第21話 祖国アメジスタは滅んだ(3)
金曜日、祖国アメジスタの債務返済期限。土曜日、ハイドル教授の講義。日曜日、オメガインカレ。
ヴァージンにとって、本番前の1週間はあまりにも重い1週間になっていた。普段なら、大会前はほぼレースのことだけに集中してきたヴァージンだったが、日が迫ってくるにしたがって夜電気を消してもベッドの上で目を閉じることができなくなってしまっていた。
(今日も、全然トレーニングがうまくいかなかった)
メリアムをはじめ、一般のレースで顔を合わせるライバルがオメガインカレに出ていないので、優勝するために必要なタイムはそれほど速くなくていい。コーチからも、ヴァージンにとって不本意とも言えるアドバイスを受けるほどだった。ほんの1ヵ月前はラップ70秒からの14分10秒を目指せていたその足は、そこからラップ1~2秒ほど遅くなるのが当たり前の状態になっていた。
(このままじゃないけないのに……)
ヴァージンは、トレーニング、そしてレースのことに頭を切り替えようとする。だが、すぐにアメジスタという自らが生まれ育った国の名前が思い浮かんでしまう。
(今の私にとって、アメジスタが借金を返すことが、何よりも力になるはずなのに……)
ヴァージンは、その時を待った。世界一貧しいとさせる国が、6000万リアの返済を終える瞬間を。
だが、それは遠く果てしない希望にすぎなかった。
水曜日が終わり、木曜日が終わり、金曜日が終わろうとしていた。それでも、吉報は来なかった。
全てのライバルたちは等しく、土曜日の朝を迎えた。このところ何日も寝不足の状態が続いていたヴァージンだったが、この日に限っては気が付くと8時間以上意識を失っていた。ふと朝の光に目を覚ませば、1限に出なければいけないギリギリの時間になっていた。
勿論、アメジスタがどうなったのかも確認する時間はなかった。
(寝過ごしてしまった……!)
入学してから、校門の中では本来の実力を見せることなく歩き続けてきたヴァージンだったが、彼女はこの日初めて、1限の鐘が鳴り響く校門の中で猛ダッシュを見せた。長距離選手とは思えない短時間のダッシュで教室に入るなり、ヴァージンは荒い呼吸を教室中に鳴り響かせた。
幸いにして、ハイドル教授は入っていなかった。ヴァージンは、先週と同じ場所に座り、教授の到着を待った。
そして、待つこと10分、ようやくハイドル教授は教室に姿を見せた。
「お待たせしました。今日の講義の内容を考えていたら、10分も過ぎてしまいました」
普段と同じ雰囲気を見せようとする教授の声が、どこか切れのないことに、ヴァージンは気が付いた。そして、その日になって講義の内容を考えなければならないことが何を意味するのか、ヴァージンにとっては気がかりであった。
そして、教授はプロジェクターに世界地図を映し出した。そこには、「国の債務とGDP比」と書かれており、国別にGDP比が色分けされていた。勿論、アメジスタは最も比率の高い紫色になっていた。
「今日も、社会学でも主要なテーマになる貧困について話そうと思いますが、ちょっと今日は別の切り口から考えてみよう。これは、国別の債務のGDP比ですが、以前の講義で話した国別の貧困率がテキストの73ページにあります。これと見比べてみて、どういうことが言えるかな?」
そう言うと、教授はプロジェクターに映す世界地図を、テキストの73ページにあるものに切り替えた。そして、次の瞬間両方の地図を並べたものを映し出した。
(たしかに、貧困率の高いグラフほど、借金も苦しくなってくる……)
ヴァージンは、プロジェクターに映る地図を見て真っ先にその答えを導き出した。しかし、この日ばかりはここで手を挙げる気になれなかった。GDP比が高ければ高いほど債務の返済が難しい、という言葉に運命的なものを感じざるを得なかったからだ。
「分かったら、誰でもいいから手を挙げて欲しい」
教室に70~80人ほど集う中で、なかなか手を挙げる学生はいなかった。何度かハイドル教授が催促して、限られた学生が手を挙げるのは、普段の光景だった。
だが、そのような静かな時を一気に吹き飛ばすように、ヴァージンの二つ後ろの席に座っていた男子学生が突然会話を始めた。
「ほらほら、ニュースで言ってたじゃん。アメジスタはGDPの何千倍とかの借金を抱えて、とうとうかえせなかったんだって」
「やっぱり、世界一貧しい国じゃ、まともに借金なんて返せるわけなかったんだよな。あはは」
「アメジスタなんて、所詮こんな授業でバカにされる国でしかないよな」
(何それ……)
ヴァージンの最も聞きたくなかった言葉が、最悪のタイミングで耳に入ってきてしまった。その瞬間、ヴァージンはプロジェクターから目を反らし、思わずその二人の男子学生を睨み付けた。
男子学生たちに反省の色はなかった。
「アメジスタを……、バカにするなっ!」
ヴァージンは、そう強く叫んだ。目から一気に涙がこぼれてくる。これまで、数多くの人々と出会い、そして自分の感情を言葉で伝えてきた彼女が、ここまで鋭い声になったことは、彼女自身も記憶になかった。
(悲しい……。こんなこと言わなきゃいけないのが……、すごく悲しい……!)
だが、男子学生はその言葉に反応するように、軽く言い捨てた。
「事実じゃん。アメジスタが借金返せなかったの」
「……っ!」
講義中であることは、はっきりと分かっていた。そのアカデミックな雰囲気を壊していることもはっきりと分かっていた。しかし、それでもヴァージンは目に涙を浮かべながら、男子学生に再び叫ぼうとした。
その時だった。
「出てけっ!」
(私だ……)
これから4年間貧困社会学を教わるハイドル教授に、1年の段階で悪い印象を与えてしまった。ヴァージンは力なく席を立ち、バッグを手に持って教授に頭を下げようとした。
しかし、席を立とうとするヴァージンを、ハイドル教授は止めた。
「出て行かなきゃいけないのは、君じゃない。アメジスタをバカにした、二人の方だ」
「それはないですよ、教授……」
突然襲いかかった言葉に、男子学生は戸惑いの言葉を隠せなかった。しかし、ハイドル教授はきっぱりと言葉を返す。
「彼女は、アメジスタの出身。いま、こんな感じでニュースになってしまったけど、それでも彼女はアメジスタという国を誇りに思っている。そんな彼女とアメジスタを認めず、侮辱するような学生は、社会学なんて学ぶ資格はない」
「……」
二人の男子学生は、力なく立ち上がり、教室から立ち去った。
ヴァージンは、それでもまだ泣いていた。
「すいませんでした……」
講義が終わり、学生たちが出て行くと、ヴァージンはハイドル教授に歩み寄り、頭を下げた。ヴァージンの表情を見つめる教授は、それでも起っている様子ではなかった。
「謝らなくてもいい。君の辛い気持ちは、よく分かる……」
「ありがとうございます……。でも、何が起こったのか、私も未だに分からないのです」
「そうだね……。なかなか、講義でも説明しにくい内容だから、ちょっと今言われていることを整理しよう」
アメジスタが昨日の24時をもって、6000万リアの債務を返済できずデフォルトとなったこと。オメガ国をはじめ、アメジスタに借金をしていた国々の持っていた権利は全て棚上げとなったこと。アメジスタに対する信用は国際的に一気に失墜してしまったこと。
ハイドル教授は、アメジスタ人のヴァージンだけに、短い言葉で分かりやすく説明した。
「なんか、悲しくなってきました……」
説明が終わると、ヴァージンは静かにこう告げた。ハイドル教授は、やや首をかしげてヴァージンを見つめる。
「悲しいことだけど、君まで悲しくなっちゃいけないだろう」
「なんか……、アメジスタの人にはもう、誰も信じてもらえないってことなんですね」
「そこは、信用の失墜って言葉をはき違えている。アメジスタ人じゃなくて、アメジスタという国に対して、信用がなくなったってことなんだ」
「でも、私はレースでアメジスタを背負って走っていますし、選手の紹介の時もアメジスタと言われています……。私に対する信用だって……」
ヴァージンは、そこまで言うと再び涙を浮かべた。彼女の目に映るハイドル教授の顔が、曇ってくる。その淀んだ景色の向こう側で、ハイドル教授の口が開いた。
「ヴァージン・グランフィールドは、たしかにアメジスタの選手。でも、君はあくまでもヴァージン・グランフィールドという、一人の人間として見られる。世界最速のアスリートとして、国の信用とは切り離されて見られると思う」
「そうですか……。ありがとうございます」
ヴァージンは、ここで頭を下げた。しかし、その直後にハイドル教授は言った。
「これから、アメジスタ人の君には、国から厳しい現実を突きつけられるだろう。でも、ヴァージンは負けないで欲しい。私も応援する。せめて、大学4年間、最後まで走り抜けて欲しい」
「分かりました」
ヴァージンは、重くうなずいた。その厳しい現実が何かを知らずに。