第21話 祖国アメジスタは滅んだ(4)
(本当に、アメジスタはデフォルトになってしまった……)
ハイドル教授と別れてすぐ、ヴァージンは大学のパソコン室へと向かった。普段なら、1限と3限の間に時間があるため自主トレをする彼女も、この日だけは裏門へと向かうつもりはなかった。真っ先にニュースサイトをのぞき込み、男子学生たちの話していたことが本物のニュースであることを思い知った。
ヴァージンは、しばらく黙ってニュースのタイトルを見返し、ついには声に出して読んだ。
「アメジスタ、債務不履行。財政破綻へ。次の支援は絶望的……」
1分ほど経って、ようやくニュースの本文へと移った。アメジスタが長い間相当の額の支援を受けており、その返済が毎回国民に負担を強いていたこと。6000万リアの債務を支払わなかったことによる今後のシナリオ。そしてアメジスタ国民の不満の声。短い記事の中にも、相当詳しく書かれていたが、その中身はほぼハイドル教授が話していた内容と同じものだった。
しかし、ヴァージンはそのニュースの一番下にあった「関連項目」の欄を見て、目を疑った。
(オメガ国、預金封鎖条項の適用を検討……)
漢字6文字で書かれていた、ヴァージンにとって初めて知る言葉に彼女は目を疑った。預金という言葉までは理解できたが、それを封鎖するということがどういうことか分からず、思わず検索した。
そこには、単純に預金を引き出せないようにすること、と書いてあった。広く言えば、預金を引き出せないようにするだけではなく、銀行に預けた預金を没収するというタイプの措置も含まれるとのことだった。
そして、その対象になるのは、お金を貸した国にある、お金を借りた国民の銀行口座だった。借金が返せなくなったことにより、お金を貸した国の銀行で管理されている口座から没収されるのだ。
(これ、もしかして……、私の銀行口座がその対象になってしまう……)
ヴァージンは、パソコンの前で完全に固まってしまった。今回アメジスタが返済できなかった6000万リアの借金は、オメガ国から借りていたものだ。つまり、預金封鎖対象になるのは、オメガ国にあるアメジスタ人の銀行口座ということになる。
(どうしよう……)
ヴァージンは、パソコン室から出て、真っ先に代理人のガルディエールに電話をかけた。
「もしもし……」
「そんな辛そうな声でどうしたんだい。明日、オメガインカレだろ?」
「はい……」
その言葉をガルディエールに告げられるまで、ヴァージンは明日何があるのかを心の中に思い浮かべることができなかった。普段力強いヴァージンの足は竦み、彼女は柱にもたれたままガルディエールに言葉を告げた。
「アメジスタがデフォルト……、そして私の銀行口座が預金封鎖になってしまうみたいです……」
「それは……」
ガルディエールは、その言葉を聞いた瞬間に声を裏返らせた。ヴァージンが声を聞く限り、アメジスタがデフォルトという事実までは知っていたようだが、その先に待ち受けるヴァージン自身の運命まで、代理人といえども把握していなかった様子だ。
「ガルディエールさん。私、よく分からないのです。銀行口座が預金封鎖されてしまうと、私はこの先どうなってしまうのかと……」
ヴァージンの声は、言葉を発するたびに低く、そして弱々しいものになっていった。ガルディエールは、しばらく電話の向こうで考える仕草をしている。言葉を何か言いかけようとするが、その度に言葉が出てこない。
「手段は……」
「手段って……。私の預金封鎖を止める手段……、ということですか……?」
「いや、そういう意味じゃない……。君を守るためにどうすればいいのか、私にも分からない……」
ガルディエールが明らかに焦っているように、ヴァージンの耳は感じた。これまでヴァージンの代理人になって2年以上、常に落ち着いて話していたガルディエールも、この難局だけはどうすることもできない様子だ。
ヴァージンも、この状況下で次に何と言っていいのか分からない。時間だけが過ぎ、ようやくガルディエールの重い口がゆっくりと開き、何とかいつも通りのトーンの言葉を連ねた。
「今の君に対しての答えは、一つしかない。走ることだけに、専念する。それしかない」
「走ること……。でも、それが答えなら、私の未来が見えない中で……、見えない未来に向かって走り続けないといけない……、ということになってしまいます……」
「ヴァージン・グランフィールド……。見ることのない記録を出し続けてきた君が……、そこまで言うのか……」
不安で仕方がなかった。双方共に、陸上界のたった一人のアメジスタ人の未来を不安がっていた。
「すいません……。この状況下で……、私はどうすればいいのか分からなくて……」
「気持ちは……、君の気持ちは十分伝わってくる。けれど、そこは私の仕事だ。未来に向かって走り続ける君の不安を取り除き、常にベストの状態に持っていくようにするのは、やっぱり代理人の私がやるべきことだ」
「ガルディエールさん……」
ついに、ガルディエールの声が素の落ち着きを取り戻した。一度は柱にもたれかかったヴァージンも、ここにきて柱から背を離して、ガルディエールの次の言葉を待っていた。
「君の銀行口座がどのようなことになっても、私は君を何とかサポートする。だから、トップアスリート、ヴァージン・グランフィールドはこんなところで立ち止まってはいけないんだ」
「分かりました……」
ヴァージンは、最後にガルディエールのかすかに笑う声を聞いて電話を切った。その時、ヴァージンの首は無意識のうちに横に振られていることを、ヴァージン自身が最も気が付かなかった。
霧で見えなくなったトラックが、この先のヴァージンを待ち受けている。その事実に変わりはなかった。ガルディエールの口から、具体的な言葉はなかったからだ。
(私だって立ち止まりたくない。けれど、このままだと立ち止まらなきゃいけない……)
ヴァージンは、結局大会前日だというのに一切のトレーニングをせず、普段の生活ではありえないほどの時間帯にワンルームマンションへと戻って、ベッドの上に座ってぼんやりと。ニュースを見れば、アメジスタのことを見てしまいそうなので、テレビを極力つけたくはなかったが、このままじっとしていても明日のレースのことを考えることができず、ヴァージンはたまらずテレビの電源をつける。幸いにして、ヴァージンが滅多に見ることのないお笑い番組をやっていた。
(なに、このオリエンタさんっていう人。くだらないことをおかしく言って、こんなに笑いが取れるなんて)
年齢的には50代らしいが、それでも笑いを取ることにひたむきに生きる姿が、テレビごしに感じられた。
しかし、ヴァージンの心を落ち着かせるよりも早く、テレビ画面の上部にニュース速報が流れた。
――オメガ政府、在オメガのアメジスタ人預金封鎖を決定。陸上のグランフィールド選手も対象に。
「……っ!」
ヴァージンは、その瞬間に目から涙があふれ出した。ヴァージンにとって、スポーツニュース以外で自分の名前を見ることも初めてだったが、それ以前にこのような形でニュース速報にされるという心の準備がなかった。(正式に……、私の預金封鎖が決まってしまった……。アメジスタ人というだけで……)
テレビの画面の中では、とうの昔にニュース速報が消えており、ヴァージンがテレビの画面に和んでいた頃と全く変わらない、お笑い芸人たちのショーが繰り広げられていた。それもヴァージンの涙声でかき消される。
だが、その涙声をも上回る音量で、電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。ガルディエールからだった。
「もしもし……」
「私だ……。ちょっと、大会を前に残念な話をしなければいけなくなりそうだ……」
「私の……、預金封鎖が……、正式に決まったことですか……」
「速報を見てしまったようだね……。私も残念だけど、こんな短時間で私が君を守ることはできなかった」
「ガルディエールさん……。私だって、こんなすぐに未来が決まってしまうなんて思いませんでした」
ヴァージンは、ガルディエールに見えるはずがないのに、首を横に振っていた。涙をはじき飛ばすように、ヴァージンは力一杯首を横に振った。
「そうだね……。ただ、その詳細は今の君に伝えない方がいい。少なくとも、明日レースが終わったら、それが今年最後のレースになるだろうから、僕の所に電話をかけてきて欲しい」
「その時に、ガルディエールさんが持っている、もっと詳しい話を聞かせてもらえるんですね」
「勿論だとも!……さっきも君に言ったけど、君は立ち止まっちゃいけないよ」
「はい……」
ヴァージンは、震えそうな声でガルディエールにそう答えた。そして、電話を切った。