第23話 ゼロからのスタート(1)
ウッドソンの暴行、そしてイーストブリッジ大学陸上部の廃部。あっという間に全てが変わってしまった時から10日の月日が経過した。その間ヴァージンは、再びアカデミーに姿を現さなくなり、大学の講義にだけ何とか顔を出すような生活だった。大学とワンルームマンションを行き来するだけで、その途中で食事をするだけの日々が続いた。
この日の夜も、外を全く走ることなく部屋に戻ってきたヴァージンは、ベッドの上に座り天井を見上げた。座った瞬間に、全身から疲れがあふれ出してくるのが分かった。
(そんな疲れる生活なんて……、していないはずなのに……)
これまで長い間、時間と体力さえあれば何かしら体を動かしていたヴァージンにとって、疲れはトレーニングを終えた後にしか現れることがなかった。だが、その生活が逆転して、慣れない生活が始まったいま、走れないストレスが彼女を苦しめようとしていたのだった。
(私は、これまで幾度となくその足でトラックを駆け抜けてきた……。その体を維持するためにも、走らなきゃいけないはずなのに……)
ヴァージンの目線は、天井から一気に床に向けられた。かすかに目が潤み、右手で軽くそれを拭った。それでも、走っているヴァージンの姿を思い浮かべるたび、それらは再びこぼれ落ちてくる。
(私……、もう一度走りたい……。トラックの上で、ライバルと競い合いたい……。だから、走らなきゃ……)
幸い、明日も大学がある。大学のグラウンドは使えなくなってしまっても、ヴァージンにとって絶好のトレーニングスポットがあった。まずは、そこで気持ちを解き放とうと、ヴァージンはその時決めた。
気が付くと、ヴァージンの感じていた疲れは取れていた。
次の日、全ての講義が終わると、夕日の差し込む裏門にヴァージンは急いだ。目指す場所は、裏門から各部のグラウンドへと続く坂道。その坂道を下から裏門まで駆け抜ける。陸上部の全体練習では何度も行っており、アメジスタのデフォルトが報じられるまではそれ以外の時間でも行っていた。だが、この1ヵ月ほどヴァージンは坂のトレーニングからは遠ざかっていた。
これまでの自身の最速タイムが2分53秒。1ヵ月間このレベルの坂を上っていないので、タイムが多少落ちる可能性はあるが、ストップウォッチを止めるまではそのことを一切考えたくなかった。
(よし……)
久しぶりにトレーニングウェアに身を包んだヴァージンは、これまで何度もそうしてきたように坂の下のスタート地点から右足を力強く前に叩きつけた。インカレ前のトレーニングでも意識してきたラップ70秒のスピードにまで高め、そのスピードのまま坂を上っていく。
(第1コーナー……!)
きついヘアピンカーブの続くこのコースを、ヴァージンは体を軽く傾けながら上っていく。そして、第2、第3とカーブが続いていく。このあたりで、ヴァージンの足が少し重くなるのを感じた。
(いきなりラップ70秒はきついのかも知れない……)
ヴァージンは、第4カーブを曲がったところでスピードを元に戻すことができなくなった。ラップ70秒を意識したつもりが、体がそう訴えたことで明らかに数秒遅くなっている。息も多少上がってきた。坂の上まで上がれないほどの疲れではないものの、このままでは遅れて出発したメリアムに抜かれてしまった、最初の挑戦と同じくらいのタイムに落ち着いてしまう。
(何とかしなきゃいけない……!)
ヴァージンは、ここでギアを上げようとした。だが、一度緩めたスピードを元に戻すのは難しかった。その状態のまま、ヴァージンは体感的に明らかに3分を過ぎて、ゴール地点に飛び込んでいった。
「3分07秒28……」
ストップウォッチに映し出された結果を、ヴァージンは力なく読み上げた。最悪とも言えるレベルのタイムを叩き出し、1ヵ月も坂のトレーニングを休んでいた当然の結果がそこには待っていた。そして、これまで感じたことのない疲れを彼女は感じ、裏門横の芝生に仰向けで倒れた。
(こんなはずじゃない……。こんなはずじゃないのに……)
ヴァージンは、少しの間目を閉じ、そして再び目を開けた。そこには誰もいなかった。女子5000m屈指のライバルとなったメリアムの姿、他の陸上部員の顔……。所属していたものが消滅した今となっては、この裏門まで陸上競技をしにやって来る人の姿はなかった。いや、その場所で力なく倒れている女子学生が、女子5000mの世界記録を持っている人間と同一人物かどうかも、通りかかる学生には伝わっていないのかも知れない。
(誰も……、私を気にしてくれない……。誰も……)
不本意なタイムなら、インターバルを置いてもう一度やり直す。それが、坂のトレーニングでこれまでヴァージンが続けてきたことのはずだった。しかし、今の彼女にその元気はなかった。
(私は……、何のために走っているんだろう……)
ヴァージンはゆっくり身を起こし、裏門に立った。しかし、再び坂を下るための一歩を踏み出せなかった。
(私は、何のために走ればいいんだろう……。走っても……、その先に何も待っていないというのに……!)
ヴァージンは、その日普段よりも遅いペースでワンルームマンションへと続く道を歩いていた。一流サッカープレイヤーが犠牲となった場所を通り過ぎるときには、ヴァージンの足は小股でふらつきかけていて、たくさんの花が飾られたその場所に足をつまずいてしまいそうな勢いだった。
大学を出てからずっと、彼女の脳裏を一つの問いかけが駆け巡っていた。アスリートとして生活するための資金をほぼ全て経たれた今、出られる大会は何一つなかった。公に記録を認めてもらう機会が、全くなかった。そして、仮にどこかのレースに走れたとしても、そこで得た賞金はアメジスタではなくオメガのために支払われ、世界一貧しい国とそこに住む人々に、何をしてあげることもできない。それが現実だった。
(何のために、私は走っているんだろう……。その意味が……、何一つないはずなのに……)
ようやく、ヴァージンはワンルームマンションのドアを開き、深いため息をつきながらベッドの上に座り込んだ。オメガインカレでゴールできなかったあの日以来、ベッドの上で座り込むのが日課になりつつあった。
「でも、走らなかったら……、今日のようになってしまう……」
答えを見つけられないまま、ヴァージンはそっと呟いた。それは決して答えではないが、延々と続く問いかけを終わらせるだけの絆創膏の役割を果たすには十分すぎるものだった。
ヴァージンはゆっくり立ち上がり、一度も手を付けていなかった先月発売の雑誌「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を手にした。そして、巻頭特集を通り過ぎ、先々月のレスタルシティでのレース結果が載っているページで手を止めた。
「14分11秒97……。これが私の叩き出した記録……」
1ページほどの記事の中に、ヴァージンがWRの文字をバックに笑みを浮かべている画像が紹介されていた。それが、ヴァージン自身の出した記録だった。だが、アウトドアのオフシーズンとは言え、それ以降レースに出ていない上、ほぼ毎日のようにアカデミーで行っていたはずのタイムトライアルもその回数を減らしてきている。
(今日のような最悪な状態が、このまま続くと、この世界記録も危ないのかも知れない……)
ウォーレットやメリアムは、自己ベストだけを考えれば世界記録の射程圏内に位置している。もし、このままヴァージンがトレーニングから離れてしまえば、そこに映っている記録は、いずれただの記録になってしまう。
(やっぱり、何とかしなきゃいけないのかも知れない……)
ヴァージンは、夜遅くなっているのも関わらず、セントリック・アカデミーに電話を入れた。偶然にも、電話にはマゼラウスが出た。
「ヴァージン、どうした。アカデミーに来ない間も、トレーニングしていたのか?」
「えぇ……。何とかトレーニングできるように……、なりました……」
「それはよかった。なら、気力の許す限りでいいから、アカデミーに戻っておいで」
それを聞いたヴァージンの目に、かすかに涙がたまった。だが、それは前日の夜に部屋の中で流したものとは全く別の性質の力だった。
「はいっ!……必ず、明日コーチのところに行きますから!」
ヴァージンは、マゼラウスにそう言うと同時に首を大きく縦に振った。そして、電話を切ると右手を軽く握りしめて、再び天井を見上げた。
(何もかもを奪われてしまった今、このアカデミーだけが私を見てくれる……、私を証明してくれる最後の場所なのかも知れない……。だから、私はもう少しだけ頑張れるのかも知れない……)
だが、ヴァージンのその意思は、強がりだけでできた儚いものに過ぎなかった。