第21話 祖国アメジスタは滅んだ(5)
オメガ国、リングフォレスト。かつてヴァージンが世界に初めて挑み、その後も数々のレースを繰り広げてきたその場所が、この年のオメガインカレの舞台だった。
「おはようございます」
普段のように、集合時間より早めに会場に到着し着替えを済ますと、ヴァージンはイーストブリッジ大学陸上部のメンバーが集まっているところに向かった。そこには既に主将のメリアムやハードルで代表に選ばれているウッドソンをはじめ、数多くの部員がいた。
「おはよう、グランフィールド。体調はどうだい?」
ヴァージンはウッドソンにそう言われて、思わず息を飲み込んだ。そしてすぐに少しだけ顔を横に振り、自分の両手で頬を叩いた。
「元気です。今日もいい記録出せそうです」
「それはよかった。インカレはある意味大学対抗戦だから、君には本当に期待している。絶対、8点を取って戻ってきてよ」
「はい!」
ヴァージンは、もう一度顔を横に振り、その後大きくうなずいた。その場で鏡を見ることはしなかったが、レース前に珍しくそのようなことを言われたということも、今のヴァージンには気になって仕方がなかった。
オメガインカレは個人でのレースという側面の他、大学対抗戦という要素も兼ね備えている。短距離、中距離、長距離、跳躍、投擲とマラソン以外の全ての陸上競技が行われ、各種目で決勝での順位が1位の選手がいる大学に8点、2位には7点、以下1点ずつポイントが下がり8位には1点が加算される。そして全ての競技が終わった段階で、総合獲得ポイントの高い大学が優勝となる。他にトラック部門、フィールド部門での優勝大学も表彰されるわけだが、ここでの優勝を目指して各大学とも勝負に挑むのである。
今回、イーストブリッジ大学の女子5000mにヴァージンが出ると分かったときから、各大学ともそこに実力のある部員を出場させている。だが、どの選手もベストタイムが15分台。ヴァージンの持つ記録には到底及ばないため、部員の誰もが女子5000mでヴァージンが8点を取るのは間違いないと思っていた。
もちろん、ヴァージン自身も……。
数多くの競技が行われている間も、ヴァージンは何度もサブトラックでトレーニングを重ねる。だが、自分の中で築き上げきた練習メニューの一つ一つが終わるたびに、ヴァージンは脳裏にどこかぼんやりとするものを思い浮かべていたのだった。
(今日のレースが終わったら、私はどうなるんだろう……)
レース前にあらゆる心配をしてはいけないと分かっているはずなのに、ヴァージンは事あるたびに明日の自分のことを考えていたのだった。あの時、ハイドル教授や代理人ガルディエールに告げられたことの意味が、まだ何なのかはっきりと分からない。
(そんなこと考えちゃいけない……。私は、常にベストの状態でスタートラインに立ちたいのに……)
女子5000mは、夕方、ラスト3競技となったところで行われる。それでも、時間だけが迫ってくる。今のモチベーションを立て直す時間は限られていた。
「あれ?」
その時、サブトラックにメリアムが近づいてくるのをヴァージンはその目で見た。メリアムは今回のインカレに出場することができないのに、ウォーミングアップシャツの下に、明らかにレーシングトップスを付けているように見えた。
ヴァージンの表情に緊張が走る。その中で、メリアムは言った。
「体調どう?さっきから見てて、顔の表情がすっきりしていないように見えるけど……」
「大丈夫です」
ヴァージンは、首を横に振る。それでも、メリアムは少し首をかしげて言葉を返す。
「私が見間違えているだけかも知れないけど、今日のヴァージンは今までテレビとか陸上部で見たことがないくらい、何かすごく気負っているように見える。その時の調子はあると思うけど、レースに集中して」
「分かりました。ありがとうございます、メリアムさん」
メリアムがそう言って再び大学の席に戻っていくと、ヴァージンはほっと胸をなで下ろした。出場選手登録を済ませた後に、突然メリアムに交代されるかも知れないという恐怖が、少なくともメリアムの身なりからは見られたため、ここは譲るわけにはいかなかった。スタートを前にしてヴァージンが棄権したことは、今まで一度もないのだから。
(ドゥ・ノット・スタート、DNS。それだけは絶対に避けたい……)
ヴァージンは、両手の拳を握りしめ、両足の筋肉を何度か軽く叩いてみせた。
そして、時間は来た。
今や大学生ばかりか世界のあちこちにその名が知れ渡っているヴァージンがスタートラインに立つと、そこで大きな歓声が上がった。世界記録を持つ一人の大学生の走りを見ようと、競技を終えた他の種目の選手たちもカメラを構えているのが、トラックに立つヴァージンの目からもよく分かった。
(このメンバーで、私が負けるはずなんてない)
普段のように、合図があり、号砲が鳴る。ヴァージンの足が5000m先のゴールにその一歩を踏み出した。アメジスタのニュースを聞いてからほとんど出せなくなっていたラップ70秒の走りが、この本番の時に限ってできているようにヴァージンには思えた。懸命にヴァージンに食らいつくライバルもいるが、最初の1周でその大半が脱落し、3周を終えたところでヴァージンの耳にライバルの足音を感じなくなっていた。
(あとは、自分でどこまでタイムを伸ばせるか……)
ライバルをすぐにふるい落としたヴァージンだったが、普段と同じくそこで気を抜くことはしなかった。まだ距離はある。今年最後のレースとなる、このわずかな時間に全てを出し切ること、それがヴァージンのしなければならないことだった。
しかし、目の前からも背後からもライバルの姿を感じられなくなったその時、薄青のトラックが、徐々に色あせてくるのを、ヴァージンの目は感じた。
(何……、このレースに何が起こっているの……?)
目の前から白い光が差し、ヴァージンの目の前に薄くぼんやりとした世界を見せている。しかも、空から降り注ぐ光と違ってコーナーを回ってもつきまとってくる。ヴァージンは、一度首を横に振り、軽く目を閉じたが、その光は消えるどころか徐々に強くなってくる。
その光の先から、ヴァージンの耳に聞き覚えのある言葉が告げられる。
――私の未来が見えない中で……、見えない未来に向かって走り続けないといけない……。
それは、前日ヴァージン自身が見せてしまった、心の弱さだった。何度慰められても、現実は変えられない。これまで数多くの記録を打ち立ててきたヴァージンの力を持ってしても、変えられない現実。それが、いまヴァージンの目に映っている光に他ならなかった。
「……っ!」
ついに、数メートル先も見えなくなってしまった。その状況で、あと3000m以上の距離を走らなければ「この勝負の」ゴールは見えてこない。ヴァージンは、懸命に前に出ようとするが、徐々にそのペースが遅くなっていくのを、その足ではっきりと感じていた。
――私は、世界一貧しいアメジスタの全てを背負って、世界を相手に戦いたいんです!
その言葉で、アメジスタの危機を救うことはできなかった。
アメジスタが世界の全てに敗北し、貶され続ける時代が始まってしまった。
アメジスタの夢や希望は、ヴァージンの未来とともに、消えてしまう……。
ヴァージンの体から、全ての力が消えていく。苦しい。
ボロボロの状態で走ろうとしても、もう足を前に出すこともできない。
前屈みになり、トラックの上に力なく崩れ落ちていく。
悲鳴とも言える声を聞きながら、ヴァージンは膝に痛みを感じ、意識を失った。
仰向けにされてトラックの外に運ばれる、女子5000m世界記録保持者、ヴァージン・グランフィールド。その姿はもう、何もかもが別人のようだった。
「何やってるんだよ!」
膝ではない場所を蹴られたような痛みを感じ、そこでヴァージンが目覚めた。イーストブリッジ大学の陸上部のスペースにいるようだ。
「私……、ゴールして……」
ゴールした記憶が全くないヴァージンは、首を左右に振った。しかし、そこには数多くの部員が、鬼のような形相でヴァージンを見ていた。特に、2年のロックブレイクが時折ヴァージンの腕を蹴りながら、鋭い目で見つめている。それに歩調を合わせるように、他の上級生もヴァージンを睨み付ける。
「お前が途中棄権したせいで、うちの大学はあと3点で総合優勝できなかった!」
「世界記録持ってますとか、その面でよく言えるな!この期待外れの新入部員め!」
「……すいません」
謝るヴァージンの声は細々としており、他の部員にはかすかにしか聞こえなかった。
「すいませんで済まされないのが、勝負ってもんだろうが!」
その時、主将のメリアムがヴァージンを取り囲む輪に割って入り、ロックブレイクをじっと見つめた。
「全てがうまくいく人間なんていない。どんなに実力があっても、時にはこうなることもある」
(メリアムさん……、自分を管理できなかった私が悪いのに……)
メリアムの一言で、ロックブレイクたちは悔しい表情をあらわにしながらその場を立ち去る。だが、メリアムがヴァージンに顔の向きを変え、中腰になったとき、その表情は険しかった。
「グランフィールド、大丈夫?」
「大丈夫です……。意識の方は戻ってきました……」
「そこまで派手に転んでいないから、数日休めば体は治る。あとは、トップアスリートなんだから、自分で気持ちを早く切り替えて」
「はい……」
ヴァージンが小さくうなずくと、メリアムは再びヴァージンに背を向けた。
「本当に心配しているから。レース中に気の迷いを起こしたんじゃないかって……」
ヴァージンは、言葉を返すことができなかった。遠くに去って行くメリアムが、出場していないのにより実力があるように思えて仕方がなかった。
(私は……、一番やってはいけないことを……やってしまった……)