第22話 一つ、また一つと消える光(5)
「そこで何をしている……」
その声のトーンで、ヴァージンはアルデモードを狙った男の正体を即座に感じた。驚きよりも先に、肩が引き締まっていくのを彼女は感じた。アルデモードがヴァージンに胸に倒れ込むと同時に、その男の姿が映った。
「ウッドソンさん……。ちょ……、いま、アルデモードさんに……」
だが、ウッドソンはヴァージンの声に全く聞く耳を持っていない様子で、アルデモードの両肩を持ち、襟首を掴んで、その顔をウッドソンの正面に向けさせた。ウッドソンの声のトーンこそ、普段陸上部で見せるものと同じだったが、その言葉の一つ一つに、明らかに棘があるように響いた。
「名前言えよ。あと、世界的アスリートのヴァージン・グランフィールドに、何をしようとしていたかを」
「フェリシオ・アルデモード。で、何を……、って……」
「余計なことをしようとしてたんだろ。グランフィールドに。さぁ、何をしようとしていたか答えてくれよ」
「……僕は、余計なことなんて」
ヴァージンは、ウッドソンに何かを言おうとして口を開いた。だが、数秒の沈黙をウッドソンが先に破った。
「金を渡そうとして、グランフィールドを支えようとしていた。それは誰の役割か、分かってるよね」
「お金のないヴァージンを、僕は自分の意思で支えようとしている。それだけだよ」
(やめて……。どうして、この二人がかち合ってしまうの……!)
図書館で調べ物をしていた日から、ウッドソンにはどこか運命的なものを感じていた。時々メールなどで声を掛けてくれるアルデモードと違い、ウッドソンは大学の中で、そして陸上部の中で絶えず顔を合わせる存在のはずだった。けれど、それでもヴァージンには最初からアルデモードがいた。
だからこそ、大会費用を出せないヴァージンにとって、両方の手が支えてくれるはずだった。
(そのことを、少なくともウッドソンさんは、快く思っていない……。アルデモードさんを認めてない!)
「私が……、全て悪いんです……、ウッドソンさんに、アルデモードさんのことを何も言わなかったせいで」
ヴァージンは、ウッドソンの言葉が途切れた隙を狙って二人の間に割って入った。一瞬、二人の顔がヴァージンの方に向けられ、ウッドソンはアルデモードに向けていた細い目のままでヴァージンを見つめた。
「せっかくの支援なのに……、私が二股をかけていることを、今まで黙ってて……、ごめ……」
「グランフィールドが謝ることじゃないよ」
ウッドソンは、ヴァージンの言葉をすぐに遮った。言葉の棘は消えかけているが、そこから先でウッドソンがこれまで見せたことのない言葉が飛び出しそうな雰囲気だけは、その落ち着きからは見えてくる。
「だって、グランフィールドが二股かけようが、三股かけようが、俺が一番愛していることに変わりはない」
「僕だって、今まで君を大事に……思っていた」
アルデモードが、ウッドソンを後ろから見つめる位置に立って、やや低い声で言う。だが、その小さな声にもウッドソンはアルデモードを軽く振り返るだけで、少し鼻で笑うような仕草をして、顔の向きを元に戻した。
「俺は、陸上という勝負の世界で生きているんだ。だから、競争相手になるものは、誰であろうと打ち勝ってみせる。陸上にはルールはあるが、恋愛にはルールなんてない……」
「ウッドソンさん!アルデモードさんを……、どうするつもりなんですか!」
「今の言葉から、ヒントは見えてくるはずだ。世界で誰より、5000mを速く走れる女子の君なら、きっと……」
ウッドソンは突然体の向きを変えて、アルデモードに向かい、そのまま静止した。その状態で、ウッドソンは右足を軽く引いた。今にも、男子110mハードルのレースがスタートするような雰囲気だ。
「グランフィールドを一番愛している俺に、全てを奪う権利はある!」
「やめて!」
ヴァージンの、叫びに近い声も空しくウッドソンはアルデモードに向けて勢いよくスタートした。そして、立ち竦むアルデモードに向けて右足を高く上げる。サッカーのプロリーグでフォワードのポジションを務めるアルデモードも、職業柄反射的に右足を蹴り上げようとするが、足のスピードはウッドソンの方が少しだけ速い。
「ぐっ……!」
めり込むような音とともに、ウッドソンの右足がアルデモードの腹に食い込み、アルデモードは体を前屈みにして一歩、二歩と後ろへ下がっていった。だが、よろけるアルデモードに、ウッドソンの次のジャンプが迫る。
「だはっ……!」
ライバルとの真剣勝負を繰り広げるように、アルデモードという名のハードルを黙々と蹴り上げるウッドソン。対するアルデモードは、痛みの中で目をウッドソンに向け、時折ボールを蹴るような仕草を見せるが、その動きがほとんど止まっているようだ。急襲に近い形で、勝負はついているようにヴァージンには見えた。
それでも、よろけながらウッドソンに背を向けるアルデモードは、顔だけをウッドソンに向け、ついに「行動に出た」彼を睨み付けた。しかし、それがウッドソンには隙と映った。
「とどめだ!邪魔者め!」
ウッドソンはUターンして一気にスピードを上げた。そして、背を向けたままのアルデモードの背中に命中するように高くジャンプし、力強く蹴り上げた。
瞬間、何かが終わりを告げるような重苦しい音が、アルデモードの背中から聞こえてきた。
「やめてえええええっ!」
目に涙をいっぱいに浮かべたヴァージンの悲痛な叫びだけが、その場で一番長く続いた音だった。
その叫びにかき消されるように、アルデモードは顔から地面に叩きつけられ、ウッドソンが突然我に返ったように倒れたアルデモードを揺すっていた。アルデモードは、苦しそうな表情を浮かべ、右手で背中を何度も押さえているが、自力で立つことができなかった。
「何をやってるの……ですか……、ウッドソンさん……!」
ヴァージンの重苦しい声に、ウッドソンは何一つ答えることができなかった。
やがて、救急車と警察がほぼ同時に現場に駆けつけ、その場でうずくまったままのアルデモードをオメガ中央病院に連れて行き、その場に残されたヴァージンとウッドソンは当時の状況を詳しく尋ねられた。程なくして、ウッドソンの傷害容疑が固まり、ウッドソンは警察の車に連れられた。
そして、全てがいなくなり、ただ暗闇だけがヴァージンを包み込んだ。
(どうしよう……。やっぱり、私が支えを求めすぎたせいで、こんなことになって……)
誕生日。昼間グラティシモから誕生日ケーキをもらったこと、そして最近にしては好タイムを出せたこと。それらの記憶がもう何日も前の出来事であるかのように、ワンルームマンションに戻ったヴァージンの記憶は、空っぽになっていた。何か考えようとしても、呆然としてしまいそうだった。
だが、それは再びテレビのお笑い番組放送中に、速報で出てしまうのだった。
――サッカー・ミラーニのアルデモード選手、イーストブリッジ大学の学生に蹴られ、骨折。今季絶望。
「アルデモードさん……」
その場にいたからこそ、ヴァージンはその時の惨状を知っていた。明らかにアルデモードの背骨に食い込むように、ウッドソンの足がアルデモードを叩きつけていた。血でも出てくるかのような痛みが、その時アルデモードを襲っていたように見えた。第三者が見てもそうなのだから、本人はとてもサッカーどころではない状態になっているのは、当然のことだった。
ヴァージンは、再び目に涙を浮かべた。何かを言おうとしても、もうヴァージンの声は枯れていた。そして、決してレースでは武器にしないはずの右手でベッドを強く叩きつけた。
翌日、水曜日でもないのにイーストブリッジ大学陸上部の全体ミーティングが招集された。場所も、普段使用している129教室ではなく、夕方人の少なくなった大学の学食の一番奥。それでも、事態が事態だけに、普段のミーティングよりもはるかに多い人数の部員が集まっていた。
そこで、メリアムから最初に伝えられた言葉は、誰もが予感していたものだった。
「イーストブリッジ大学陸上部は、今日、大学から部活動の公認を取り消されました。たった一人の部員の、スポーツマンシップに明らかに反する行為を、止めることができなかった。それが理由です」
涙ぐむメリアムは、そこまで言うとその場で泣きながらうずくまった。ヴァージンは、その言葉に首を縦に振るしかなかった。そして、うずくまるメリアムに声を掛けることはできなかった。
(陸上部は取りつぶされた……。記録会すら、もう出ることができない……)
大学主導で、陸上部のグラウンドは他の運動部に割り振られ、用具類は他の大学の陸上部に売り払われた。その最後の荷物が、数ヵ月だけ慣れ親しんだグラウンドを出て行くとき、ヴァージンはかすかに涙を浮かべた。
(私は、この先どうすれば……)
アメジスタの債務返済の目処は立たない。ヴァージンの支えになるはずだったお金は、ウッドソンの裁判費用とアルデモードの治療費に消えた。ヴァージンの目標にしていたはずのレースも、陸上部の消滅により記録会すらその望みがなくなった。陸上部員たちが大学非公認で陸上愛好サークルを作るかも知れないが、事実上当事者の一人になってしまったヴァージンがそこに受け入れられるはずもなかった。
全ての光が、ヴァージンの目の前から消えてしまいそうだった。