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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速のアスリート いま再びトラックに立つ
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第23話 ゼロからのスタート(3)

 再びアカデミーに行かなくなったヴァージンは、大学の講義以外で滅多に外に出なくなってしまった。大学に行くときも決してトレーニングウェアやシューズではなく、私服にヒールを履いて出る。これだけ有名になってしまえば、普段通りの服装をしているだけでヴァージン・グランフィールドだと分かってしまうからだ。

(人目に付くところで走っていれば、とても世界記録を持っているとは思えない私を見られてしまう……)

 マゼラウスにあの言葉を告げて5日目、大学の講義を終えてワンルームマンションへと歩いて戻るとき、突然吹き付けてきた冷たい風に、ヴァージンは思わずため息をついた。外で走らないことに決めてから、家までの道のりがあまりにも遠く感じていた。本気で走ればほんの数分でたどり着ける距離が、10分、15分とかかる。

(私は……、誰よりも速く走ってきたはずだし……、今も走れそうなのに……)

 一瞬前に出かかった右足が、ヴァージンの目に映った瞬間に動きを止める。そのままよろけそうな体を何とか起こして、ヴァージンは足を元に戻す。そして、再びため息をつく。

(いつまで、私は悩み続けているんだろう……。走ることが恥ずかしくなってしまうんだろう……)

 16分台にまで落ちてしまった、自らの5000mのタイム。それをいま再び脳裏に思い浮かべたヴァージンの目に涙が浮かぶ。何度かその場の土を踏み、彼女は涙を飲み込んだ。

(逃げたい……。この現実から逃げたい……。アメジスタに帰った方が……、ずっといいかも知れない……)

 勿論、資金の尽きかけたヴァージンが故郷に帰れるわけもなかった。片道分のチケットも買えないほど、ヴァージンの手持ちのお金がなかった。年末年始に大学の講義がない間は、多少のアルバイトをして生活しようとも考えており、大学に近いショップを尋ねてはいるが、就職活動に向いていないのは16歳の時から変わらない。

(誰に相談しよう……。このままじゃ、本当にダメになってしまう……)

 ヴァージンは、そう心で呟いた瞬間、その場にいても立ってもいられなくなった。ヒールを履いているはずの右足で力強く大地を蹴り、数日前まで見せていたような軽快な走りを、ワンルームマンションまでの数百mの距離だけ見せた。準備運動もなしに、無性に始めたその走りで、ワンルームマンションのドアを開けるときにはかなり息が上がっていた。

「電話しよう……。ガルディエールさんに……」

 大学の知り合い、アメジスタ時代からの知り合い、アカデミーのコーチ。それら全てに声を掛けづらくなった今となっては、自らを売り込んでくれる代理人しか、もう相談する相手はなかった。

 息を飲み込むようにして耳に当てた電話は、ワンコールで通じた。

「もしもし……。ガルディエールさんですか……?」

「どうしたんだい。また、アメジスタのことで私に相談を持ちかけようとしているんかい?」

「はい……。今日は、それがメインではなくて……、こんな私を助けて欲しいんです……」

「助けて欲しい……。いつも前向きな君にしては、ここのところすごく後ろ向きな気がするな……」

 電話の向こうから、ガルディエールのため息が溢れる音を、ヴァージンは聞いた。

「もしかしてガルディエールさん、最近の私のことを知っていたり……しないですか?」

「聞いている。君のコーチとか……、精神的な理由でトレーニングに来なくなったって聞いて……。私も君に電話をしようかと思っていたが……、そこは君からの本当の声を待とうと思っていた……」

「ガルディエールさん……。そうだったんですか……」

「そう。だから、ずっとずっと君を心配していた。だから、君からの電話と分かったとき、心が躍ったんだ」

 ガルディエールのその声は、ヴァージンの耳に決して踊っているようには聞こえなかった。その言葉が終わると、ヴァージンは、ダッシュで一度は吹き飛ばしたはずの涙を再び目に浮かべて、細々とした声で言った。

「私……、もう逃げたいです……。こんな、いつになっても勝負ができないような現実から……」

「落ち着いて。いつかその時は来るから……。アメジスタが債務を返し終われば、きっとまた戻れる……」

 ガルディエールは優しくそう言ったものの、ヴァージンはその声に対して首を横に振った。

「ガルディエールさん……。何のために走るのか分からないまま走っても、集中ができないし……、タイムだって私の実力からしたら明らかに遅くなっているし……。このまま消えてしまいたい……」

 ヴァージンは、ため息とともに小さな声でガルディエールに告げた。そこで数秒の沈黙ができた。次の瞬間に何を言われるのか分からなかった。執拗になだめられるか、怒鳴り散らされるかのどちらも可能性はあった。

 しかし、ガルディエールの言葉は、強くはなかった。弱々しい声で、ヴァージンに告げた。

「やっぱり君は、トップアスリートとしての人生を諦めてしまうのか……」

「諦めたくは……、でも……」

 ヴァージンは、ガルディエールに見えないにもかかわらず、その場で小刻みに震えていた。

「その弱気の言葉を、私とか、君の今を理解している人以外に、決して口にはしていないだろうな……」

「まだ、してません。口にする余裕もありません……」

「そうか……。なら、今の君にいいことを教えてあげよう……。絶対、忘れないで欲しい」

「はい……」

 ガルディエールのゆったりとした口調に、ヴァージンは吸い込まれるようにうなずいた。


「一度諦めを見せた人からは、夢も希望も感じることはできない。夢のない人間からは、夢なんて感じることなんてできないんだ。たとえ君のように、夢や希望を与え続けてきた人間であったとしても……」


「ガルディエールさん……。なんか、すごく心に突き刺さったような気がします」

 ヴァージンは、ガルディエールの言葉が終わるなり、小さな声でそのように返した。

「どのあたりが、君の心に突き刺さったんだい?」

「いえ……、どの部分とかじゃなくて……。私が夢や希望を与えているってことを、忘れていました……」

「そう。君は、夢とか希望とかを背負って、この世界に入ってきたと聞いている。だから、君から夢や希望を感じる人は、きっと多いと思うんだ。けれど、今の君がやろうとしていることは、その夢や希望を踏みにじる。そのことを、君は分かっているのか、それとも分かっていないのか」

「……分かります」

 ヴァージンは、もう一度目に涙を浮かべた。それ以上、何も考えることができないまま、ガルディエールの説得に対して、首を縦に振るしかなかった。

「世界で有名になった君は、今はもう、そういう存在だ。それを忘れて欲しくはない。私からは、それしか言えない。あとは、君自身がこのショックから立ち直れるかどうか……、それは君自身にかかっている」

「はい……」

「何ヵ月かかったっていい。最悪、アメジスタが立ち直るまで待っていてもいい。けれど、この世界から逃げることを、君を信じてくれた人に言った時点で、君のレースは終わりだ」

「終わり……」

「勿論、私との関係もそこで終わりだ。走ることを諦めた君を売り込むほど、情けない営業はないからな」

「分かりました……」


 ヴァージンは、電話を切ってからもしばらく、その場に立ち尽くしていた。進むこともできない自分を変えようと相談したつもりが、ガルディエールの言葉で戻ることもできなくなってしまった。そして、相談できるはずの切り札を全て使ってしまった今、ヴァージンに残された道は自分自身でその先を決めることしかなかった。

(逃げたくない……。逃げるなんて絶対に言えない……。夢や希望を踏みにじってしまう……)

 ヴァージンは、一歩だけ右足を前に出そうとした。しかし、その足はレース直後の疲労しきった足よりもずっと重く、石のように硬くなっていた。

(座ろう……。すこしだけ、自分を整理しよう……)

 ヴァージンはベッドの上に座り、首を左右に動かした。「ワールド・ウィメンズ・アスリート」から切り抜いたライバルたちのポスター、そして自分自身のポスターが目に飛び込んでくる。そこに映る客席は、誰がグラビアを飾っていようが、どこか喜んでいるように見える。

(これが、夢とか希望とか……、いうものなのかも知れない……)

 ヴァージンは、しばらくそのポスターを見ていた。しかし、息を軽く飲み込んだとき、そのポスターが磨りガラスの向こう側に消えたかのようにかすんでしまった。

(でも、その夢や希望って……、何なんだろう……。私は、みんなにどれだけの夢を与えているの……?)

 次の瞬間、ヴァージンは下を向き、これまで浮かべた全ての涙をベッドに流し始めた。

(私が与えてきた夢とか希望とか……、今の私には分からない……)


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