第20話 最速を懸けた記録会(6)
土曜日、初めてとなるハイドルの「社会学基礎」の講義を終えたヴァージンは、すぐに裏門を出てリバーサイド練習場へと急いだ。そして、練習場に着くとロッカールームに向かい、午後にまだ講義が残っているにもかかわらずトレーニングウェアに着替えた。
練習場では、入口からやや離れたところでウッドソンが自主トレをしていたが、ヴァージンがロッカールームから出てくるのを見計らったかのようなタイミングでロッカールームまでやってきた。
「グランフィールドも自主トレやるんだね」
「はい。土曜2限だけ、ここで時間が空いてしまうのです。せっかく空いているのに、ここで何もしないのはもったいないと思いまして」
「すごいなぁ……。それこそアスリートの鑑という感じだよ」
「そちらこそ、講義もなさそうなのに朝からずっとトレーニングしててすごいと思います」
「まぁ、俺みたいな人は結構いるよ。土曜日も4限後からだから、ほとんど誰も授業受けていない時間帯からみんないたりする」
あの時、ウッドソンからも聞いていたが、土曜日のキャンパスはあまりにも人が少ない。たしかに必修の「社会学基礎」の教室は100人ぐらいの人が集まっていたが、一歩教室を出ると他の曜日では見られるような学生たちの流れがなく、純粋な姿のプロムナードが広がるだけだった。雰囲気としては、大会の終わったスタジアムのようなものだった。
「そうなんですか」
「やっぱり、俺たちは体を動かしたいという衝動に駆られるもんなんだよ」
そう言うと、ウッドソンはロッカールームへと入っていった。
ヴァージンがこの時間からトレーニングウェアに着替えたのは他でもなかった。やや早足で、先程練習場まで下ってきた坂の下に立ち、ヴァージンは裏門のある坂の頂上を見上げた。
(陸上部に入ったからには、この坂で負けるわけにはいかない)
全体練習でも、そしてパート練習でもこの坂は必ずメニューに含まれていた。そして、ヴァージンも何度か坂を上ってきたがどれもラップ70秒のタイムを維持できず、じりじりとペースを落としてしまうのだった。
(メリアムさんは、この坂を上ってきたから、苦しいときでもペースを落とさずに行けているのだから)
ヴァージンは一度首を縦に振ると、力強く右足を踏み出し、最初のカーブまでのペースを確かめる。体感的にはラップ70秒ほどのスピードで飛び出したが、最初のカーブまでの間に足がわずかながら重くなるのを感じた。
(やっぱり70秒はきついのかな……)
続いて、それよりもやや遅くラップ72秒ほどで飛び出した。今度は軽く第1カーブまで到達することが出来た。ただ、問題はそれがあの高低差で1000mも続くということだ。このスピードで頂上まで軽く上がっていくことができれば、それがヴァージンの最低限の実力ということになる。
(やってみよう……)
ヴァージンは、一度坂の下まで降りて、ストップウォッチをオンにするなり、もう一度ラップ72秒のペースで飛び出した。第2、第3カーブとヴァージンの足が坂を駆け上がっていく。最初の時にメリアムに捕らえられた第6カーブあたりで、やや右足が重くなるのを感じたが、ヴァージンはペースを落とさずに上り続ける。
坂の頂上に辿り着いたヴァージンは、多少口で呼吸していたが、それほどきついとは感じなかった。
「3分04秒かぁ……」
ラップ72秒で走っているつもりが、それよりやや遅いペースになっていることをヴァージンのストップウォッチは示していた。正確に1000mかどうかは分からないが、何人もの陸上部員が1000mと言い切る以上は、多少の誤差はあってもほぼ間違いのない数字なのだろう。
(ラップ73秒がちょうどいい……、というわけじゃない。知らないうちにペースを落としている)
ヴァージンは、裏門の前の芝生に腰を下ろして、昼近くの青々とした空を見上げた。澄み切った青空に、何も遮るものはなかった。
(私は、まだまだスピードを上げられる。何としても2分台でゴールしなきゃ)
数分間芝生の上に座った後、ヴァージンは再び坂を下り、先程のスタート位置に立った。何度も何度も坂を駆け上がった。そして、2限が終わる頃、4回目の挑戦でヴァージンはようやく2分59秒で坂を駆け上がることが出来た。
タイムという壁は、もう一つあった。それが、トレーニング中に自らの持つ世界記録を塗り替えることだった。トレーニングなので正式な記録にはならないものの、マゼラウスがヴァージンにラップタイムを厳しく要求するようになっているのは、ヴァージンもはっきりと分かっていた。
記録会が3週間後に迫ったある日、アカデミーのトラックを包み込むようにマゼラウスのため息がこぼれた。
「2分18秒29……。あと4秒、どこで稼ぐかだな……。お前は、まだ行ける、と思っているところはあるか」
「ラストスパートだと思います」
「だな。今日もほぼ59秒に近いところだったものな」
57秒台は出せると言われていたヴァージンのラストスパートは、そこまで伸ばすことが出来ず、だいたいが58秒台か59秒台になっていた。ラップを意識するようになってから、トレーニングで57秒台を出すことができたのはわずか一度だけで、それもストップウォッチの秒が切り替わった直後から、秒が切り替わる直前までの間をうまく拾っての57秒台だったため、実質は58秒といっても過言ではなかった。
「そこが、お前の課題だ。ラストスパートに全てを任しているように見えないが、なんだろう……、スパートで使うパワーまでそこまでの間に消耗してしまうのかも知れない」
「はい」
ヴァージンは、首を縦に振ってマゼラウスの目を再び見る。すると、マゼラウスはゆっくりと近づいてきて、やや小さい声で言った。
「距離を変えて、最後の1000mを前に言ったラップで走るということをやってみよう。最初は2000mで、最後の1000mをあのラップで走ってみる。それがクリアできるようなら3000m、4000m、そして5000mと距離を伸ばしていく」
2000mをラップ70秒から半分を152秒で走りきる。ヴァージンはこれまでのトレーニングでタイムトライアルではなくその距離を走っているが、軽く走っていても最後の一周を除いてそれくらいのスピードで走っていた。
「分かりました」
こうして翌日から2日おきに、普段走らない距離でタイムトライアルを行うことになった。2000mは1回でクリア、3000mも1回でクリアしたが、4000mで2回失敗した。ラップ70秒で走り続けることの負担が最後まで響いてくることを、ヴァージンはそのたびに思い知るのだった。
5000mの挑戦に差し掛かったときには、既に記録会まで10日を切っていた。
「記録会までの目標、覚えているな」
「はい。記録会までに自分の世界記録14分14秒22を超えることです」
「もう時間はないからな。とりあえず、この前の4000mのタイムトライアルで見せたような走りを見せれば、何とかなる。明日の5000mタイムトライアルで必ず見せて欲しい」
マゼラウスは、きっぱりと言い切った。ヴァージンは一度うなずくと、その目に普段走り慣れているトラックを焼き付けた。
(私は、この場所で自分の記録を上回らなければならない……)
ヴァージンは、右手を力強く握りしめた。
そして、翌日。その挑戦の時はやってきた。マゼラウスの手にした号砲が鳴る。
(世界記録を……っ!)
ヴァージンは、ラップ70秒で飛び出した。やや70秒よりも速いペースになることもあったが、それより遅いペースになることはほとんどなくなっていた。記録会でメリアムと戦うことが決まってから、ラップ70秒を最低ラップにするトレーニングを何度も繰り返して、体が慣れてきた証拠だった。
そして、4000mが近づいてきた。体感的には11分39秒ぐらいだろうか。
「残り1000mのラップタイムを思い出せ!」
4000mのラインを駆け抜けたとき、ヴァージンの耳にマゼラウスの高い声が響く。ヴァージンは、短距離タイムトライアルで見せてきたように、ここでストライドを広く取りペースアップした。
(64秒……、31秒……、そして57秒……!)
ホップ・ステップ・ジャンプのように、その秒数がヴァージンの脳裏に刻まれた。まずはラップ64秒までペースを上げることだ。だが、短距離のトライアルでは発揮できたはずのスピードが、ここでは思うように上がっていかない。ペースを上げようとすると、どうしてもトップスピードを出しているような感触になってしまう。
「66秒!」
(……やってしまった)
目標よりも遅いペースに、ヴァージンは体を奮い立たせる。ペースを上げた。「遅れ」を取り戻すための、トップスピードを、彼女はトラックの上に叩きつけた。
「32秒!」
ラスト1周、ラップ57秒で走りきれば、世界記録を上回れるかも知れない。ヴァージンは懸命に駆け抜ける。57秒で走りきるトレーニングは、この数週間何度も繰り返している。
(今の私に、できないことはない……!)
普段は思うように上がらないスピードも、この日の感じ方は違っていた。ヴァージンは軽々とラストスパートを見せる。
目の前に見えてきた、全ての終わりを告げるゴールライン。それをできる限りのスピードで駆け抜けた。
「14分15秒11!」
(あと1秒……)
ヴァージンは、マゼラウスの声が聞こえるなり、首をガックリと垂れ、すぐに戻した。だが、マゼラウスのもとへと向かうと、マゼラウスは決して怒っているような表情を見せなかった。
「よくやったな。ここまでしびれるタイムトライアルは久しぶりだった」
「でも、タイムが……」
「ヴァージン。気にするな。これで前にライバルがいれば、間違いなく記録を上回れる。世界記録を量産できる体制は、もう整った」
「はい。……ありがとうございます」
「できれば記録を塗り替えて欲しかったがな」
マゼラウスは、軽く笑ってそう言った。ヴァージンも、自然と笑みがこぼれていた。来たるべき、いま最大のライバルの一人との勝負を前に、ヴァージンは既にその姿を捕らえていた。