第20話 最速を懸けた記録会(7)
秋の穏やかな風と青空が見守る中、イーストブリッジ大学の今年度第1回の記録会当日を迎えた。大学近くのマルス市総合陸上競技場には、かつてないほどの人々が観客席に集まっていた。観客と言っても、世界競技会や選手権のように一般の人が詰めかけているわけではなく、出場している大学の陸上部員のみ入ることが許されるが、イーストブリッジ大学周辺の各大学の陸上部員がほぼ全員と言ってもいいほどその場に集まっていた。
集まった人のほぼ全てが、今回の注目対決の時を待っていた。
イーストブリッジ大学の、女子5000m最速ランナーは誰か。
大会運営のために、ヴァージンも他の部員たちと一緒に朝から会場に入り、準備にいそしんでいた。それが終わりを告げる頃、1年生の荷物置き場に戻るヴァージンはウッドソンに呼び止められた。
「グランフィールドを見たい、という大学生がこんなにいるんだろうな」
「そんな……。私だけじゃないと思いますよ」
「いや、うちの陸上部の記録会で、ここまで人が集まるのは見たことない。それに、俺が聞いた話だととんでもないエントリーがあったみたいだ」
「とんでもない……エントリーですか」
ヴァージンは足を止めて、思わずウッドソンに聞き返した。
「女子5000mに、結構な成績を残している男子がエントリーしてきた。もちろん、お断りしたみたいだけど」
「私、陸上部風の男子に勝ったことありますよ。声をかけられるのも無理はないと思ってます」
「すごいじゃん……!」
思わず手を叩くウッドソンに、ヴァージンは軽く笑ってみせた。すると、ウッドソンは急に表情を元に戻した。
「それはそうと、今日はグランフィールドのための記録会だ。女子5000m、他の大学からも合わせてエントリーが38人、けれどそのうち36人は狭いけど第1組。二人のベストタイムに匹敵するような大学生はいなかった」
「つまり、私とメリアムさんの直接対決、ということですね」
「そういうこと」
イーストブリッジ大学陸上部の記録会は、トラック競技に限れば短距離走から長距離走まで距離順に並んでおり、目玉というべき女子5000m第2組は、男子5000mが始まる前の17時頃に配置されていた。
ヴァージンがこれまで経験した一般のレースでは、短距離と長距離がバラバラに配置されていたが、プログラムを見る限りシンプルだった。また、記録会なので予選や決勝といったものもない。一度きりの勝負が、公式に記録として残るのだった。
(さぁ、時間までメリアムさんに勝つためのアップをしないと……)
14時になり、ヴァージンはトレーニングシャツを着てサブトラックへと向かう。順番にもよるが、部員は競技に入るおよそ3時間前からは大会運営に携わらず、トレーニングの時間となる。
サブトラックには、ほぼ同時にメリアムも姿を現した。メリアムの表情は、勝負前の真剣さを見せる。
「陸上部最速を決める戦い。1年生のグランフィールドに負けてられないのが、私の本音だから」
「メリアムさん、私は今日のために万全なトレーニングを積んでます。もう、負けたくなんかないですから」
二人の視線が合ったとき、そこに他の参加者の姿はもうなかった。そして視線を離すと、すぐに最終調整に入った。
そして、その時はやってきた。
「On Your Marks……」
数多くの女子が駆け抜けた、女子5000mの第1組とは打って変わり、トップアスリート2名による緊迫の第2組が、いま始まりの時を告げる。その場に集まった誰もが見守る中、号砲がトラックに鳴り響いた。
(ラップ70秒……!)
外側からスタートしたヴァージンは、これまでのトレーニングで何度も意識してきたラップ70秒のストライドでペースを掴む。かたやメリアムは、1500mで培ってきたスピードで、今回もヴァージンを引き離しにかかる。ヴァージンが見る限り、それはラップ68秒から69秒だった。
(半周で5mの差を付け、1周で10mの差になる……)
ヴァージンが瞬間的にそれを意識したが、スピードを一気に上げることはしなかった。これまであまりラストスパートを見せてこなかったメリアムを、自らのそれで差しきることが、マゼラウスから言われてきた作戦のはずだ。
800m、1200m……予感したほどではないが、差は少しずつ広がっていく。
――ほら、頑張れ!ヴァージン!前へ!
――5000mの歴史は、ヴァージンが作るんだ!
競技場を包み込む、二人を応援する声援。ヴァージンの耳に聞こえるのは、明らかに自分を呼ぶ声ばかりだ。だが、それとは裏腹に、レースを引っ張っているのは新参者のメリアム。だが、引き離す相手を見つめるヴァージンは、これまでのように動じることはなかった。
(これから、自分の走りで追い抜けばいい……!)
――2000mの通過タイム、5分45秒。この400mのタイムは68秒、この1000mのタイムは2分52秒。
競技場に響く、メリアムの途中経過。ヴァージンの通過タイムは、体感で5分52秒ほどだった。この時点で、差はおよそ40m。ここにきて、ヴァージンもほんの少しスピードアップを見せる。がむしゃらにメリアムを追いかけるのではなく、今はまだメリアムとの距離を離さないようにする走りだ。
(この段階でラップ69秒は、そこまできつくない。68秒だときつくなる)
日々アカデミーで行われるタイムトライアルで養われたのは、ラストスパートのタイムだけではなかった。そこまでの間にどれだけの力を使うか、という調整でもあった。徐々にペースアップすれば、スピードのアップダウンが激しい展開よりも下手な瞬発力を使わず、多少は最後に余力が生まれる。
差を離されず、最後の勝負に賭けるヴァージンの目は、メリアムをじっと見つめている。少しずつスピードアップするヴァージンに対する声援も、それに従って大きくなってくる。
そして、メリアムが4000mのラインを駆け抜ける。この時点で50mほどの差だった。メリアムが11分31秒ほどのタイム。かたやヴァージンは、11分40秒ほど。
(4000mからのラップタイムを!)
――64、31、57!
マゼラウスに言われ続けてきたラップタイムを、ヴァージンは4000mを通過した瞬間に心の中に刻む。本番の距離でそのペースに達することはほとんどなかったが、ヴァージンはこの1、2ヵ月もの間できる限りそれに迫るために、ラスト1000mのペース配分を念入りに繰り返してきた。
(63……、64……、65……!)
ヴァージンは、これまでのペースがまるで別人であったかのようにストライドを大きく取るも、64秒を目標にしていた4400mまでの1周が体感的に65秒以上かかってしまった。それでも、メリアムとの距離は少しずつ縮まっていくのだけは確かだった。
(まだまだっ!)
ヴァージンは、4400mを過ぎて直後のコーナーに入った瞬間、再びギアを上げた。風を切るようなスピードで、ヴァージンは残り1周あまりの勝負に挑む。彼女の見せる本気のスピードに、メリアムもここでようやく後ろを振り向く。同時に、ラスト1周を告げる鐘が鳴り響いた。
――ヴァージン・グランフィールド!
――ソニア。メリアム!メリアーム!
二人の名前が叫ばれる中、ヴァージンはメリアムの背中に食らいつく。メリアムもこれまでの走りでは見られないストライドでヴァージンを振り切ろうとする。だが、ラスト1周で発揮するヴァージンのトップスピードを振り切れるまでには至らない。世界競技会では最終コーナーで横に並ばれたヴァージンは、今度は最終コーナーの手前でメリアムを捕らえた。
歓声と、そこから転じた悲鳴が包み込む瞬間、ヴァージンの体がついにメリアムよりも先に飛び出した。最終コーナーを回りかけたところからわずかずつではあるが、メリアムを引き離していく。スパートが不発に終わった世界競技会とは、完全に人が変わったかのようなスピードで、最後の直線を駆け抜けていく。
ゴールタイム14分16秒29。ヴァージンは、結局目標にしていた世界記録更新までは至らなかったが、イーストブリッジ大学陸上部の女子5000mの最速に上り詰めた。
「負けた……。やっぱり、グランフィールドはすごすぎる……」
ゴール直後、ヴァージンのもとにメリアムが歩み寄り、右手を差し出す。ヴァージンはメリアムの右手を握りしめると、すぐにメリアムを軽く抱きしめた。メリアムも14分19秒83とわずか3秒あまり足りなかったが、肩で呼吸をしながらヴァージンを見つめていた。
「そんなことありません。メリアムさんだって、ここの陸上部の最大のライバルだし……、何よりこの1ヵ月はメリアムさんをずっと意識してトレーニングしてきましたから……」
「そうなんだ……」
メリアムはそう言うと、ヴァージンを優しい目で見つめて、言葉を続けた。
「グランフィールド、あなたがオメガインカレの、イーストブリッジ大学、女子5000m代表よ」
「メリアムさんだって、十分出られるタイムじゃないですか。それどころか……」
メリアムは、今回この女子5000m一筋で勝負に挑んできた。得意としてきた1500mには出ていなかった。そして、メリアムが4年生ということを考えると、本当は勝って、最後のオメガインカレに出場するはずだった。
「メリアムさんは、最後の大会を諦めてしまうつもりなんですか……」
「諦めじゃない。出たい種目で、負けただけだから。グランフィールドという、女子長距離のスーパースターに、私は負けただけだから」
メリアムは、そうきっぱりと言い切った。ヴァージンの表情を見つめながら、陸上部の主将である彼女の口は決して震えはしなかった。
「私は、これで大学の陸上部の活動を終える。けれど、そこがゴールじゃないから。また一般の大会で、グランフィールドを待っているから」
「メリアムさん……」
ヴァージンの目に、うっすら涙が溜まった。こらえきれなくなって、メリアムに再び右手を差し出し、いつまでもライバルであることを誓う。その手は、とても温かかった。
記録会が終わり、撤収作業が済むと、陸上部の部員がほぼ全員で近くの居酒屋に向かった。そこに向かうまでの間に、普段通り先頭に立って歩くメリアムが、突然ヴァージンを前に呼び寄せた。
(何だろう……)
先程言ってしまったことの撤回、と予測しつつ、ヴァージンはメリアムの真横に立つ。すると、メリアムは隣にいた長距離パート部員の見ていたニュースを、ヴァージンに見せた。
――モニカ・ウォーレット、世界記録まで0秒28に迫る! 陸上・インテカ選手権
「ウォーレットさんが……、14分14秒50!」
ヴァージンは、思わず首を横に振った。世界競技会で失速したはずのハイペースを、ついにウォーレットが掴んでしまったのだ。
「グランフィールド……。私たちだって、負けてはいられない。いや、私よりグランフィールドのほうがその気持ちは強いと思うけど」
「そうですね。迫ってきたら、私が次の世界記録を出せばいいんですから」
ヴァージンは、記録会を終えた当日にもかかわらず、すぐにでもトラックの上に立ちたい気分だった。