第24話 ヴァージンのようになりたい!(3)
「本日は応接室が控室になります。校舎が手狭で、応接室しか空いているところがありませんもので……」
ヴァージンは、学校職員に連れられるように応接室へと向かう。その間にも、ヴァージンは校庭の土を踏んだ感触を調べたり、校庭にあるサッカーゴールなどを見たりした。ヴァージンが見た限り、校庭に球技のゴールが設置されたのは最近のようだが、その全ての足が地中に埋められていて、簡単に取り外しができないようだ。おそらく、児童の大多数がサッカーやバスケットボールなどに興味を持っていることで、狭い校庭に球技のゴールが設置され、校庭で真っ直ぐ走るスペースが失われてしまったのだろう。
(校庭にスペースがないから、みんなを陸上から遠ざけている。そして、みんな陸上をやらないから、校庭がいつまで経っても変わらない……。イリスの言ってることも、よく分かる……)
そう思ったと同時に、ヴァージンは応接室のソファにスポーツバッグをボスンと置いた。そして、窓から校庭を見つめ、唇をギュッとかみしめた。そして、すぐにスポーツバッグから授業で使うメモを取り出し、たった1行だけ、応接室にあったボールペンで殴り書きした。
やがて、ヴァージンが子供たちに向けて授業をする時間が近づいてきた。レースとは違う緊張感を、ヴァージンは首を横に振ることで和らげ、61人の児童たちが待つ教室の中のドアをゆっくりと開いた。
「こんにちは!」
ヴァージンが普段以上に表情を緩めながらそう言うと、教室は児童たちの割れんばかりの声に包まれ、そしてヴァージンが教壇の横に立つと静寂に包まれた。みな、物珍しそうな目でヴァージンを見つめていた。
その沈黙を破るかのように、教頭と思われる男性が教壇に上がり、一度うなずいて児童たちに告げた。
「みんなも先生から聞いている通り、今日は陸上選手のヴァージン・グランフィールド先生が特別に授業をしてくれます。みんなが大人になって何になりたいか、そしてその夢を実現するにはどうすればいいか、先生が話してくれます。みんな、静かに聞きましょう!」
(先生なんて初めて呼ばれる……。やっぱり少しは緊張してくる)
ヴァージンは、教壇に目をやった。そこが、これから数十分間話をするスタートラインであり、子供たちの夢や希望のスタートラインであった。そして、そこから教室全体に目をやろうとすると、ヴァージンは教壇のすぐ目の前に、細い目で静かにヴァージンを見つめている男子が一人座っていることに気が付いた。
(もしかして……、あれがイリス……。足の筋肉の付き方が他の子とどこか違ってる……)
茶色いショートヘアを、教室を通り抜ける軽やかな風になびかせ、その男子はヴァージンを見つめていた。流れ続ける、わずか数秒の時間。だが、目と目が合ったとき、教壇から始まりの時が告げられた。
「では、先生。よろしくお願いします」
「皆さん、初めまして。私は、ヴァージン・グランフィールドと言います。歳はみんなより一回り大きい21歳で、今はトラックの上を走る陸上の選手をやっています」
拍手の中、ヴァージンはゆっくりと話す。イリスと思われる少年ばかりに集中していたヴァージンは、目線をやや上に上げて、集まった児童一人一人の表情を目に焼き付ける。そして、児童たちにこう尋ねた。
「まず、みんなに聞こうと思います。私の名前を知ってたっていう人、どれだけいますか?」
ヴァージンは、教壇の上で軽く手を挙げた。ちらほらと手が上がるが、多くの児童が隣に座る児童の様子を伺っているようで、ヴァージンが思うほど手を挙げない様子だ。
「じゃあ、もう一つ聞いてみましょう。オリンピックとかで、陸上選手の姿をテレビとかで見た人いますか?」
これには、多くの児童が手を挙げた。その中でも、イリスと思われる少年は真っ先に手を天井に伸ばし、すぐに後ろを振り返ってほっとしている様子だった。
「多くの人が、陸上をテレビでやっているのを見たことがあると答えてくれました。でも、私の名前を知ってるという人はそんないませんでした。私は、オリンピックで走ったことはありませんが、大きな大会ではテレビで紹介されるくらいの選手なのに、聞いたことがあるって答えた人が少ないの、少し意外だなと思うんです」
その時、イリスと思われる少年は首を左右に振った。それを左右に座る同じ学年のような体格の児童が、薄笑いを浮かべながら見つめる。ついにヴァージンは、その少年の目を1秒だけ見つめ、それからメモを見た。
「私が主に走っているのは、女子5000mというレースです。100mとか200mとか、短い距離の方がニュースになりやすいけど、競走にはいろんな長さがあります。で、私がいつも走っている5000mというのは、あの森の向こうにあるちょっと大きい集落までの距離とほぼ同じです。きっとそこから歩いて通っている人もいるんじゃないかと思いますが、その距離を、世界中のライバルが集まっている中で走るのです」
ヴァージンの脳裏に、集落から一本道で伸びていく、森の中を駆け抜ける道が浮かんできた。果てしなく続くようで、学校というゴールが見えてくるその道をイメージしながら、ヴァージンはさらに話を続ける。
「100mと5000mをテレビで見ると、もしかしたらこう思う人もいるでしょう。100mは一瞬で勝負がつくから面白くて、5000mは一瞬で勝負がつかないからつまんない。あとは、100mはすぐにゴールが見えてくるのに、5000mはトラックをぐるぐる回っているだけ」
これには、多くの児童が首を縦に振った。しかし、イリスと思われる少年は、それでもうなずかなかった。
「たしかに、100mよりは距離が長いので、勝負がつくまでの時間も100mよりずっとかかります。でも、5000mを走り終えたとき、先頭にいたら勝つというのは、100mと同じなのです。私は、100mよりも5000mのほうが向いている、と思って、5000mで勝負をしています」
ヴァージンは、次の話に行こうとしてメモを一目見ようとしたが、すぐに視線を元に戻した。
「じゃあ、次の質問にいきます。みんな、休み時間にどのようにして過ごしていますか?手を挙げて、私に教えて下さい」
これには、多くの児童が元気よく手を挙げた。逆に、手を挙げなかったのはイリスをはじめとした少数の児童だけだった。
「僕、全部の休み時間でサッカーやってまーす!」
「私、バスケです!」
ヴァージンは、児童の表情を見て、小学校に入ったときの第一印象が間違いではなかったことを確信した。外で体を動かすのが、ほとんどこの二つに集約されていたからだ。
ヴァージンは、児童が10人ほど答えたところで一度うなずき、口を開いた。
「聞いていると、サッカーとかバスケが多かったみたいです。じゃあ、もう一つ質問をするので、手を挙げて下さい。サッカーやバスケとかやって、友達に負けたくないと思ったことのある子は、どれくらいいますか?」
ヴァージンは、児童の顔を見つめながらそう言った。その瞬間、数人を除いて、全員の手が上がった。陸上競技をテレビで見たことのある児童の数よりも多かった。ところどころから、バスケなら負けない、という声が上がってきて、それが少しずつ引いてきたとき、ヴァージンは再び話し始めた。
「私が5000mを走るときも、そういう負けたくないって気持ちで走っています。自分より前を走っているライバルを追い抜きたいとか、それに陸上はタイムも分かりますから、昔の自分だって超えてみたいと思うのです。それを常に意識したから、私は……知ってる人は知ってるかも知れませんが、女子5000mを世界一速く走れるようになったんです」
イリスと思われる少年の細い目が徐々に輝きに満ちてくるのを、その時ヴァージンは感じた。今回の授業が実現するきっかけを作った手紙を出したことに対して、恥ずかしさを隠せなかった目が、徐々に陸上選手として勝負するような目に変わっていくように見えた。そこでヴァージンは、ようやくメモを見て、この授業で話したいことをようやく確認した。
(夢、そして希望を与えるには……)
ヴァージンは、ここで大きく息を吸い込んだ。そして、黒板に大きく「夢を実現すること」と書いた。
「でも、どうして私がこんなに頑張ることができるのか、きっとみんなの中には不思議に思っている人もいるかも知れません。女子だから、花屋さんとかパティシエとかを夢見ている人もいると思います。でも、私はパティシエとかやらずにスポーツの世界に飛び出し、サッカーやバスケでもなく陸上の世界に入り、100mとか200mとかみんなから注目される競技じゃなくて、5000mで走りたいって思ったんです。5000mで世界のライバルに勝ちたいって夢があったんです。そんな、夢を見ること、夢を叶えることについて、今日は話したいと思います」
(なんだろう。この感触は……)
ヴァージンの話は、自らの生い立ちに移る。その時ヴァージンは、児童一人一人の表情を見つめているうちに、これまでサッカーやバスケットボールなどの球技に興味を持ってきたであろう多くの児童が、イリスと思われる少年のように真剣な表情で見つめ返しているかのように見えた。それは決して、小学生の笑顔が広がっているわけではなく、かと言って堅苦しい表情でもない。まるで、ヴァージンが辿ってきた足跡を、必死で追いかけてくる子供のような目だった。
ヴァージンは、再び大きく息を吸い込んで言った。
「夢を実現する、といま黒板に書きました。でも、それはそんな簡単なことではありません。私は生まれた場所が、夢をそんな簡単には実現させてくれなかったのです……」




