第21話 祖国アメジスタは滅んだ(2)
「まずは、世界記録更新おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
これまで数多くの優勝インタビューを受けてきたヴァージンは、この日も真っ先に彼女を取り囲んだ記者に受け答えする。カメラが回っている中、普段と全く変わらない声で一人の記者が尋ねた。
「最近、ウォーレット選手が世界記録まであと少しというところまで迫ってきましたが、グランフィールド選手はそのことを意識していましたか」
「はい、たしかに記録を破られるかも知れないということは意識していました。けれど、私は私なりに自分のベストタイムを伸ばしていけばいいと思っています」
「つまり、自分なりの走りをしようと思っていたわけですね」
その記者は、これまでインタビューを受けてきたどの記者よりも明るく、質問の最後には必ず笑顔になっているように見えた。5000mを全力で走りきったヴァージンにとっては、その記者の甘いマスクが体の疲れを癒すような表情に見えて仕方がなかった。
「はい、結局は自分に打ち勝たなければいけないのは自分なので、ペース配分一つ取っても自分なりの走りを完成させるように日々打ち込んできました」
「なるほど……。ちなみに、今日の自分なりの走りに点数をつけてみると、何点ぐらいだと思いますか?」
「そうですね……。できれば14分10秒は切りたかったので、今日の記録はまだまだ50点ぐらいだと思います」
「そうですか。そうなると、記録を伸ばす余地はまだまだあるわけですね」
「はいっ!次の記録は、近いうちに必ず見せられると思います」
ヴァージンが記者のこの質問に大きく首を縦に振ると、記者はそれまでに見せたことのないほどの笑顔になって、再びヴァージンにマイクを向けた。
「ヴァージン選手。いま、アメジスタの人々は国の財政に対して、不安を抱えて生きています。そうしたアメジスタ国民に、何かメッセージがあれば、いまこの場でお願いします」
(国の財政に対する不安……?)
ヴァージンは、開きかけた口を思わず閉ざした。たしかに、世界一貧しい国から脱却できていないことは分かっていたが、財政に不安を抱えているという話は聞いたことがない。首都グリンシュタインで家と家の間に住む場所もなく暮らしている、生活への不安であれば話は別だが、取り立てて財政という言葉を使うということが、ヴァージンには何か新鮮な響きに思えた。
わずかな間を置いて、ヴァージンはこう答えた。
「私は、アメジスタの国旗を背負って、これからもアメジスタの一人一人に夢や希望を届けていきたいです!」
アメジスタの人々の夢や希望。
この時、ヴァージンはそれらが砂の上に立った城のような状態になっていることに、全く気付かなかった。
「ヴァージン、もう誰が見ても5000m絶対無敵という感じがする」
オメガ国に帰る飛行機は、偶然だがグラティシモと同じ便になった。戦いを終えて、その日の反省点などを思い返そうとしていたヴァージンは、グラティシモの顔が見えた途端、思わず目を大きくさせた。
「グラティシモさん。そんなことないですし、グラティシモさんだってパーソナルベストじゃないですか」
「それは嬉しいし、記録そのものは成長の証だけど、もう5000mではヴァージンがビジョンに映るときの歓声と私が映るときの歓声が完全に逆転してしまったように思える」
グラティシモははっきりとそう言った。だが、ヴァージンはその言葉にうなずき、グラティシモの手を取った。
「それだって、いつまた逆転するか分からないじゃないですか。もし、私がみんなの期待するような成績を上げられなければ、歓声は消えていき、せっかく掴んだスポンサーも消えていくのですから……」
「ヴァージンの言う通りね。ヴァージンの場合、その要求されるレベルが、私と違っている」
「きっと、そういうことなんでしょう」
ヴァージンがそう言うと、グラティシモは小さくうなずいて、ヴァージンに微笑んだ。
「せっかく休んでいるところ、こんな質問して悪かった。だから、アカデミーに着いたら、レスタルの土産物のキーホルダー、一つヴァージンにあげる」
「ありがとうございます!」
しかし、グラティシモが自分の席へと戻っていくと、ヴァージンは再びあの言葉の意味を考えた。着陸の際に見えてきた、オメガ国の夜景が、ヴァージンにとってはいつも以上に眩しく見えて仕方がなかった。
そして、翌日ヴァージンは、大学のパソコン室で問題のキーワードを検索した。
(アメジスタ……、財政……)
的確な検索ワードではないとは分かっていたが、ヴァージンはとりあえずこの二つの言葉で調べてみた。すると、真っ先に出てきたのは国際機関に報告されたアメジスタの昨年度の決算報告書だったが、それを見ても経済学や財政学にほとんど接してこなかったヴァージンには何一つ分からなかった。ところどころ、黒の▲でつけられた数字が見え、下に行けば行くほどその数字の桁数が跳ね上がっていくのだけは分かった。
(どこも、アメジスタの財政に問題のあるところはない……)
ヴァージンは、再び検索ページに戻り、画面を下の方にスクロールする。数年前の決算報告書や今年度の予算案などが並ぶ中、「アメジスタ・財政に関する最近のニュース」という言葉がヴァージンの目に飛び込んできた。
そこには、ほんの数日前の記事としてこう書かれていた。
――アメジスタへの巨額債務の履行 未だ不透明
(巨額債務……?)
ヴァージンは、その4文字を見た瞬間背筋が凍りついた。債務という言葉が借金を意味することは分かっており、アメジスタがいまそのお金を返済しなければならないということだった。具体的にその額がいくらなのか、そしてその返済をいつまでにしなければならないのか、そして返済しなければどうなってしまうのか。そこからリンクを踏んでしまえば、そのような言葉が少なからず書いてあるのだろう。
(でも、それを知ってしまうと、私自身がショックを受けてしまうかも知れない……)
それこそ、代理人なり自分を支えてくれる人々が考えるべき問題のように、ヴァージンは思えて仕方がなかった。いまヴァージンがすべきことは、次の世界記録を叩き出すこと、そしてイーストブリッジ大学の優勝に向けてオメガインカレにベストコンディションで望むこと。その二つだった。
ヴァージンはおもむろに検索画面を閉じた。そして、パソコン上のファイルを全て閉じ、すぐに立ち上がった。
しかし、その日を境に、これまで世界記録ギリギリまで記録を伸ばしてきた5000mのタイムトライアルのタイムがわずかながら遅くなっていった。レスタルシティ大会の疲れもあり、数日はそれが原因かと思ったが、ラップ70秒で回ることができないことが多くなっていた。オメガインカレでは、世界競技会などでトップに食い込んでくるライバルがほとんど出る可能性がないため、多少調子を落としても優勝はできるものの、ヴァージンにとっては不甲斐ない日々が続いた。
(気の迷いが、どこかにある……。あるいは、私の走りを妨げているもの……)
そして、オメガインカレを1週間後に控えた土曜日、ヴァージンは1限の社会学基礎の講義を終えた後、教壇を降りようとするシリル・ハイドル教授に話しかけた。白髪混じりで背が低く、60歳はゆうに超えているであろうその男性こそが、これからヴァージンが貧困社会学の研究で付いていこうとしている教授だった。
「すいません……。今日の講義とは全く関係ないですが、一つ質問していいですか?」
「どういう質問?」
ハイドル教授は、ヴァージンの声に振り返り、ヴァージンの前に立った。流れるようなその声は、年の割には若々しく聞こえ、長いこと研究論文を読み続けたその茶色い目は、未来を見つめるように眩しく見えた。
「最近ニュースで知ったんですが、アメジスタが財政的にまずいことになっているらしいです。今後、アメジスタの国と人々は、どうなってしまうと思いますか?」
ヴァージンは、そこまで言った瞬間にやや目を下に向けた。そこまでのことは自分で調べるべきだった、という言葉を脳裏で思い続けた。
だが、そういった質問にもかかわらずハイドル教授はヴァージンにうなずき、やや小さな声でこう返した。
「アメジスタは……、極めて貧困指数の高い国ってことは分かってるね」
「はい」
「それで、アメジスタは多くの国から資金援助を受けている。けれど、アメジスタ政府がその資金を返済できずに困っていて、その返済期限が近づいているわけだ」
「なるほど……。つまり、借りたお金を返したくても返せないということなんですね」
「そう。そして、オメガがアメジスタに資金援助した6000万リアの返済期限が、来週の金曜日に迫っている」
(6000万リア……)
ヴァージンは、途方もない数字を耳にしたことに、やや遅れて気が付いた。最初のジュニア大会に必要だった金額のちょうど3万倍、そしてアメジスタと物価水準こそ違うが自らの年収の何十倍もの金額を、アメジスタは返済しなければならない。
(アメジスタにそれくらいのお金があったら、もっと人は明るく生きているのに……!)
ヴァージンの目に、かすかな涙がたまった。
すると、その瞬間ハイドル教授は、ヴァージンにそっと声を掛けた。
「もしかして、君がアメジスタ人のアスリート留学生、ヴァージン・グランフィールドかな?」
「はい」
「私は、貧困社会学の研究者として、アメジスタには頑張って欲しい。いい方向に向かうことを望んでおる」
「ありがとうございます!」
ヴァージンは、何一つ問題が解決したわけではないのに、ハイドル教授に軽く頭を下げた。
「とりあえず、アメジスタの運命はきっといい方向に動くだろう。まだ悲観的に思わない方がいい」
「はい」
ヴァージンは、大きくうなずいた。来週の今頃、祖国がどうなっているかをかすかに気にしながら……。