第22話 一つ、また一つと消える光(3)
その日、ヴァージンは全体ミーティングが終わるとすぐに教室を出た。普段ならその後部員たちで集まって飲むことが多いが、この日のヴァージンは、とてもそれどころではなかった。
ウッドソンがその後を追ってくるのが分かると、ヴァージンは後ろを振り返り立ち止まった。
「どこ行くんだよ、グランフィールド」
「すいません……。なんか、ウッドソンさんにも迷惑かけてしまって……。もう謝るしか……」
すると、ウッドソンは首を左右に何度も振り、それは違う、と言葉を遮り、さらに言葉を続けた。
「まだ、どこまで深刻な話なのか分かっていない人が多いだけだよ。続けたいのに続けられない、ということがどれだけ苦しいことなのか、グランフィールドのようにそれで生活している人にしか分からないのかも知れない」
「たしかに……、陸上部とは言っても、その中には温度差がありますね……」
ヴァージンはため息をつく。そのため息の音が消えると同時に、ウッドソンはヴァージンの肩を叩いた。
「まぁ、温度差と言うか……、やっぱりグランフィールドが結果を残したら何も言わなくなるんじゃないかな」
「たしかに……。この前のインカレのときには、期待を裏切られたとか言ってましたね……」
「だからさ、見返してやりゃいいじゃん。今は大会に出ることが厳しいけれど、イーストブリッジ大学の記録会は部員なら誰でも出られるわけだから、そこで最高の走りを見せてやればいい」
「記録会……!たしかに、記録会で走ることはできますね……」
ヴァージンは思わず息を飲み込んで、手を叩いた。ここ数日感じていた、居場所を失ったような喪失感が、ショック故のただの思い込みであることを、この時ヴァージンは気が付いた。
「ウッドソンさん、女子の長距離種目のある記録会は、次いつですか?」
「3月ぐらいかな……。インドアシーズンになってしまうから、長距離組はマラソン大会に出てしまうことも多いから、冬の時期に記録会では出てこないんだ……」
「そうですか。でも、3月という目標があるなら、私は今まで通り頑張れます!」
ヴァージンがそう言うと、ウッドソンは突然ヴァージンの手を引っ張り、階段を駆け上がった。そして、人がいなそうな踊り場で止まると、壁際に立ったヴァージンの両肩を塞ぐように、両手の手のひらを壁に叩きつけた。
「……な、何をするんですか、ウッドソンさん!」
「俺は、グランフィールドのことを一秒たりとも見捨てることはできない。1年が終わった後、グランフィールドを路頭に迷わせるわけにはいかないんだ……」
ウッドソンは、これまで一度もヴァージンに対して見せたことない笑顔を浮かべてヴァージンを見つめていた。ウッドソンの顔との距離は変わらないのに、目だけが徐々にヴァージンに近づいてくるように彼女は思えた。
「だからグランフィールドを、俺一人の力で今まで通りの生活ができるようにしてあげるよ!」
「今まで通りの生活……。それ、本当ですか?」
「俺が嘘をつくわけないだろ。食べて、寝て、学んで、そして大会で記録を残す。グランフィールドの日常の全てを俺自身がサポートしてやるっていうことだ。そのために、俺は今まで以上に本気でバイトする。勿論、アメジスタが元通りに戻ったとしても、俺は君をずっとずっと支えるよ」
「ありがとうございます……。でも、ウッドソンさんの生活を犠牲にしてまで……」
ヴァージンは、体を軽く震わせながらウッドソンを見つめた。目の前のウッドソンの微笑みは、時間が経つにつれて甘いマスクがよりとろけてくるように、ヴァージンには思えた。
「そんなことないよ。俺は、グランフィールドを愛しているんだからさ」
すると、ウッドソンは後ろのポケットから財布を取り出し、財布ごとヴァージンに手渡す。
「ウッドソンさんの財布、そのまま頂いていいんですか?」
「大丈夫。俺の財布ならもう一つあるし、何より、預金口座を封鎖されればこうするしか方法がないじゃんか」
「そんな……。人から借りるって、後で必ず、お返ししなきゃいけなくなるじゃないですか……」
「いやいや、グランフィールドに余裕ができたら返してくれていいよ。それに、この後俺が何度もそうするんだから、これくらいで気にしていたら気を重くしちゃうって」
ヴァージンにとってお金を借りるのは、アメジスタを出るとき以来、これで2度目になる。ヴァージンは、財布を受け取ろうとする手の動きを一時停止するも、最後は思い切ってウッドソンから財布というバトンを取った。
「本当に、ありがとうございます!」
ヴァージンがそう言うと、ウッドソンはもう一度にこりと笑い、壁からゆっくりと手を離した。二人の未来を、踊り場を照らす夜の電球が、祝うかのように見つめていた。
(207リア……)
ワンルームマンションに戻って、ヴァージンはウッドソンから手渡された財布をようやく開いた。中は紙幣だけだったが、ヴァージンはその紙幣を一枚一枚取り出してお金を数えた。アメジスタの背負った債務の額から見ればあまりにも小さな額だったが、ヴァージンは150リアを超えたあたりで「よしっ」と小さく呟くほどだった。ウッドソンから次の支えがいつになるか分からないが、当面の危機はこれで回避できそうだ。
そのことをガルディエールに報告すると、意外かも知れないがガルディエールは穏やかに対応した。
「確かに、もらったお金だから返さなきゃいけないけど、全部合わせても将来の君なら軽く返せる額だよ」
「そうですね……。あと、その次が入れば、インドアシーズンは無理かも知れませんけど、春のアウトドアシーズンになったらまた普通のレースとか出られると思います」
「賞金はなくても、頑張れるな!」
「はい。やっぱり、走り続けなければ、どんどん力が落ちていきますから!」
ヴァージンは、電話で話しているにもかかわらず徐々にトーンを上げてガルディエールに話し、その言葉を言い終えた瞬間に、思わず口をスッと通話口から離した。
「さすが、世界にその名と記録を轟かせる、トップアスリート。言うことが違う!」
「ありがとうございます」
ガルディエールの言葉に、ヴァージンは小さく笑った。そして、ガルディエールから次回の大会を考えるという前向きな言葉を受け、ヴァージンは電話を切った。
(最悪の事態は、徐々に脱しつつあるのかも知れない……)
翌日には、何日か通うことのなかったアカデミーにもようやく姿を見せた。マゼラウスに経緯を話そうとすると、マゼラウスも状況を分かっているようでその話は遮られ、すぐにインカレでケガをした膝の様子なり、次の大会での目標なりをマゼラウスは尋ねた。アカデミーでの日常的な会話も、ほんの数日接していなかったヴァージンにとっては久しぶりに大きくうなずく瞬間となった。
「だったら、今日はいきなり本番の距離を走るのはやめよう。長くても1000mぐらいの距離を本気走りだ」
「はい、コーチ!」
「私は、早くヴァージンが下降線から脱出する時を待っているからな。たとえ、アメジスタやお前自身に何があろうとも、ここに来たら今まで通り真剣にやるときは真剣にやる。いいな」
「分かりました」
インカレ前にはラップ70秒での走りがほとんどできなくなっていたヴァージンは、数日間トレーニングしていなかった分だけさらに遅くなっていた。だが、そのスランプからもほんの数日で這い上がり、インカレから2週間が経つ頃には「ラップ70秒」からの「ラスト1000mの小刻みのタイムトライアル」を確実にこなすようになっていた。トレーニングで、5000mが14分30秒を切れなかった日はほとんどなく、10秒台が何度も出るようになっていた。
「そのタイムでメリアムが引退した記録会に出場すれば、間違いなく他の部員なんて2周遅れにできる!」
「私も、それはできると思います。次回の記録会では、絶対全員2周遅れにしてみたいですね」
「そうだな、それが次回の記録会の最大の目標にしよう!」
その日の夜、アカデミーから戻ったヴァージンはメールを開いた。あのニュースが流れてからヴァージンを心配するファンからのメールが何通も届いていたが、その中に混じって見覚えのある差出人がいることに気付いた。
(来た……、やっとメールが来た……)
差出人は、フェリシオ・アルデモード。サッカー・ミラーニのフォワードで活躍する姿を昨年の年末にヴァージンは見たが、それ以来ほとんどメールや手紙がなく、ヴァージンはずっと気にかけていたのだった。今の国籍は違えど、同じアメジスタ出身として誰よりもヴァージン自身の「痛み」を分かってくれるはずの存在だ。
そう思いを巡らせながら、ヴァージンは一呼吸置いてアルデモードからのメールを開いた。