第3話 たった一度きりの世界への挑戦(3)
「ここがトレーニングルーム」
「すごい……」
エレベーターを3階で降りて、左に進むとガラス張りの扉があった。それを開けたヴァージンは、思わず左手で自分の口を押えた。その名を聞いただけでも震え上がった、エアロバイクやランニングマシンなどが、輝く床の上に堂々と置かれている光景に、ヴァージンは何度も息を飲み込んだ。
「これ、大会が終わる日まで、私たちが自由に使っていいらしいから。グランフィールドも、こんなチャンスだから私より使っちゃっていいわよ」
シェターラは、そう言いながらダークブルーのウェアを輝く電球に光らせながら、大股でランニングマシンに向かおうとした。しかし、すぐ後ろで湧き上がったヴァージンの声に思わず足の動きを止めた。
「あの……、どうやって使えば……いいんですか」
「もしかして、アメジスタにはないの」
「ありません……。こんな立派な機械なんて、アメジスタじゅう探しても……たぶん」
ヴァージンは、言っているうちに次第に下を向いた。使い方が分からないこと自体、そうだと言っているにも関わらず、ヴァージンの表情は時計が秒を打つごとに青くなっていった。
「そう。でも、生まれた場所がどこかなんて関係ないし、使い方なんて今から分かればさ、グランフィールドもきっと私たちに近づけると思う」
そう言うと、シェターラはヴァージンを手招いて、一番窓際にあったランニングマシンの上にヴァージンを立たせた。
「ここに、タッチパネルがあるでしょ。上とか下とかのボタンを押すと、スピードを変えられるから、グランフィールドが走りやすい速さに合わせる」
「……ということは、その速さでこの床が動くってことですか」
「そう。……あ、そういう感じでスピードを変えていくの」
ヴァージンは、やや不慣れな手つきで上下のカーソルボタンを一回一回押していく。一度押しては離していくので、スピードはなかなか変わらなかったが、ずっと押し続けることをすぐに覚えたヴァージンは一気に時速18kmほどまで上げていった。
「……ちょっと待って。5000mの自己ベスト、15分台って言ったけど……、まさか今すぐそのスピードで走るの?」
「スピードを……知りたいの。この機械の」
「ついて行けなくなったら、後ろから落とされるって。最初からそんなスピードじゃないほうがいい」
シェターラは、思わずヴァージンの右腕を引っ張ろうとしたが、ヴァージンは軽くシェターラのほうに顔を向けて首を横に振った。
「時速18kmなんて、たぶん今の私にはウォーミングアップだと思うの」
「最初から16分40秒のスピードで走るの……?」
「もちろん。というか、もうちょっと速くしていい?」
シェターラは、ヴァージンに聞こえるか聞こえないかの声で、ぼそりと呟いた。
「……グランフィールド、今までスピード意識しないで練習しすぎかも」
そう言って、シェターラは思わず目をつぶって、首を左右に振った。彼女の目に映るヴァージンの姿が、次第に大きくなっていくことを感じずにはいられなかった。最初から余裕を見せる、ランニングマシン初体験の小さなアスリートに、限界はないのかも知れないという空気さえ、トレーニングルームに漂っていた。
最終的に、19.2km/hまでスピードを上げたヴァージンは、そこでスタートボタンを押した。
(これ、なんか本物……!)
今まで物を言わなかった黒いベルトが、ヴァージンの体を後ろに動かそうと徐々に回転を増していく。最初は様子見で手すりにつかまりながら動きを感じようとしていたヴァージンも、数秒のうちに左足を力強く前に出していた。
けたたましい加速音とともに、ヴァージンの地面を蹴る音も大きくなり、やがて加速が止まった時、ヴァージンの体は夢中になってベルトの上を軽く舞っていた。これくらいのペースで普段から5000mの序盤を軽く流している彼女にとって、その足で踏んでいる場所は全く違っていても、普段の走っているスピードを感じていた。
(これでもう少し速いスパートをかけるくらいが、普段の私になるのね)
ヴァージンは、軽く息継ぎをしながら振り返ることなく、その横にいるであろうシェターラに声をかけた。
「走りながら……速く……できるの……はっ……」
(ヴァージン・グランフィールド……)
その瞬間、シェターラの目に映ったのは、全身をピンと伸ばして、両足を力強く前に出し、腕を両足の動きに合わせて前後に激しく動かしているヴァージンの姿だった。
(強い……)
その場から離れることなく、勝負に挑むスピードで走る姿を、これまで誰も見るはずもなかったヴァージン。誰一人としてはっきりと見ることがなかった彼女のランニングフォームは、完璧というまでに鍛えられていた。真後ろで見るシェターラにとって、それはヴァージンが天性の才能を備えているようにさえ映った。
(名前も……今日まで知らなかった……、完璧な長距離アスリート)
シェターラは、思わず胸が熱くなった。その姿で走る人間が世界一貧しいアメジスタにいるということ、そしてその姿が未だアスリートの国際大会での活躍を知らないアメジスタに、何かしらの名誉を残すということを。
無反応のシェターラを尻目に、ヴァージンは5秒も連続して加速のパネルをタッチし続けた。ヴァージンは眉を細め、一度だけ首を横に振る。そして、これまでよりもはるかに動きが増した黒いベルトに、何とか食らいつこうと自分に鞭を打った。
(これが、私の出せる力!)
気が付くと、ヴァージンの両足の動きは、ハイスピードで彼女を落とそうとするベルトにぴったりと合っていた。これまでよりも息を粗く吐き出すなど、少し苦しそうな表情に変わったヴァージンであったが、このスピードでも不可能を言わない自分の体に、思わず首を縦に振った。
1分と少し、時間が経つ。ヴァージンは、何度も息を吐き出しながらベルトとの勝負に挑み続けた。そして、ついに左足のリズムがベルトに後れを取った。
「あっ!」
瞬時に、右足も少しだけ後ろに弾き飛ばされ、次の瞬間にはヴァージンの全身がランニングマシンから遠く引き離され、猛威を振るうスピードからふるい落とされた。
「グランフィールド!無理しすぎだよ!」
足にかかる力を一気に失ったことを知ったヴァージンは、咄嗟に体の向きを後ろに回し、ゆっくりとスピードを落としながらトレーニングルームの入口まで走り続けた。そして、入口の扉の前で歩き始めて、荒くなった呼吸を整えて、部屋に漂う空気を吸い込みながらシェターラの前まで戻ってきた。
「シェターラさん、私……もう少し速く走れたような気がする」
「……グランフィールド、本気でそれ言ってるの?」
「だって……、だいたい15分ぐらい走ったでしょ。まだ、力余ってるし……」
「力余ってるって……言っても、いま28.3km/hで走ってた!あれだけ走って、まだ100mを……12.7秒のスピードで走って……、それでまだ、大丈夫って言うの」
「……たぶん」
そう言っているうちに、ヴァージンの力尽きた足からは早くも疲れが取れていた。前に学校の陸上部で5000mを10分のインターバルで走り、2回目の方が断然速いタイムを出したことのあるヴァージンにとって、もう一度走ることは何の苦でもなかった。
右手で左手の指を軽く掴んだその時、彼女の目の前でシェターラが少し目を細めてうつむいた。
「……グランフィールド、ごめん」
「どうしたんですか、シェターラ……さん」
「いま、あなたに対する見方が180度変わった。……それが偶然であると信じたいけど」
「えっ……」
完全に凍りついた表情を見せるシェターラの姿に、ヴァージンも思わず手の動きを止めて、腕をだらんと落とした。
「シェターラさん……。どうしたんですか」
「たぶん、グランフィールドはトップアスリートに……なれると思う。走ってるのを後ろから見てて、腕とか足の動きが有名選手のパフォーマンスビデオを見ているように完璧で、そして何より強さすら感じたから」
「……うそ」
ヴァージンは、その場で息を飲み込んだ。見つめていたはずのシェターラの顔が、思わず出てきた熱い涙に濡らされて、次第に遠くなっていくように感じた。
「だから、私は……今まで眼中にもなかったはずの、アメジスタの選手に……、来週のジュニア大会で絶対に勝ってやると思った」
「シェターラさん。それは、私も同じ!……うっ!」
「どうしたの!」
ヴァージンは、思わず輝く床に泣き崩れた。心配そうに見つめるシェターラの顔が、少しずつ近づいてくることを感じたヴァージンは、涙でぐっしょりと濡れた顔を軽く持ち上げた。
「シェターラさん……。言われて嬉しいような気がするんだけど……」
「けど……」
「いくらそう言われたところで、私には……一度しかチャンスがないの!みんなから、アスリートなんか諦めろって……言われてるのを蹴って、一度だけって言ってアメジスタを出てきたの」
「そんな……」
シェターラも、その運命を背負う一人の少女の姿に、涙を浮かべ始めた。
「だから、このジュニア大会で、私は負けるわけにはいかないの!……うっ」
「ヴァージン・グランフィールド……、そういうアスリートなんだ……。かわいそう……」
「うん……、ちょっと言い過ぎたかもしれないけど」
「いいのいいの。そんな重い約束があるんだったら、絶対にアスリートになりなさいよ!……こんな素晴らしいヴァージンの姿を見て、ヴァージンとたった一回しか勝負できないなんて、私だって嫌だし!」
気が付くと、シェターラも涙を浮かべ、シェターラの額から落ちた涙がヴァージンに光のシャワーを浴びせていた。
「ヴァージン。本番、絶対に今より本気で走って。私も、本気出すから!」
「ありがとう」
「そう言えば、シェターラさん。なんか、今日のトレーニングで仲良くなれたと思います」
「急にかしこまって、どうしたの」
夜は、シェターラのおごりで仔牛の料理をごちそうになったヴァージンは、二つ並んだ同じプレートを挟んで笑顔を浮かべていた。
「だって、アスリートは勝負の時以外友達だって、間違ってないんだなと思って……」
「そうね……。いつの間にかヴァージンを名前で呼んでたし」
「ははっ……。まぁ、今日は本当にありがとう」
「いいえ……。私、本当にヴァージンとずっと勝負したいからね。指切り」
「えっ……」
右の人差し指を重ねる二人の体に、この上なく熱い熱がこもっていた。それはたとえ離れていたとしてもしっかりとつながっている、二人のこれからの運命を結びつける糸だった。