第22話 一つ、また一つと消える光(1)
オメガインカレを途中棄権してしまった夜、ヴァージンは打ち上げに参加せず、一人ワンルームマンションへと戻っていった。リングフォレストから、誰にも見られないように首を垂れ、小さい歩幅で下を向きながら歩く。
(最低だ……。陸上選手として一番やってはいけない負け方を……)
部屋に入り、トレーニングウェアを脱ぐと、ヴァージンはベッドの上に座り、顔を両手で覆った。
(どうして、私はあんなことやっちゃったんだろう……。……走らなきゃいけなかったのに、どうして……)
覆い隠された顔から、すぐに涙が溢れだした。その涙が膝に落ちても、ヴァージンは何も感じることなく、ひたすら涙を浮かべた。一度手を顔から離し、涙で手もぐしょぐしょになっているのを見たが、それでも彼女は再び顔に手を当て、泣いた。
(悔しい……。ずっと悩んでいたことで、自分の力が出せなかったのが悔しい……!)
その時、涙声を遮るようにして、ヴァージンの耳に電話の着信音が鳴り響いた。最初はむせび泣く声で着信音とは分からず、鳴り出して数秒後にヴァージンはモニタに映る発信者の名前をようやく確認した。
そこには、ガルディエールの名前が映し出されていた。
(こんな時に、ガルディエールさんから……。今日の気の迷いは、ガルディエールさんの言葉からなのに……)
ヴァージンは、電話を取ろうとして数秒思いとどまり、自ら着信拒否のボタンを押した。とても、今まともに代理人と話せるような状況ではなかった。たとえそれが、未だにヴァージンの耳には正確に伝わっていない、彼女自身の「未来」であったとしても。
(寝るしかない……。こんな最低の日は、早く忘れたい……。いつまでも覚えていたくない……)
ヴァージンは、部屋の電気を消し、ベッドに潜り込んだ。幸いにしてガルディエールからそれ以上電話はかかってこなかったが、それでもヴァージンは寝付くことができなかった。
その夜の夢は、ヴァージンが小さい頃に経験した、アメジスタの生活だった。世界一貧しい国と呼ばれている中で、自然が多く残り、その中を突き進むように駆け抜けていったこと。街で建物の間に入り込んで、それでも何とか行きようとしている人々の姿を見たこと。それらがみな、ヴァージンにとって思い出になっていった。
もう、そのような光景が戻ってこないかも知れないけれど。
翌朝、ヴァージンは朝の光を感じて朝6時前に目を覚まし、電話を取った。そして、昨日電話を切ってしまったガルディエールに、何の迷いもなく電話をかけた。
ガルディエールはすぐに出た。だが、その声は寝起きの声ではなく、明らかに寝不足を訴えている声だった。
「おはようございます、ガルディエールさん。昨日は電話を切ってしまって、すいませんでした……」
「心配したよ、本当に……。インカレ優勝がかかるところで途中倒れたし、私の電話も出てくれなかったし」
「本当にすいません……。自分の体調管理がうまくできなかったのは、自分が悪いんですから……」
ヴァージンは、電話を持ったまま軽く頭を下げた。だが、ガルディエールは言葉を被せながら、すぐに言った。
「いや、心配の種を作ってしまったのは私も悪い。君があのニュースを見ていなかったら、私も君にそこまで言わなかったのかも知れないけど、見てしまったからつい、不安になることを言ってしまった」
そう言うと、ガルディエールは電話の向こう側で軽く息をついて、やや低い声に変わって次の言葉を言った。
「ただ、君がそこまで気にしてしまった以上は、今ここで言わないといけないな。私の掴んだ、真実をね……」
(まさか……)
ヴァージンは、思わず息を飲み込んだ。本来昨日の夜に聞かなければならない話が、いま告げられる。
「君の持っている預金口座は、昨日全て封鎖され、オメガ国がアメジスタに対して持っていた6000万リアの債務の返済に充てられる。君がせっかく作った基金『アメジスタ・ドリーム』だって同じ扱いになる」
「えっ……。それって、今まで私がレースで獲得した賞金とか、スポンサーからの契約料とかもですか?」
ヴァージンは、あまりに急速な展開に思わず言葉を詰まらせ、尋ねた。だが、電話の向こうでヴァージンが尋ねてきたあらゆるものに対して、それを否定しようとするような声が出てこなかった。
「勿論、全部君の預金口座に入っているなら、それも全部取り上げられる」
「そうですか……。でも、入ってすぐに口座から引き出せば、お金は取り上げられないと思います……」
「残念ながら、それもできないようだ……。君の口座に入ってくるお金は、契約料だろうが賞金だろうが、君の所に入る額が全部オメガ国に取り上げられてしまう。分かりやすく言えば、もらったお金が1リアも残らない」
「それ……、いつまでですか……?」
その力強い足で世界のライバルに打ち勝ってきたヴァージンの足が、電話を持ったまま竦んでいた。そして、ヴァージンの目にはあの時と同じように、ぼんやりとした白い世界がかすかに浮かんでいるように見えた。
「アメジスタがオメガに債務を返しきるまで。具体的にいつまでかは決まっていない……。それどころか、今日私のところに、ウォーターサプリから君に対するスポンサー契約を打ち切ると通告があった」
「契約料もらっていたところなのに……」
ウォーターサプリからは、飲料の他に年30万リアの契約料をもらっており、ヴァージンにとっては大会での賞金を除けば大きな収入の一つであった。それだけに、契約打ち切りはあまりにも大きな痛手だった。
「私は懸命に残って欲しいと言ったけど、払った契約料がオメガ国に回ってしまうし、そもそもアメジスタそのものじゃなく一人のアスリートに契約料が入るということに、向こうから反対の声が強く上がったらしい」
「そうですか……。そうなると、私ほとんど収入がなくなって……、生活もできなくなってしまいます……」
「生活もそうだけど、君が大会に申し込むこともできなくなってしまう……。私が君を参加費なしで出して欲しいと言っても、出場して5000mや10000mを走るのは相当難しいことだ……」
大会に関しては、来シーズンの申し込みを一切しておらず、ヴァージンが手持ちのお金をあまり持たないため、当面エントリーは難しくなる。イーストブリッジ大学に関しては、1年分の学費は払っているため1年生のうちは今まで通り大学に通えるが、それ以上はまず学費を払うことができなくなる。セントリック・アカデミーに関しては、ガルディエールの働きかけで本人がやめると言うまでヴァージンは残れるとのことだった。
結果、トレーニングはできたとしても、出られる大会はなく、アメジスタの抱えた債務を返済するまでギリギリの生活をやりくりするしかない状況になってしまう。
ガルディエールの言葉が終わると、ヴァージンは昨夜のように涙を顔いっぱいに浮かべた。
「私、陸上選手なのに、何一つ大会に出られないかも知れない……」
「残念だけど、最悪そういうことになってしまう。でも、落ち込まないほうがいい。いつかまた、出られる日が来ると信じて、トレーニングに打ち込めばいいじゃない」
「そうは言っても、私は何に合わせて、トレーニングすればいいんですか……」
「そうだな……」
ガルディエールは、そこまで言って言葉を詰まらせてしまった。大会でタイムを叩き出すために日々トレーニングをしているにもかかわらず、その目標がない状態、いつ出られるか分からない状態の中でこれまで通りトレーニングしなければならないということだった。
「私はこれから、どうすればいいのですか……。ガルディエールさん……」
「それでも、君は走らなければ、世界記録だってウォーレットやメリアムに追いつかれてしまう……。どんなに落ち込んでいてもトレーニングはしないといけない……」
「はい……」
ヴァージンは重苦しく言葉を返した。すると、すぐにガルディエールは言葉を続けた。
「あとは、気分転換として本気で大学生を来年の夏まで続けてみたらどうかな。学費払ったんだし、せっかくだからいろいろなことを学んできた方がいい」
「大学……ですか。大会に出にくい代わりに、履修している科目は、何とか合格できるように頑張ります」
「そうでなきゃ。で、トレーニングは空いた時間を使ってアカデミーですればいい。時間が経てば、また状況は変わってくると思うよ」
ガルディエールは、最後に頑張れと言って電話を切った。相当長い電話になってしまい、月曜日に朝から行かなければならなかったアカデミーに通う時間はほとんどなかった。
(今日は、少し今後の自分を考える時間にしよう……)
ヴァージンは大学に行く準備をし、滅多に着ないカジュアルな服を着て大学へと向かった。