第23話 ゼロからのスタート(2)
翌日の朝、ヴァージンがアカデミーの更衣室で着替えを済ますと、出口でマゼラウスが待っていた。
「久しぶりだな、ヴァージン。この場所に戻ってくるのは……」
「はい、昨日自主トレしていたら、この場所が少し恋しくなってきたので……」
「そうか……。今まで、お前の口から恋しくなるという言葉を聞かなかった分、新鮮に聞こえる」
ヴァージンは、マゼラウスが軽く笑う表情に合わせるように、口を少しだけ開いた。そして、ほんの2週間ほど前までほぼ毎日のように行っていたメニューへと進む。まずは室内トレーニングで肩慣らしだった。
「ヴァージン。ハードなトレーニングがあまりできていないようなら、今日のトレーニングは無理しなくていい」
「はい、分かりました」
そう言いながら、ヴァージンは慣れた仕草でマットの上に座り、軽く足を伸ばした。一通りのストレッチが終わると、次は器械体操、それから外に出て短い距離のダッシュ、歩幅調整……。繰り返される、普段のメニュー。
だが、ヴァージンは感じていた。普段は決して現れてこない疲れが、時間が経つにつれて現れていくことを。
「ふぅ……」
この日は大学の講義がなかったため、昼食はアカデミーで取ることにした。ヴァージンは食堂に向かうが、その時には普段夕方に感じるほどの足の重みを感じており、呼吸も多少乱れていた。
(久しぶりのトレーニングで……、疲れたのかも知れない……。でも、まだやりたかった5000mがある……)
ゆっくりとした足取りで食堂に入ろうとすると、ヴァージンは背後に人の気配を感じた。漂ってくる雰囲気から、それがグラティシモであることが分かった。
「久しぶりね、グランフィールド。アカデミーでも、いないいないって心配していたみたいだけど」
「グラティシモさん……。やっと帰って来れました。随分と心配かけてしまってすいません……」
「いいのいいの。実力的には、グランフィールドの方がまだ上だし、これくらいのブランクならまだ……」
グラティシモは、軽い口調でそう言った。だが、ヴァージンはグラティシモも声に、首をかすかに横に振る。
「ちょっと、ブランクが空きすぎてしまったかも知れません……。昨日も今日も、まだ調子を取り戻せないです」
「そう……。ずっと5000mのエースのグランフィールドだからこそ、そう感じるのかも知れない……」
「きっと、そうだと思います」
ヴァージンは、そこで作り笑いを見せた。グラティシモも、ヴァージンの笑みに一緒になって笑った。その時だけ、足に溜まった疲れが少しずつ消えていくような気がしてならなかった。
しかし、ヴァージンのブランクは隠すことができなかった。
「久しぶりに、本気でいつもの距離を走ってみようじゃないか」
普段のように、日がだいぶ落ちてきた頃、マゼラウスはヴァージンを5000mのスタートラインに呼んだ。少し深呼吸をしながら、ヴァージンはスタートラインに立ち、その先に広がる走り慣れた距離を見つめる。
「インカレの前に私が言ったラップ70秒でなくてもいい。その代わり、今日は実力を出し切れ」
「はい」
ヴァージンは、体の重心を前に傾け、スタートの時を待った。マゼラウスの右手が上がった。
(私は……、この距離だけは他に負けるわけにいかない……)
小さく手を握りしめたと同時に、スタートの合図が鳴る。ヴァージンは、意識的にラップ70秒のスタートを切った。普段から感じている、真正面からかすかに吹き付ける風が、ヴァージンの髪を撫でる。周りにライバルがいない中でも、自分の走りを捨てないのが、これまでのトレーニングで意識してきたことだ。
ラップ70秒か71秒程度のスピードで、ヴァージンはトラックを4周、5周と快調に飛ばしていく。しかし、5周を回りきったところで、彼女は体がじわじわと重くなっていくのを感じた。
(なんか……、足が思うように前に出て行かないような気がする……)
午前中に何度も感じていた疲れが、最も得意とする距離のタイムトライアルであふれ出しているのだと、最初は思った。だが、午前中に感じた足の疲れとは全く別の性質の疲れに襲われている気さえしたのだった。
ヴァージンのペースが、6周目に入って突然ガクンと落ちていく。体でも分かるほどに。
(こんなはずじゃない……。多少ブランクがあって、ここまでペースが落ちるとは思えないのに……)
ヴァージンは、次の一歩を力強くトラックに叩きつけ、ペースを取り戻そうとした。だが、そのペースアップもほんの10秒ほどで消えてしまい、逆にヴァージンにスピードのムラと疲れを生じさせる結果になった。
そして、4000mからのペースアップもほとんど伸びることなく、5000mを走り終えた。
(何のために、私は走っているんだろう……)
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ」
ヴァージンは、ゴールラインを割るなり、芝生にうつぶせでダイブした。多少体をクールダウンさせなければいけないことを知りながらも、今の彼女にそれができるような体力も気力もなかった。何度もまぶたを閉じて、今走ってきた5000mの距離のペース配分を思い出そうとした。だが、体が言うことを聞かないということ以外に思い出せるものは何一つなかった。
(私は、14分11秒97で走りきれる実力があるはずなのに……。体が思っているペースについていかない……)
まぶたの向こう側に、前日に画像で目にした世界記録がうっすらと映る。だが、タイムトライアル中のラップタイムを心の中で数えなくても、この日の結果があまりにもそれからかけ離れているのは目に見えていた。
このまま、理想の中で眠っていたかった。現実を知りたくなかった。だが、マゼラウスが現実を告げる。
「途中まではいいペースで来ていたが、終わってみれば16分04秒28……。お前の足でなかなか見ない数字だ」
(16分……!うそ……。信じたくない……)
ヴァージンは、何もかもが崩れ落ちていくような胸の音を、その時はっきりと聞いた。疲れているはずの体を力ずくで起こし、心配そうな表情で見つめるマゼラウスに軽くうなずいて、震えるような声で言った。
「私……、まだ全然自分を取り戻せていないのかも知れません……」
「たしかに……、お前らしくない。走る姿もそうだが、途中から気迫が感じられなくなっていた……」
マゼラウスは、決してヴァージンに怒ることはなく、淡々とした口調でそう答え、さらに続けた。
「アメジスタのことや、レースにしばらく出られないことで、ヴァージンは相当気負っているんじゃないか」
「はい……」
これには、さすがのヴァージンも力なく返事をするしかなかった。マゼラウスを見つめるにつれ涙が出てくるのを、ヴァージンははっきりと感じていた。そして、数秒の間を置き、涙を拭いつつ言った。
「私は、何のために走っているのか……、走って何になるのか……、最近分からなくなってます……」
(言ってしまった……)
走るための全てを教えてもらっているはずの人物に対して、一番言ってはいけない言葉を口にしたことに、ヴァージンは言い終わってから気が付いた。その時には、もうマゼラウスの口が軽く動いていた。
「それは、ただ一つ。自分をより速くするため……。トレーニングのコーチとしてはそう言わざるを得ない」
「そうですか……」
マゼラウスの表情は落ち着いている。それが不気味でたまらなかった。ヴァージンは、次の言葉を待った。
「誰にでも不調はある。特にお前の場合、悪いことがこの数ヵ月で積み重なりすぎている。実力的には世界トップのお前も、失礼かも知れないが、人生経験の上ではまだ21歳の子供だから、消化し切れていないのかもな」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に重苦しくうなずく。そして、再び涙を拭って、力なく言った。
「またしばらく、休ませて下さい……。ショックで実力を出せないまま、本気で走ることなんてできないです」
「分かった。たった一日で折れてしまうほど……、心が不安定なアスリート……。それが今のお前だからな」
「すいません……」
「謝ることはない。それに、別に私はお前を見捨てるわけじゃない。お前のことを分かって、一時的にそう突き放しているだけだ」
マゼラウスは、ここでも決して怒鳴りつけていない。ヴァージンの目に溜まっていた涙も、その一言を言ってからは全くこぼれ落ちてこなくなった。そして、二人の足は同時にアカデミーのトレーニングルームに向けて歩き出していた。
「また、体を動かしたくなったら、アカデミーに来い。私はいつでもヴァージンを待っているからな」
「分かりました」
この日、ヴァージンはアカデミーから出るときに珍しく外に出てきてくれたマゼラウスに大きく手を振った。この不安定な状況の中、次にいつ会えるか分からないまま、それは二人の数少ない絆だった。