く勝負になりません。だから、私の父親も、街で私の夢を聞いた人も、こう言いました。アメジスタ人が世界で活躍できるわけがない、と」
そこまで言うと、ヴァージンは教壇に戻って、一度児童たちの目を見て、こう尋ねた。
「でも私は、こんなことを言われても、今こうして一人の陸上選手として、世界じゅうのライバルを相手に、トラックの上で戦っています。そこで、皆さんにもう一つ聞きます。アメジスタ人が活躍できない、と言われたとき、私はどうしたと思いますか?」
ヴァージンがそう言った瞬間、多くの児童が次々と手を挙げた。そして、みな口々にこう答えた。
「泳いで海を渡った」
「世界で活躍できないと言った人と絶交した」
「実際に5000mを走って、速いということをみんなに分からせた」
ヴァージンは、次々と飛び出る小学生らしい答えに、一回一回首を縦に振った。そして、答えが出なくなったとき、ヴァージンの目に、教卓のすぐ前で小さく手を挙がっているのが飛び込んだ。
(イリス……。なんと答えるんだろう……)
ヴァージンは、イリスの目を1秒だけ見つめる。すると、イリスはやや小さい声で言った。
「そんなことを言われたら、僕だったら陸上選手になる夢を諦めると思います」
ヴァージンは、イリスにその音が聞こえないように息を飲み込んだ。その瞬間、ヴァージンの耳には、数人の児童がイリスに向けてクスクスと笑い出す声が響いた。イリスの勇気ある行動を、あざ笑う声だった。
(一番この話を伝えたいはずのイリスに……、重い話をしてしまった……)
ヴァージンは、反射的に首を横に振った。教室の本当の雰囲気を、振り切るかのように。
「そこで笑うなんて、私はおかしいと思うんです。夢を持っているからこそ、諦めるという言葉が出るのです」
そう言って、ヴァージンは再び全員の目を見つめた。イリスをあざ笑う児童も、すぐにそのしぐさをやめる。そして、教室に数秒の静寂を落ち着かせ、ヴァージンは再び言った。
「あの時、私も諦めてしまおうかと思いました。でも、心の片隅に、諦めたくない自分がいました。世界のライバルと勝負することなく、陸上選手になる夢を消したくありませんでした。スタートラインに立って、どんどん離されて勝負にならなくて、それで陸上選手になることを諦めるよりも、ずっとずっと辛いことなのです」
ヴァージンは、もう一度心の中に、「夢語りの広場」を思い浮かべ、目の前にいるイリスに重ねた。
「だから私は、こう言いました。アメジスタ人は世界で活躍できないっていう現実を跳ね返せるかも知れない。そして、勝負しないまま夢を諦めたくない」
イリスの目が潤んでいるのを、ヴァージンの目にはっきりと見えた。
「ほんのわずかな可能性を信じてくれたからこそ、アメジスタの人々は、私を世界ジュニア選手権に参加することを許してくれました。そして、私もその小さすぎる可能性に賭けて、世界を相手に戦い、夢を現実にしました」
ヴァージンは、先程黒板に書いた「夢を実現すること」という言葉の横に、赤のチョークでこう書いた。
――自分の夢を、絶対に諦めないこと。
「いま私が話した、夢を諦めないこと。これはとても大事なことなのです。一人一人が、大人になったらこうなりたい、という夢や希望を持っていると思いますが、その夢や希望は、大事にして欲しいのです」
ヴァージンは、両手を教壇の上につけて、やや前のめりになってこう続けた。
「いま私が話をしたように、夢を現実にするのは、思っている以上に大変です。夢を実現したくても、体がついていかないとか、お金が足りないとか、人から無理だと言われるとか……、いくつもの壁があります。けれど、そこで諦めたら、夢は夢のままで終わってしまいます。みんなの思っている夢は、そこで終わっていいような、小さな夢じゃないと、私は信じています」
ヴァージンは、声が徐々に大きくなっていくのを感じた。けれど、夢のある子供たち一人一人に、絶対言い聞かせたいとヴァージン自身が決めた言葉でもあった。
「夢を実現するために、無駄なことなんて一つもありません。意味がないとか、無理だとか言われたって、時にはそれを跳ね返すことが大事なのです。そして、夢や希望を最後まで捨てなければ、夢は絶対叶います」
ヴァージンは、最後は語りかけるように言った。その時だった。
「うっ……、うっ……」
教室いっぱいに聞こえるような泣き声が湧き上がるのが、ヴァージンの目にはっきりと見えた。列の後ろに座りスポーツをしているとは言わなかった少年、中程に座りバスケットをしていると答えた少女をはじめ、何人もの児童がヴァージンの言葉に涙を浮かべていた。
それでも、いちばん涙を流していたのは、あの手紙を書いたイリスだった。そのイリスの涙を見るヴァージンの目も、少しだけ潤んでいた。
(言いたいことは言い切った。それなのに……)
ヴァージンは、自分で黒板に書いた言葉を、少しだけ見た。それは、世界のライバルと一緒に走るという一つの夢を叶えてからもなお、ヴァージンの心に響き続けている言葉に他ならなかった。
ライバルよりも前に出ることだったり、自らの世界記録を更新することだったりと、様々な希望を抱くヴァージンですら、その前にいくつもの壁が立ちはだかってきた。そして、アメジスタ国内の問題は、今もなおヴァージンにとって高いハードルになってその邪魔をする。
諦めてはいけないのは、ヴァージンもまた同じはずだった。
「今日は、私の話を聞いてくれて、本当にありがとうございます。みんなの可能性を、私は信じてます」
ヴァージンは、そこで深く礼をした。スタジアムではまず見せることのない角度の一礼だった。
その後の質問タイムでは、夢や希望についての話はほとんど出てこず、アスリートとしての生活や普段の練習のことについての質問をヴァージンは多く受けた。それでも、リバーフロー小学校61人の児童たち一人一人の表情は、教室に入ってきたとき以上に夢や希望に溢れているように見えた。
だが、その間もイリスは一人、ヴァージンを見つめながら涙を浮かべていた。そこで、ヴァージンは、最後にイリスにこう尋ねた。
「今日、私の話を聞いて、どこが一番感動しましたか?」
すると、イリスはすぐに涙を右手で拭き、ヴァージンに一度うなずきながら、小さく答えた。
「自分の思っている夢が……、間違っていないと教えてくれたことです……」
そして、イリスは突然立ち上がって、ヴァージンに力強く言った。
「僕は、陸上クラブに入っています。でも、今までそれを見せる場所もなかったんです。一度でいいから、僕の走りをグランフィールド選手に見て欲しいんです!」
(本当は、勇気ある少年なのかもしれない……)
ヴァージンは、イリスの目を見つめた。茶色いショートヘアが、今まさに勝負に挑もうと言わんばかりに、軽く揺れる。それは、少年イリスが、これまで言われ続けたことを全て跳ね返そうとする勇気に他ならなかった。
「それは……」
この申し出に、複数の教諭が戸惑いの声を見せた。ヴァージン自身も本業がオプションと言われていただけに、気持ちが交錯しかけていた。だが、その重い空気は、一瞬で吹き飛んだ。
「俺も、グランフィールド選手と一緒に走りたい!」
「世界一速い5000mの選手の走りを、間近で見たい!」
俺も、私も、と児童たちが堰を切ったように言い出した。これまで走って競う機会が一切なかったことで、好奇心が一気に突き動かされたのだった。
それを見て、教頭と思われる男性が、児童に「しーっ」と合図を出し、そして言った。
「私たちリバーフロー小学校は、ヴァージン・グランフィールド先生と、本当に素晴らしい出会いをしました。近いうちに、今度はこの小学校に走りに来てください。そして、小学校からリバーフロー集落まで、子供たち、そして私たちと5000m競走をしましょう!」
「本当ですか……!ありがとうございます!」
教室じゅうの歓声の中で、ヴァージンは軽く涙を拭った。そして、近いうちに行われるはずの勝負に向け、ライバルとなる一人一人の表情をもう一度眺めた。