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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アスリートになるためのスタートライン
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第3話 たった一度きりの世界への挑戦(4)

 それから、シェターラの教えてくれたトレーニングルームで、何度練習したか分からない。ヴァージンは、毎日のようにランニングマシンを操っていた。走り出すとすぐに適当なスピードまで上げていき、自分が物足りないと思ったらスピードをさらに上げていく。目の前や横にライバルがいなくても、ランニングマシンのパネルに手を触れる時の彼女の表情は真剣そのものだった。

 アメジスタの中等学校で走っていたグラウンドの土とは全く違う感触に、違和感を覚えていた足の裏も、次第に新しい感触に慣れていった。そして何より、最初にシェターラの目の前で見せた爆発的なスピードで走っても、以前のように足を踏み外すことが減ってきた。

 みるみる高まる力。それは、世界に初めて挑むヴァージンにとって追い風になっていった。


 そして、ついにジュニア大会、女子5000mの予選の日がやってきた。

「よしっ!」

 ヴァージンは、アメジスタから持ってきたカバンの一番下まで手を伸ばし、柔らかい感触のウェアをゆっくりと取り出す。そして、ウェアをゆっくりと広げてみせた。

(アメジスタの……国旗……)

 赤とダークブルー、そしてその真ん中に金色のラインの入ったウェアは、アメジスタの国旗を知る者であれば誰もがそうと分かる色合いだった。これまで着ていた白一色のトレーニングとは全く違う強さが、ヴァージンの身を包み込もうとしていた。

(私は、みんなの期待を背負っている……)

 ゆっくりと袖を通してみると、これまで着ていたウェアとは桁違いに薄く、全くウェアを着ていないかのように体が軽くなっていることに気が付いた。ところどころ小さな穴が開いており、そこからホテルの空調がスーッと肌を揺らしている。衣服の素材については全く無知のヴァージンも、少なくともこのウェアで熱くなった体を冷やしてくれることは分かった。

(動いてないと……寒い)

 国旗を彩ったウェアに続き、黒のショートパンツを着ると、ヴァージンは防寒用に持ってきたはずのねずみ色のジャケットを身に纏い、シェターラなど大会出場者たちが待つ、リングフォレストへの送迎バスに乗り込んだ。


 シェターラはおろか、ヴァージンがまだその名を知らない強者たちも、このバスの中だけは一言もしゃべるような気配がない。

(イメージトレーニングでも……してるのかな?)

 安易にそう察したヴァージンは、ゆっくりと目をつぶる。このバスの中で軽く目を合わせたアスリートが、自分と同じスタートラインに立ち、いち早く前に出ようとしている。号砲が鳴って、横一列に並んだ足が一斉に先頭に立とうと大きな一歩を踏み出す。

 勿論、その中でヴァージンは誰よりも大きな一歩を踏み出し、前に出る。そして、そのまま誰も追いつけないほどのスピードで5000mという距離を走り抜けていく。

 そう考えるうちに、ヴァージンは右手の拳をギュッと強く握りしめ、全身に力を集めていた。


 ヴァージンの鼓動は、スタジアムに着く前には高ぶっていた。

 今日行われる予選には、大差で勝てる。そう思っていた。



 やがてバスは、リングフォレストの競技場に滑り込んだ。ヴァージンは真っ先にバスを降り、出場者受付まで小走りに進んだ。受付を済ませ、ロッカールームでねずみ色のジャケットと貴重品を投げるようにしまい、受付でもらった「GRANFIELD」と書かれたゼッケンを両肩に通した。とにかく、勝負の場所に一番に出たくて仕方がなかった。

(……っ!)

 だが、フィールドへと続く階段を二段飛ばしで駆け上がったヴァージンは、フィールドにその身を繰り出した途端、最初の一歩で思わず立ち止まってしまった。

(トラックが青い……。なんかゴムみたいな土……)

 会場の熱気が激しかったり、本格的なフィールドであったりすることもさることながら、ヴァージンは自らが勝負するトラックそのものが不思議でならなかった。以前、アルデモードに連れられて訪れた、グリンシュタインの競技場の跡地でも、この色のトラックは見なかった。そこを含め、ヴァージンの感覚では、一周400mのトラックは全て走る場所が茶色に塗り分けられており、青々とした芝生でその中が彩られている……はずだった。

 勿論、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で大会のリポートが紹介されるとき、そのトラックが薄い青をしていることも頭の片隅にはあったものの、この目で初めて見る実戦用のトラックに、ヴァージンは思わず目をつぶった。

(この青いトラックで、みんなベストタイムを出しに来ている……。私も……それに負けちゃいけない)

 ヴァージンは、軽く首を横に振って、同じ青い色をしたレーンの上に一歩を踏み出した。目の前にある勝負の場所は、まだ他の競技が行われているようで、それまでの間はこの狭い空間で最終調整をしなければならない。それでも、ヴァージンにとっては、初めて踏みしめる青いフィールドであることに変わらなかった。

(よし……!)

 ヴァージンは、その上で数回ジャンプし、膝を前後に伸ばしたまま体を左右にひねり、最後に肩を回す。それは彼女が陸上部で何度も行ってきた準備運動であり、この日のヴァージンも無意識のうちにそれをやっていた。

 一通りそれが終わると、ヴァージンはスタジアムの時計を軽く見た。まだスタートまで10分はあった。もう一度準備運動をやろうと思ったその時、ヴァージンの目に、自分よりもはるかに運動量のある準備運動を行っているシェターラの姿が留まった。シェターラは、黒い長髪が揺れる中年の男性に見つめられながら、ヴァージンよりもはるかに体を動かしていた。

「シェ……」

 ヴァージンは、思わず声を掛けようとしたが、明らかにコーチと思える人物がいる前でそれはできなかった。シェターラも、ヴァージンの気配に気付いてはいるが、その顔を見ようとせず、眉間にしわを寄せて勝負の時を待っていた。


「それでは、女子5000m第1グループに出場する選手は、こちらにお集まりください」

 大国オメガをはじめ、世界の各国から集ったアスリートたちを、事務員がゼッケンの番号で手招きする。ある者はコーチに背中を押されるように、またある者は事務員に肩を叩かれるように次々と集合場所に向かった。そして、受付で第1グループと言われた……ような気がする……ヴァージンもゆっくりと集合場所に向かう。

 第1グループで走る16人全員の番号と名前が一致すると、白線の引かれたスタートラインにまとめて誘導される。


 いよいよ、戦いの場所となるレーンをその足で跨いだ。

 その時もまだ、ヴァージンの気持ちは高ぶっていた。


「On Your Marks……」

 部活動と全く変わらない、スタンディングスタートで始まる勝負のとき。違うのは、トラックの色とヴァージンの周りにいる人だけで、走る距離は全く変わらない。軽く息を飲み込み、号砲を待つ。

(私は……!)

 耳を軽く叩くような号砲がスタジアムに響き渡り、世界中のライバル15人の足が一斉に前へ突き進んだ。ほぼ同時に、ヴァージンの足も前に出る。しかし、彼女の目に映ったのは、普段のペースでスタートダッシュをする選手が何人もいる、初めての光景だった。

(普段なら、このスピードで私は先頭に立っているはず)

 何より、これまでと周りの加速が違う。ヴァージンは一気に先頭に出ようとするが、ヴァージンのすぐ外やすぐ目の前に全く同じスピードで走る選手がいて、なかなか前に出るタイミングを掴みづらい。気が付くと、ヴァージンの足は先頭集団の5人と全く同じスピードに収まっていた。

(こんなはずじゃないのに……)

 何かがおかしい、とヴァージンは物足りなさを感じていた。早く走りたい、という高ぶった気持ちに隠されてこれまで感じてこなかった緊張が、ここで一気に爆発しているかのようだった。

(前に……出なきゃ、このスピードに縛られてしまう!これじゃ、自分の走りができない)

 ほぼ同じスローペースで走り続けて5周、ついにヴァージンは首を横に振り、目の前で走るライバルの真横に躍り出た。そして、その表情を軽く見ながら、ヴァージンは一気にスパートをかけようとした。この1週間、トレーニングルームで実践しているかのように……。


(足が……前に……出ない……)


 一瞬、ヴァージンの目の前が真っ暗になった。スローペースに落ち着いた自分の足は、今更そのスピードで走ることをためらってしまっていた。

 普段と違う展開を見るのが、あまりにも怖かった。集団の前に出ようとするとヴァージンの足は竦み、体を前に出せなくなった彼女の目には、追いつきかけたライバルの背中が再びはっきりと見え始めていた。

(……こんなの、私のレースじゃない!)


 その後、ヴァージンはほとんど加速することなく、5000m走りきってしまった。

 予選の結果は4位。最後の2周で抜かれてしまった選手を彼女は懸命に追いかけたが、最後に5位から4位に這い上がるのがせいぜいだった。タイムも16分08秒と、彼女にとってはかなり遅いほうに甘んじてしまった。

 世界に羽ばたきかけたアメジスタの少女の見た景色は、普段と全く違うものだった。


(このままで……ここを去りたくない。今度は、ちゃんと走りたい……。自分の走りがしたい……!)

 ヴァージンは、一目散にロッカールームへ向かい、部屋に一つだけある椅子に座り、首をガックリと垂れた。何もできなかったヴァージン・グランフィールドというアスリートを、もはや信じたくなかった。

(悔しい……)

 シェターラやバルーナらが出場する他の2グループで、もし16分08秒より速いタイムが16人出揃ってしまえば、ヴァージンの挑戦は、そこで終わってしまう。

 所詮それが、自分のレベルだった。

「嫌だ……!こんなんじゃ嫌だ!」


 絶望と、自分への不信。

 それだけの時間が、ヴァージンを包み込んだ。

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