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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速のアスリート いま再びトラックに立つ
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第23話 ゼロからのスタート(4)

 翌日から、ヴァージンは再び外を走るようになった。アカデミーには行けないにしても、ガルディエールの言葉により、トップアスリートとしての自分から逃げることもできなくなり、自主トレーニングは続けなければならなかった。ただ、一つ変わったことは、これまでのヴァージンがほとんど睡眠に費やしていた、0時や1時、2時といった時間帯に軽いランニングに出向くことだった。誰にも気付かれないよう、誰もいない夜の公園を、ヴァージンは一人寂しく走り続けていた。この姿を見られたくないために。

(ラップ80秒ぐらいまで落ちてしまったかもしれない……。けれど、走らなければもっと落ちてしまう……)


 大学の講義がない期間にポスティングのアルバイトをし、年が明けた。そして1月から2月にかけてのインドアシーズンも毎日深夜にトレーニングをするだけだった。そして、3月、4月、5月と時間だけが過ぎていき、それでもアメジスタが債務を返済したというニュースは流れてこなかった。その代わり、ヴァージンが書店で立ち読みした「ワールド・ウィメンズ・アスリート」には「女子5000m、今シーズンを突っ走る新しい星は誰か」という記事が組まれるほど、ヴァージンの不在は次第にライバルたちの耳に入るようになった。

(このまま、大学1年生が終わって……、私は大学生という肩書きも失ってしまう……)

 未だ慣れないヒールで街を歩くヴァージンは、書店を出るなり何度も首を横に振った。ため息を何度ついたか分からないほど、ヴァージンは何度も下を向いた。その目に涙を浮かべることはなかったが、泣きたかった。

 しかし、ヴァージンの耳にアメジスタという言葉が飛び込んだ瞬間、彼女は歩くことを止めた。家電量販店のテレビから聞こえてくる、ニュースキャスターの慌ただしい声が、彼女の祖国を連呼している。


 ――債務返済問題で財政的な混乱の続くアメジスタで、重税の方針を固めた政府と反対派の間で戦闘が続いています。首都グリンシュタインには、政府の退陣を求めてデモ隊が政府部隊を襲い、数十人の死者が……。


(そんな……、アメジスタでこんなことが起こっているなんて……)

 これまで滅多にメディアが入ることのなかったアメジスタは、デフォルト以後軒並みよその国のカメラが入るようになり、デフォルト問題の進展や街や人の様子をたびたび伝えてきた。ヴァージンが大学のパソコン室で見るニュースも、明らかにオメガなど財政的に余裕のある国のメディアからだ。

 だが、この日ヴァージンの目に飛び込んできた画像は違った。グリンシュタインの街が、政府に賛成する派と反対する派で真っ二つに分かれ、人と人とが殴り合いを続けている。内戦状態だった。アメジスタに生まれたヴァージンでさえ、このような争いを見たことがなかった。

 アナウンサーの声とともに、傷ついた人々、逃げ惑う人々、病院で手当てを受ける人々、ベンチや緑が破壊される公園や建物、焼き払われるアメジスタの国旗などが、秒刻みで画面に映し出される。それらの全てがグリンシュタインや周辺部の映像であり、ヴァージンの目にはその場所がどこであるかすぐに分かった。

 最後にアナウンサーが、この状況下ではアメジスタのデフォルトは当面続きそうです、と締めくくった瞬間、ヴァージンはその場に泣き崩れた。

(アメジスタの夢や希望を背負って……、私は世界に出たのに……)

 この数ヵ月の間、ヴァージンはガルディエールに言われた夢や希望が何かを、事あるごとに考えていた。アメジスタで誓ったその言葉しか、結局思いつかなかった。それが、テレビの向こうではそれらが全く消えていた。

(私は、やっぱり夢とか希望とか……、与えてなんかいないのかも知れない……)

 オメガという、周りに誰一人としてアメジスタ人のいない場所で、一人泣き崩れた人間を慰める人の姿はなかった。みなヴァージンを笑うように見ているように思えた。

(少なくとも、私の走りでアメジスタの人々を勇気づけることは……、できなかった……)

 オメガでは、インターネットや大型のテレビ画面で当たり前に伝えられる世界中のニュースも、アメジスタでは見ることができない。新聞、雑誌でもほとんど国外のニュースが扱われることはない。世界競技会で銀メダルを取っても、世界記録を更新しても、そのニュースがアメジスタに伝わることはない。まして、このような混乱のさなかで、メディアが内戦以外のニュースを伝える可能性などゼロに等しい。

 ヴァージンは、ようやく立ち上がった。しかし、次の一歩にこれまでのような強さはなかった。


「どうしよう……」

 夢や希望を与えようとしていたアメジスタが、本当に夢や希望の持てない国に変わり果ててしまった。アスリートに対して夢などない、ということを否定したはずの5年前のヴァージンが、遠くに行ってしまいそうだった。

「私は、今までどういった夢や希望を与えてきたんだろう……。伝わってもないのに……」

 ガルディエールから言われた、夢や希望を与えているという実感は、レースに出られない期間が長くなるにつれて目に見えるように消え失せていった。アメジスタという、ヴァージンが最後まで残していたひとかけらがあったが、それも今まさにヴァージンの心から消えてしまいそうだった。

 ガルディエールに説得されたあの日以来、ヴァージンはガルディエールやマゼラウスと定期的に話をしており、その中で弱音を見せないようにこらえてきた。しかし、ガルディエールに対してもう一度、逃げや諦めの姿勢を見せてしまったら、その時にはもう取り合ってもらえない気さえした。電話だけを持って、かけることのできない時間が、その後数十分続いた。

 そして、何度目かの電話を置いたとき、ヴァージンは右手を握りしめた。

(今の私が走ったら……、私からどんな夢や希望を感じるのだろう……)

 この数ヵ月走り続けてきた時間は、まだ3時間も4時間も先だった。夜の入口とも言えるこの時間帯に公園を走れば、気付かれてしまうことも分かっていた。けれど、この日の決心から恥ずかしさは消えていた。思っていた全ての夢や希望が消えていった今、自分で見つけなければ、今度こそ完全に自分というものが消えてしまう。

 ヴァージンは、ワンルームマンションを飛び出し、すぐ近くにある広い公園に向かった。


(私は、ヴァージン・グランフィールド。これまで夢や希望を与えてきた、一人のアスリートのはず……)

 ヴァージンは、ジョギングコースのスタートラインに立ち、周りでまだ多くの人々が走っている中に力強く飛び出した。100m、200mと、勝負の舞台である400mトラックとは全く違う感覚でヴァージンは距離を伸ばしていく。毎日深夜に5000mを走っているが、この日だけは本気のスピードで走りたかった。目標にしていたラップ70秒のスピードには全く届かないが、それでもここ数ヵ月のヴァージンからすれば見違えるようなスピードで周りの人々を追い抜いていく。

(私ができることは、こうして走っていることだけ。けれど、そのわずか14分とか15分とか、それだけのために私は毎日頑張っているし、そのわずかな時間で、夢や希望を与えることだってできる……)

 やがて、ジョギングコース1周の1000mが飛び込んでくる。体感的には3分13秒ほど。ここにきてヴァージンは、まだまだスピードを上げられるような気がした。そして、スピードをかすかに上げた。


 次の瞬間、ヴァージンの右足が大きい衝撃を感じた。1周目にはなかったはずの、小さな石だった。だが、スピードを上げたヴァージンにとって、それはその走りを止めてしまうほどの大きな障壁だった。

「……っ!」

 ヴァージンは投げ出されるようにコンクリートの上に倒れた。膝を襲う激しい痛みが彼女を襲う。その横を、それぞれのペースで走って行く、一度は追い抜いたはずの人々。その場にうずくまり、立ち上がることのできないヴァージンのほうが、小さく見えた。

(こんな私から……、やっぱり誰も夢や希望を感じることはできないのかな……)

 ヴァージンは立ち上がったが、そのつま先がコースの先に向かうことはなかった。回れ右して、公園の出口へと向かいかけていた。ガックリと首を垂れた、女子5000m世界記録保持者の姿が、次々と人の目に飛び込む。

(今度こそ……、私はもう……)


「ヴァージンじゃない!」


 遠くから、何度も耳にした声が飛び込んできた。ふと顔を上げると、濃い金色の髪がジョギングコースを照らすライトに輝いていた。

「メドゥさん……、どうしてここに……!」

「ヴァージンこそ……、どうしてここに……。最近、本当に見なくなって心配していたのに……」

 その言葉を聞いた瞬間、ジョギングコースを走っていた何人もの人がその足を緩め、二人のトップアスリートの姿を目に焼き付けていた。

 だが、ヴァージンはそんな人々の注目を横目に、メドゥにそっと告げた。

「メドゥさんに話があるんです……。もしトレーニングの邪魔じゃなければ、話を聞いて下さいませんか」

 するとメドゥは、すぐに首を縦に振った。

「いいわ。ヴァージンが、なんかものすごく困っていそうだから」

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