第24話 ヴァージンのようになりたい!(2)
ガルディエールからリバーフロー小学校の話があってから数日が経った。ヴァージンはこの日もセントリック・アカデミーでトレーニングに勤しんでいた。相変わらず次のレースの日取りは決まらず、けれど債務問題が解決し、再び本気で走る機会が近いことだけはほぼ間違いない、そんな複雑な状況の中、ヴァージンはトレーニングをしていた。
5000mのタイムトライアルを終え、芝生に倒れ込むヴァージンに、マゼラウスが近づいてくる。
「あの問題が起きる前のお前を超えるのは、なかなか難しいようだな……」
「はい……」
ヴァージンの足は、タイムトライアルを終えてもまだまだ力を入れられそうな感じだった。マゼラウスからストップウォッチを見せられ、ややうつむき加減になる彼女は、それをはっきりと感じずにはいられなかった。
「15分06秒27。あのチャリティーレースが今年の山だった、ということだけは絶対にやめて欲しい。だから、私はお前が本当の実力を取り戻すまで、本気のお前をサポートする」
「ありがとうございます……。なんか、今日もコーチに助けられた感じです」
「なんてことない。レースのない状態で、今のお前を救えるのは日々のトレーニングだけだからな」
そう言いながら、マゼラウスはほんの少しだけ笑ってみせた。その時、アカデミーの事務職員が一人、ヴァージンとマゼラウスのもとに駆けてくるのが分かった。
「マゼラウスさん、いまヴァージンさんに話しかけても大丈夫ですか?」
「私はいいが……。どういった用件だ?」
「ヴァージンさんの学校訪問の話です。すぐにお話は終わりますので」
「分かった」
マゼラウスがそう言うと、事務職員がヴァージンに向きを変える。
「先程、フェアラン・スポーツエージェントから電話がありまして、ヴァージンさんのリバーフロー小学校訪問の日が、再来週の火曜日ということに決まりました」
「再来週の火曜日ですか……。あと10日ぐらいですね……。分かりました」
幸いにして、火曜日は大学での講義がなく、一日かけてリバーフロー小学校に向かうことができる。その前にガルディエールと会って、学校訪問の詳細を聞いたり、ヴァージンが白紙の上に書き連ねた話をしたりしなければならないが、それはガルディエールから追ってメールか電話で話が入るだろう。
「あと、リバーフロー小学校からの要望があって、ぜひヴァージンさんの走りを見たいということです」
「本当ですか……!」
(次のレースが……、決まった!)
ヴァージンは、事務職員どころかマゼラウスにもはっきりも見えるように体に力を入れた。そこに、マゼラウスの視線がヴァージンに向けられる。
「これで、ヴァージンの次のゴールが決まったな。そこをピークに持っていこう」
「はい、分かりました!」
アカデミーのトラックに吹き抜ける風に、ヴァージンの力強い返事がこだました。
数日後、ヴァージンはガルディエールからのメールの通り、大学が終わってからフェアラン・スポーツエージェントへと向かった。先日ガルディエールと話したときと同じ応接室に通されると、そこには先日ヴァージンが読んだイリスからの手紙が広げられていた。
「あれから、君はリバーフロー小学校のこと、そして彼のことをどう思ったのかな?」
ガルディエールは、椅子に座るなりじっとヴァージンを見つめ、静かに言った。
「はい。時間が経つにつれて、イリスのことがかわいそうに思えてきます。そして、ちょうど何のレースにも出られない今の自分に重なってきて……、心を重ねられる存在だと思うのです」
「なるほど……。やっぱり、君もイリスを助けたいと思い続けているのだな」
「勿論です。手紙を最初に見たときから、気持ちは全く変わりません」
ヴァージンは、ガルディエールに一度うなずいた。ガルディエールの瞳が徐々に大きくなるのが分かった。
「そこで、君にはリバーフロー小学校で、今の気持ちを語ってきて欲しいんだ。それで、イリスをはじめとした、夢を信じることができない子どもたちに、夢を教えて欲しいんだ。これからスケジュールを見せるが……」
「分かりました。あの……、ガルディエールさん、ちょっといいですか?」
ヴァージンは、イリスからの手紙にかすかにかかるように右手を動かし、ガルディエールに聞き返す。
「どうしたんだい?」
「あの……、訪問先の小学校から、私の走りを見たいという要望があったと聞いたのですが……、今回は授業がメインになるわけですね」
「そうだ。あくまでも、今度の火曜日の訪問は走るのはオプションだ。ただ、一つだけ確かなことがある」
そう言うと、ガルディエールは鞄に入っているスケジュールのようなものが書かれた紙に手を伸ばして、ゆっくりと机にそれを置く。ヴァージンは、その中で真っ先に飛び込んできた文字を声に出さずに読んだ。
(子どもたちを走る気にさせる。ヴァージンと走りたいという気持ちにさせる……)
ヴァージンは、たった一行の文章を何度も追いかけた。そこにガルディエールがゆっくりと声を掛ける。
「子どもたちの気持ちを、動かす。そうすれば、君にとって次のレースができるチャンスができるだろう」
「はい」
「君が、これまで走ることに懸けてきた想いを、優しい表現で伝えることができれば、リバーフロー小学校のみんなが運動会を必要だと思い、それを教えてくれた君と一緒に走りたいと思うだろう」
その時、応接室に飛び込む夕方の光が、ほんの少しだけ明るくなったようにヴァージンには思えた。
そして、リバーフロー小学校に訪問する日を迎えた。前日のうちにスポーツバッグにシューズやトレーニングウェアを入れたが、あくまでヴァージンはフォーマルな衣装でワンルームマンションを出た。小学校の地図とガルディエールから渡されたスケジュール、そして夢を書き連ねた一枚の白紙を、ヴァージンはスーツのポケットにそっとしのばせた。
(今日という一日が、子どもたちにとっても私にとっても、素晴らしい一日になりますように……)
ビッグタイトルのかかるレースの当日のように、ヴァージンは自分の中に言葉を言い聞かせた。
「ヴァージン・グランフィールドさん。本日は、ようこそリバーフローにお越し頂きました」
オメガ国内であるにもかかわらず、飛行機を使ってサウスティア空港まで行き、そこから小学校が手配した車で2時間かかった。ワンルームマンションを朝出たにもかかわらず、到着した頃には昼過ぎになっていた。車の中で、これも小学校が手配した弁当を食べる。レースの時以上の待遇に、ヴァージンは驚きを隠せなかった。
「もうすぐ小学校に着きます。本当に小さい小学校なので、遠くからではそれと分からないのが本校です」
「たしかにおっしゃる通り……、森しか見えないですね。相当の山奥に学校があるのですね」
「そう、そういうことです。はい、ここが学校です」
車が止まった。太い二本の木の間に、石畳の道が出来上がっていて、50mほど先に小さな建物が見えている。
(本当に……、小さい小学校……。むしろ61人も児童がいることのほうが奇跡に近い……)
たしかに、森の手前には小さな集落が広がっていたが、そこからも5kmほど離れているように思えた。大半の児童は、ヴァージンが普段トレーニングで走る距離と同じくらいの距離を登下校で通らなければならないようだ。
しかし、ヴァージンは石畳の道の先に見えた光景に目を疑った。小さい校庭は見えるが、そこにトラックはなかったのだ。あるのは、サッカーゴールとバスケットゴールだけで、それ以外には鉄棒などの遊具がある程度だった。児童の数を考えればこれでのびのびと体を動かせるかもしれないが、ヴァージンは思わず首を横に振った。
(小さすぎて、走れるようなスペースがない……)
ちょっとまっすぐ走っただけで、何かしらのゴールに当たってしまう。ゴールをよけようとすると、くねくねと走らなければならず、これまでトラックを何万周もしてきたヴァージンでさえ走りづらいコースになる。
「さぁ、子どもたちがお待ちしています」
ヴァージンがじっと校庭を眺めていると、空港から一緒に来た学校職員がそっと言った。
「あっ……!」
ヴァージンが校門をくぐり抜けると、正面に見える教室からたくさんの子どもたちが顔を覗かせた。数からして、全ての学年の子どもたちがそこにいるのだろう。そして、瞬く間に教室から横断幕を持った児童が溢れだしてきた。横断幕には、ヴァージンにもはっきり見える文字でこう書いてあった。
――ヴァージン・グランフィールドさん!ようこそ、リバーフロー小学校へ!
「お出迎えありがとう!」
ヴァージンは、大きく手を振って子どもたちの声に応えた。そして、ゆっくりと教室へと近づいていった。