第23話 ゼロからのスタート(5)
ヴァージンは、公園のベンチにメドゥと並んで座り、アメジスタに起こっていること、そして自分自身に課された現実をありのままに話した。そして、最後に徐々に声を大きくしながら、こう言った。
「私は、世界一貧しいとされるアメジスタに夢や希望を与えたいと言って、アスリートになることを決心したんです。私の力で、絶望しかないアメジスタを何とかするために……。けれど、そんな夢や希望なんて、アメジスタの人々には……全く無意味なものだったのです……」
「ヴァージン、そんなことないって」
メドゥは、首を大きく横に振ってヴァージンの肩を軽く叩く。それでも、ヴァージンの言葉は止まらない。
「私は……、みんなと一緒にレースで走りたいし、その走りで夢や希望を与えたいはずなのに……、今の私はどうすればいいのか分からないんです……」
そこまで言い終わると、ヴァージンは目に涙を浮かべて、大粒の滴をメドゥの腕に落とした。その滴に気が付いたメドゥは、腕を振り払うことをせず、ポケットから取り出したタオルをヴァージンに渡した。
「泣かないの。ほら、ここにタオルがあるから、涙を拭って、私の顔をよく見て」
強いトーンの言葉に、ヴァージンはすぐに涙を止めた。メドゥからもらったタオルのぬくもりが温かかった。顔に溜まった涙を振りほどくと、ヴァージンはメドゥの表情を見た。
「ヴァージンは、思い違いをしている。目の前のことで、気付いていないだけかも知れないけど……」
「思い違い……、ですか……」
「そう。まず、ヴァージンは夢や希望がアメジスタの人々に届いていないとか言ってるけど、ヴァージンの走りは、世界中の人々に夢や希望を与えているじゃない!」
メドゥは、決して表情を変えることなく、ヴァージンに向けて少しずつ言葉を強めていく。
「ヴァージンが走っている姿を見て、例えば未来を担う子供たちが、ヴァージンのように力強く走りたいって思っている。ヴァージンを目標にしたいって思っている人は、きっといる……」
「私のように……、なりたい……」
「まだヴァージンは、大会に出るようになって4年ぐらいしか経っていないけど、世界中にその名と走る姿は広がっている。ヴァージンの背中を追って走りたいって、みんなが思っている」
メドゥが話すその間にも、公園のジョギングコースで懸命に走っている市民たちの姿がヴァージンの目にかすかに入ってくる。その中には、ヴァージンのようになりたいと思っている人もいるのかも知れない。
「それだけじゃない。あれだけ女子5000mの世界記録を更新しまくっているんだから、スタジアムで応援する人やテレビで見る人の中には、ヴァージンの叩き出す次の世界記録を見てみたいと思っている人だっている」
「私のようになりたいという夢と、私に対する希望……」
「そう、それが、ヴァージンの見せてきた夢と希望じゃない。それは決して、アメジスタの人々に対してだけじゃないって、ヴァージン、分かるでしょ?」
「はい……。何となくは……」
ヴァージンは、自然と首を縦に振っていた。メドゥの目を見つめながら、弱々しく、けれどはっきりと言う。
「そんなヴァージンの祖国が、いま言ってくれたような最悪の状態になっている。けれど、そんな中でもヴァージンが、そんな不安や絶望に負けないで、力強く走っている姿を見せてくれる。ヴァージンがアメジスタ出身だと知っていたら、誰もがみな……もちろん私たちだって、そう思う」
メドゥは、そこまで言って目から小さな涙をこぼし、右腕で拭った。そして、突然両手でヴァージンの肩をつかみ、じっとヴァージンの目を見つめた。
「けれどヴァージンは、みんなの夢や希望を、そんなちっぽけなショックで消そうとしている!ヴァージン自身が、そんなショックに負けちゃったら、ヴァージンを信じてきた誰もが……打ちひしがれてしまう!」
「メドゥさん……。やっぱり私、思い違いをしていました。それどころか、何も見えなくなっていました」
「でしょ。そんな簡単に、アスリートがみんなの夢や希望を踏みにじっちゃダメなの!」
メドゥはヴァージンの肩を持ったまま、ヴァージンに力強く言った。だが、ヴァージンはメドゥの目を見つめたまま、緊張の糸が切れたようにややうつむきかけた。
「メドゥさんの言う通り、私は逃げちゃいけないんです……。けれど、そんな夢や希望に後押しされても、何も残っていない私はどうすればいいんですか……。その道筋が立たないから、ずっと悩んでいるんです」
「残っているじゃない。決して消えることのないものが」
メドゥは、再び腕で涙を拭い、軽く咳払いをしてヴァージンに告げた。
「決して……、消えることのないもの……。それは、私が持っているもの……ですか?」
「もちろん、ヴァージンが持っているものよ。ヴァージンには、今まで打ち立ててきた記録があるじゃない!」
「記録……!」
その言葉とともに、ヴァージンは息を大きく吸い込んでいた。その時、彼女の脳裏には最後に叩き出した世界記録と、その目の前に立って喜んでいるヴァージン自身の画像が思い浮かんでいた。
「陸上選手に限った話じゃないけど、記録とかスコアは、アスリートにとって成果の証。アメジスタから飛び出したヴァージンが、その足でどれだけのタイムを出せるかという、絶対に消えることのない印よ」
「たしかに、私からいろいろなものが失われても、出した記録は絶対に……消えることがないです……」
「そう、そういうこと。だから、今のヴァージンはゼロからスタートなんかじゃない。そこまで気負う必要もないし、いつものように自分の走りを見せればいいだけじゃない!」
「……なんか、勇気をもらった気がします。メドゥさん……、ありがとうございます」
ヴァージンは、そう言うとメドゥの手を取り、ベンチに座ったままメドゥに飛びついた。メドゥが、飛び込んできたヴァージンの肩を何度か叩き、かすかに「それがみんなの見たいヴァージンよ」と言った。
次の日、ヴァージンの姿はセントリック・アカデミーにあった。メドゥと別れてすぐ、コーチと代理人に連絡を取り、それでも走り続ける旨を告げたのだった。
「私は、このままで終わりたくないんです。走ることを止めたら、私から夢や希望もなくなってしまいます。だから私は、そんな小さなショックで、走ることを諦めないって決めました」
「そうか、ヴァージン。とりあえずは、その気持ちが欲しかった。お前がその気持ちに戻って、本当に助かる」
マゼラウスは、ヴァージンに真っ先にそう告げた。そして、手に持っていた紙をヴァージンの前で開いた。
「コーチ。その紙は、何ですか……?」
「昨日、ヴァージンは夜の公園で、メドゥからいろいろと叩き直されたようだな……」
「はい。でもコーチ、どうして私がメドゥさんと会ったという話を知っているんですか?」
「私と代理人宛に、メドゥからメールが届いている。昨日会ったことで、動き出したようだ」
ヴァージンは、目を丸くしながらマゼラウスの持っていた紙に目をやる。そこに「5000m」という文字が見えたとき、ヴァージンは思わずその紙を両手で掴んで、息を飲み込んだ。
「チャリティーレース……、入場料その他の収入は、みなアメジスタの債務に充てる……」
「昨日、ヴァージンの現実を知って、メドゥがライバルたちに呼びかけたそうだ。チャリティーレースは、女子5000mのたった1本だけ。場所も、小さな陸上競技場で行うそうだ」
「私……、走れる……。メドゥさんが……、道を開いてくれました……」
ヴァージンは、気が付くと涙を浮かべていた。それを見て、マゼラウスはやや穏やかな声で彼女に告げる。
「今のヴァージン・グランフィールドを見せるときだ。アメジスタの危機というショックから、懸命に立ち直ろうとしているお前自身を伝えることのできるチャンス。そこで、あらゆるものをその足で打ち破るんだ」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に大きくうなずいた。
「私は、立ち向かっている姿をこのレースで見せようと思います」
レースは、わずか10日後。平日の夜とは言え、週末には大会が少しずつ開催されつつある時期での開催。それでも、チャリティーレースに賛同してくれるライバルたちの顔ぶれは、ヴァージンが何度も競い合った有名な選手ばかりだった。
(これだけのライバルが、私が立ち直るきっかけを作っている。だから、私だって頑張らないわけにいかない)
ラップ70秒の目標が狂い始めて半年近く、それをわずか10日間で取り戻すのはあまりにも大変な道のりだった。だが、ラップ80秒近くで走っても、懸命にトラックを走るヴァージンに対して、マゼラウスは何も言わなかった。
「久しぶりの本番は、普段のお前を見せること。私から言えることは、それだけだ」
「はい」
その時、ヴァージンは体に久しぶりに力が入ったような気がした。