第23話 ゼロからのスタート(6)
日も暮れかけた空に、一筋だけ光るオレンジ色の光がヴァージンの行く道を照らす。その先には、サンザス区民競技場が見える。緑色のフェンスで囲まれ、観客席もほぼグラウンドレベルにしかない、小さな競技場。ヴァージンは、これまで何度も大会を経験してきたが、これほどまで小さい競技場での大会は経験したことはおろか、聞いたことすらなかった。だがこの日は、そこがヴァージンにとっての晴れ舞台となる。
(ここが、メドゥさんやライバルたちに、再び会える場所……。再び競いあえる場所)
ヴァージンのために、急遽夜の時間帯を貸し切っての開催のため、テレビ局のカメラもなければ、大がかりな広告もなかった。観客の姿もちらほらと見えるほどだった。さらに、公認レースではないため、ここで出した記録は公には認められない。普段と二重にも三重にも違うレース。しかし、そこにこれまで競い合ってきたライバルたちが集うことだけは、変わりがなかった。
わずか10日間しかないトレーニング期間。そこで十分実力を取り戻したとは到底思えないヴァージンだったが、急いで中に入る。受付も机一つの簡易的な物。既に見慣れたライバルは何人か会場に入っている様子だ。その中を、ヴァージンは普段通りロッカーへと向かう。そして、ロッカーへ足を踏み入れた瞬間、目の前に数人の見慣れたライバルの姿が飛び込んできた。
「グランフィールド、久しぶりね」
「メリアムさん!こちらこそ、久しぶりです……」
紫色の髪をなびかせながら、ソニア・メリアムがゆっくりとヴァージンに近づく。同じ大学の中で会ってもおかしくないはずの二人は、陸上部がなくなってから半年近くの間、全く出会うことがなかったのだ。
ヴァージンがメリアムの手を取ると、続いてモニカ・ウォーレットがゆっくりと近づいてきた。有色肌にダークブラウンの髪。ほんの何ヵ月か前まで当たり前のように競い合っており、オメガインカレで思い通りの走りができればもしかしたらユニバーシティグランプリで顔を合わせたかも知れない、ヴァージンにとっての「強敵」までこのチャリティーレースに参加しているのだった。
「みんな、本当にありがとうございます……。私のために、アメジスタのために協力してくれて」
「そうね。でも、今のうちからそれは言っちゃいけないし、グランフィールドの見せ場はこれからじゃない」
「そうですね……」
気持ちがこみ上げてきて、つい一言多く言ってしまうのも、このチャリティーレースの持つ独特な雰囲気なのかも知れない、とヴァージンはその時感じた。あるいは、当たり前だった空間を思い出そうとしているのか。
ヴァージンはロッカーにいた全てのライバルの手を握って、スピードスターのレーシングウェアに身を包んだ。
レースのスタートは19:30。世界にその名を轟かせるアスリートたちが、女子5000mを一回勝負で走るだけの大会。その時間が、刻一刻と近づいてくる。スタジアムに集う人々の数は、選手権レベルの大会にも遠く及ばず、ヴァージンがその目でざっと見るだけでも100人もいないようだった。だが、時間が近づくにつれて、ヴァージンの足は自然と力が入ってくるように思った。
(1周400m、何度も駆け抜けてきた感触のトラックが、私たちのスタートを待っている……)
ヴァージンは、一度トラックに目をやり、続いてトラックの上に手をついた。そして、履き慣れたイクリプスのシューズを軽く指で触り、一度大きくうなずいた。「日常」が戻ろうとしていた。
(でも、ただ一つ足りないものがある……)
ヴァージンは、立ち上がって周囲を見渡した。そこにいるはずのライバルの姿がいなかった。それは、ヴァージン自身をこの場所へと誘った大きな立役者の姿だった。
(メドゥさんは……、私たちと走るはずなのに……。まだフィールドに姿を見せていない……)
ウォーレット、メリアム、グラティシモ……、これまで何度も競い合ってきたライバルたちがいる中で、見覚えのあるライバルの姿がただ一人欠けていた。ヴァージンは、出場選手が入ってくる方向に何度も目をやる。
だが、その心配はすぐに消えた。スタートラインに立つ時間が近づいてきたからだ。
そして、時間になった。
「On Your Marks……」
(まさか、メドゥさん……?)
これまでヴァージンが走ったほとんどのレースで、スタートは男性の低い声によって行われていた。それが、明らかに違和感のあるトーンの言葉だった。ヴァージンは、その声をする方を見つめた。レーシングウェアに身を包み、メドゥがスタンドから号砲を手に持った姿でやってきたのだった。
(何もかも、手作りのレース……。でも、これから先は何度も経験した、女子5000mのレース)
そうヴァージンが言い聞かせて、一呼吸置いた。号砲が鳴る。メドゥを含め、全8人でのスタートだ。
(よし!)
ヴァージンにとって、不本意な結果に終わったオメガインカレ以来のレースが始まった。ヴァージンは、最後10日間でついに一度も見せられなかったラップ70秒にできるだけ近づけようと、体を前に出す。できれば、最近のレースを引っ張る存在になりつつあるメリアムやウォーレットに引き離されない走りで、4000mあたりまで走っていきたい。
だが、この日は違った。メリアムもウォーレットも、序盤のストライドをやや控えめに取っている。ヴァージンの横をゆっくりと追い抜いていくものの、そのラップはヴァージンが数えるに、ちょうど70秒を意識しているように思えた。
それどころか、他のライバルたちはヴァージンの後ろにぴったりくっついて最初の2周を終えた。普段と比べて出場している選手の数が少ないというのもあるが、2周終わって全員がほぼ同じペースで進むのは奇妙だった。
(みんな、自分のレースをしているはず……。私だって、今の自分を見せているくらいなんだから)
ヴァージンのためのチャリティーレースだから、という意識が彼女の中にかすかに浮かび上がった。だが、ヴァージンは心の中でそれを否定した。瞬間、この1年以上、トレーニングを含めてペースアップをしない場所で、ヴァージンはゆっくりとペースを上げた。
(多少はラップ70秒に近づいたけど、それでも体感では72秒から73秒ペース……)
すると、それに合わせるようにメドゥもそれ以上にペースを上げ、ヴァージンを抜き去っていく。後ろを走るライバルの気配も徐々に小さくなった。メリアムが一人でラップ70秒を切るペースで引っ張っていく。固まっていた8人が、2000mを終えたあたりで完全に直線上に並んだ。
(ここから、私は自分なりの走りを見せるだけ。できれば、前にいる3人との差を早いうちに詰めたい)
ヴァージンは、ラップ73秒のペースを軽く上げようとした。だが、数ヵ月アカデミーでのトレーニングを離れた彼女にとって、そこからペースを上げていくことは冒険すぎた。大きくしたはずのストライドが、ほんのわずかメドゥとの差を詰めただけで戻っていく。出せていたはずのスピードが出てこない。気が付くと、隣に同じアカデミーのグラティシモにも並ばれ、抜き去られた。
だが、それでもヴァージンは前へ前へとその足をトラックの上に叩きつけていく。背中が遠くなっていく4人の姿を、何度も見せてきた鋭い目で追い続ける。離されても、離されても、ヴァージンはその足の力を緩めない。そして、ついに勝負の4000mが近づいてきた。
その時、ヴァージンの心を打つような声援が、閑散とした観客席からひときわ大きく飛び込んできた。
――ヴァージン!チェイス・ザ・ワールドレコード!
(……世界記録を打ち立てる!それが、私に抱く一つの希望……)
ヴァージンは、足が軽くなるのを感じた。4000m通過が12分11秒ほどと、記録を狙うにはあまりにも遠すぎるタイムだが、それでもこの場所から突き上げるようなスピードを見せてきたヴァージンに何一つ躊躇はなかった。これまでの72秒から73秒というラップが嘘であるかのように、ヴァージンはペースを上げ、まずはグラティシモの背中を迫る。
(まだ、レースは終わったわけじゃないんだから!)
たった一度きりの舞台。アスリートとしてデビューした、ジュニア選手権決勝にも似た状況。その中で、ヴァージンはベストを尽くすことだけに集中した。順位、タイム。そして、出せるだけの力。
残り1周となる直前、ついにヴァージンはグラティシモを抜き、力強いスパートを見せた。トップスピードで、次なる標的メドゥを追いかける。ラップ60秒を切る彼女のラストスパートは、数ヵ月のブランクを全く感じさせない。
(あと2m……っ!)
最後の直線。ヴァージンは、メドゥより前に出ようと体を前に傾ける。ペースは、世界記録を叩き出す時と体感的には同じ。これ以上、速く走ったことがないスピードで、メドゥを捕えかけた。だが、あと少しだけ距離が足りなかった。
(……っ!)
あと少しで届かなかった3位の椅子。ヴァージンは軽く首を垂れた。だが、彼女はその時、普段のレース後以上に気持ちがこみ上げてくるのだった。
(こんなダメになりかけた自分でも、5000mをいつものように走り切れた……!自分の力を出し切った……!)
その時、ヴァージンの目の前からメドゥが飛び込んできて、軽く抱きついた。
「おかえり、ヴァージン。ここが、あなたのいるべき場所よ……!」
「メドゥさん……」
汗だくの額に、ヴァージンは涙をかすかに浮かべ、そのままメドゥの胸に飛び込んだ。
「私を、この世界に引き止めてくれて、ありがとうございます……」
「こちらこそ。ヴァージンが走りきって、本当によかったと思う。今日のチャリティーレースで、アメジスタに希望が戻る日も、きっと近くなったはず」
「そうですね……」
入場料だけでも1000リアに満たない。アメジスタが背負った債務の額を考えれば、数少ない金額だった。だが、この状況下で一人のアメジスタ人が本気で5000mを走りきったことは、大きな前進に他ならなかった。そして、そのタイムは体感で14分50秒。まだまだ本気で走ったタイムからは遠い。だが、それはヴァージンにとっても大きな前進だった。
「必ず、またみんなと一緒に勝負がしたいです……。もう、祖国の絶望になんて負けません!」
「グランフィールド!それでこそ、アメジスタの希望よ!」
たった一つのレースが終わったスタジアムは、ライバルたちの「声援」に包まれていた。