第21話 祖国アメジスタは滅んだ(1)
記録会でメリアムを破ったヴァージンは、久しぶりとなる一般のレースに出場するために、土曜日のオメガ語の講義が終わるとすぐさま空港へと急いだ。オメガインカレまで4週間あるため、その間の調整ということで代理人ガルディエールに頼んでエントリーしたレスタル共和国のレスタルシティ大会だ。
大学生となったヴァージンには、これまでと異なり学業との両立をはからなければならなかった。土曜日の4限まで講義が入っているため、遠征スケジュールも相当タイトになってくる。今回のレスタル共和国行きも、飛行機で片道3時間ほどとそれほど遠いところではないために1泊で参加できるのだが、イーストブリッジ大学陸上部の部員の中からもこの遠征を無茶と言う人さえ現れるほどだった。
だが、当のヴァージンは違っていた。
(ウォーレットさんが、私の世界記録に迫っている……。ここで一気に追い越されるわけにはいかない)
シーズンも終わりに差し掛かっている中、ウォーレットはほぼこの年の大会には出てこないだろう。そこで、一つでも多く実戦のレースに出て、自らの記録を伸ばしていきたい。アカデミーで14分10秒を目指すペーストレーニングを始めた頃から思っていたが、記録会当日にウォーレットの記録を知り、その想いがさらに強くなったのは言うまでもなかった。
空港で合流したマゼラウスも、最初は無茶と言っていたが、ヴァージンがトレーニングながらもほぼ世界記録に近いタイムまで成長するようになってくると、それ以上何も言わなくなったのだった。
「ヴァージン。今回のレースは、ほとんど強豪が出ていない。一足早く、グラティシモがレスタルシティに渡っているが、おそらく今のヴァージンには敵にならないだろう」
「コーチ。それって、なんかすごく不思議ですね……。いま思うと」
飛行機がオメガ国の大地を離れ、白い雲の彼方へと消えていくのを眺めながら、ヴァージンはマゼラウスに小さい声で言った。
「それは、どういうことを意味しているのか?」
「このアカデミーに入ったとき、グラティシモさんは私が目標にしている人の一人でした。グラティシモさんに追いつくことができず、トレーニング中は何度もそれを意識してきました。けれど、私の方が成長して、実力的にメリアムさんとかウォーレットさんとか……、本当の意味でのトップで争うようになってくると、グラティシモさんをライバルにしていた頃を忘れそうになるんです……」
「私は、その頃を忘れてはいけないと思うんだがな……」
マゼラウスは、シートベルトをしたままで軽く腕組みをする。そして、言葉を続ける。
「ヴァージンよ……。人は、いくつもの時間を経て成長していくもんだ。その時々に感じたいくつもの想いを、やっぱり人は心にしまっていかなければならないものだ……。少なくともここに来る前、アメジスタじゅうからアスリートとして認めないと言われ、それでもそれを振り切った強い意思は、きっと忘れていないはずだ」
「忘れてなんて、いません。もし忘れたら、その時私は、トラックから去っていると思います」
「なら、よかった……」
マゼラウスは、その瞬間にヴァージンを見ながら薄笑いを浮かべた。ヴァージンはそれを見ながら、わずかにその目を細めた。
不意に会話の中に表れた、自らの祖国の思い出。それは、ヴァージンにとってかすかに嫌な予感を抱いた。だが、長年の経験上、レースを前にしてそのような気の迷いはできなかった。
「On Your Marks……」
レスタルシティの市立陸上競技場に、女子5000mの始まりの時を告げる声が響き渡る。各国から集まった18人の選手たちが、一斉にスタートラインに立つ。ヴァージンは、大きく息を吸い込んだ。
(ウォーレットさんに、世界記録なんて破らせない……!)
号砲と共に、ヴァージンは一気に自らのペースを作り上げた。ラスト1000mより前に意識する、ラップ70秒というタイム。記録会でメリアムと勝負することが決まってから約2ヵ月の間、何十回と取り組んできた走りを、ヴァージンはこの日も見せている。
(68……、69……、70……)
何度となく意識してきたラップタイム通りに、最初の1周を先頭で走りきった。ほんの1年も前は、最初の1周からこのタイムで通すことはほとんどなかったが、今となってはもはや先頭集団が5人程度しかいなくなるまでレースを優位に引っ張れるようになっていた。勿論、メリアムやウォーレットはこれより速いペースでレースを進めていくが、当面ヴァージンはそこまでのペースでトレーニング中ペースアップすることはなかった。
2周目、3周目……と進んでいくうちに、ついにヴァージンの耳に響いてくる足音は自らのシューズの音と、そして他に一人のライバルの足音だけになっていた。カーブに差し掛かったときにその姿を横目で見る。
(グラティシモさん……!)
これまで、何度となく実戦で顔を合わせてきた二人だったが、グラティシモとの一騎打ちという構図はほとんどなかった。それどころか、グラティシモがこのペースについて行けるとも思っていなかった。だが、同じ場所でトレーニングしているうちに、彼女もきっとヴァージンの意識するラップ70秒を気にしていたことは至極当然のことだった。
懸命に食らいついてくるグラティシモに、ヴァージンの足は少しだけ速くなりかけた。
その時、ヴァージンの脳裏にマゼラウスの言葉が蘇ってきた。
――グラティシモは、おそらく今のヴァージンには敵にならないだろう。
(今は、同じ場所を走っているライバル……。けれど、本当の実力は、今は私の方が明らかに上のはず……)
ヴァージンは、そう思った瞬間に自然と無茶なペースアップを止めていた。ラップ70秒より少し速いペースならばその先の記録更新に照準を合わせることができるが、相手を意識しすぎて限界を超えてしまえば、ヴァージンの武器であるラストスパートは伸びなくなってくるからだ。
(きっと、グラティシモさんはついていけなくなるはず……。何年も見てて、このペースじゃないって分かる)
ヴァージンはそう確信し、さらに数周そのペースを維持した。2400mを過ぎたあたりから、グラティシモの靴の音が時折小さくなるのを、ヴァージンは耳で感じた。懸命に食らいつこうとするが、じりじりと離されていく。
こうなれば、もはやヴァージンを待ち受ける敵は、自らの世界記録だけだ。世界記録を超えるための、14分10秒を意識したペース配分。ラップ70秒を6周、7周……とひたすら走り続けるヴァージンにとって、完成されつつあるその体の動きは、記録への可能性を格段にアップさせていたのだった。
そして、運命の4000mが目の前に迫った。体感的に、11分38秒ほどの通過タイムだった。
瞬時に、ヴァージンは心の中で一度、この数字を呟いた。
(64……、31……、57……)
ラストスパートへ、そして自らの記録へと駆け抜ける、ホップ・ステップ・ジャンプ。これまで何度となく
失敗を繰り返してきた最後の2周半に、ヴァージンは挑んだ。
これまでラップ70秒だった足を奮い立たせ、ヴァージンは一気にペースを上げていく。体感的なペースでラップ65秒まで高めるが、ここで何度も経験したように、トップスピードで走っているかのような錯覚に陥ってしまう。力を解き放っているはずの足が徐々に重くなり、ややペースが落ちていく。
(ここでラップを意識しなければ……、記録なんて見えてこない……!)
ヴァージンは、重くなりかけた足をトラックに強く叩きつける。すると、その足はほんの少しだけ軽くなり、一度落ちかけたペースも再び上がっていく。ラップ65秒を切ってはいないが、66秒にならない程度のスピードで4400mのラインを割る。
(あとは、順調にペースを上げるだけ……!)
最初のホップでつまずかなかったヴァージンの足が、一気にトップスピードへと加速していく。瞬く間にラスト1周を告げる鐘の音が響くが、それでもヴァージンはペースアップを止めない。たとえ、そこに勝負するライバルの姿がいなかったとしても、ここで勝負を終わらせるわけにはいかなかった。
その鋭い目の先に見えてくるゴールラインを、ヴァージンは全力で追いかけていく。
(55……、56……、57……っ!)
ヴァージンは、その瞬間に確信した。このトレーニングを始めて、ついに過去の自分を打ち破ったと。
14分11秒97 WR
ヴァージンは、喜びに満ちた表情を浮かべながら、自らの記録が映し出された記録計の前でその記録をカメラに向けた。アメジスタの国旗と自らの記録を同時に映すことは、もう何度でも経験していることだった。
だが、この時ヴァージンを取り囲んでいた一人の記者に、現実を告げられるとは思っていなかった。