第20話 最速を懸けた記録会(4)
「メリアムの言ってることは、間違ってないな……」
全体練習の翌日もパート練習に試しに参加し、陸上部に入って初めてのオフとなった金曜日、ヴァージンは陸上部の活動のことをマゼラウスに話した。すると、マゼラウスは腕を組みながら言った。
「練習メニューと言い、その量や質と言い、あまりトップアスリートのお前には向いていない」
「コーチもそう思うのですね……」
ヴァージンは軽くうなずきながらそう言った。陸上部にどっぷり身を投じれば、週に4回、しかもこれまで日々のトレーニングを完成させてきた夕方の時間帯に、ウォーミングアップ程度の練習量しかできないことになるのは、ヴァージンもはっきりと分かっていた。
「そうだな。少なくとも、大学と陸上部とここと、全て両立させるのはまず不可能だと思った方がいい。おそらく、記録を残す選手はそれだけではなく自主的にトレーニングしているはずだ。せっかく新しい出会いや新しい勝負を求めて入ったから、陸上部をやめろとは言わないが、水曜日だけでいいと思う」
「はい」
「それに、今までのトレーニングのパターンを大きく変えては、体も付いていかないからな。時間割も含めて、そこは考えた方がいい」
(時間割……)
ヴァージンは、アカデミーに入ってからの4年間、午前中にアップとウェイトトレーニング、午後はダッシュと最後にタイムトライアルなどを繰り返してきた。これを大きく崩さないように、とマゼラウスは言っているのだった。
大学生になったとは言え、ガイダンスばかりで大学生としての生活が掴めていないヴァージンには、どうすればいいかすぐに答えることはできなかった。
「コーチ。ちょっとすぐには答えられません」
「分かった。履修登録が終わる再来週あたりまでには、私と代理人に結果を言うようにな」
「はい、分かりました!」
ヴァージンはそう言うと、すぐにミーティングで必死になって書いたメモ帳をしまい、ロッカールームへと急ごうとした。だが、マゼラウスはヴァージンを引き止め、数秒の沈黙を挟んだ後で言った。
「今日は、最初にちょっと会議室で今後の戦術について話し合いたいと思う」
「はい」
そう言うと、マゼラウスはコーチ控室からノートを持ってきて、2階の会議室にヴァージンを連れた。
「14分00秒台……、ですか」
「そうだ。14分10秒を切るタイムということだ」
会議室に入るなり、マゼラウスがホワイトボードに大きな字で書いた字をヴァージンは読み上げた。これまでの世界記録をも上回るタイムである。ヴァージンはこれまでのベストなレース展開を頭に思い浮かべながら、マゼラウスの次の言葉を待った。
「この前の世界競技会で、ウォーレットやメリアムが序盤からラップ68秒で飛ばしていたのは分かっているな」
「はい。私が見ても、離されていくスピードで分かりました」
「このタイムを維持したまま、12周半、5000mを走り終えるとどういうことになるか、それも分かっているな」
「世界記録を上回ります……」
ヴァージンは、もう何年も前にペースを維持したままのタイムを計算していた。68秒がちょうど14分10秒ということも、はっきりと分かっていたのだった。
「女子5000mの世界記録は、お前だけのものだ。絶対に抜かれたくはないだろ」
「勿論です!」
ヴァージンは、力強く首を縦に振った。マゼラウスはそれを見て、さらに言葉を続けた。
「そこで、私はお前の実力から逆算をしてみた。まず、最後の1000mをどれくらいで走れるかと言うと……」
マゼラウスは、ホワイトボードに次々と数字を書き込んでいく。64と31と57という数字が飛び込んできた。
「まず、このラストスパート。57秒台はお前の自己ベストだ」
「てっきり、56秒とか55秒とかで走っているように感じてました」
「私が見てても、そこまでは走れていない。ただ、このラストスパートは今のところ他を寄せ付けないし、中距離走でもこのスピードのスパートなら通用できる。問題は、どこでトップスピードまでギアを上げるかだ」
そう言うと、マゼラウスは隣に4000から200刻みの数字を書き並べた。距離であることはヴァージンにはすぐ分かった。
「4000mからギアを上げるのは辛いです。今の私では、最後失速してしまいます」
「分かっているようだな。本番では結構その過ちにはまってしまうようだが……。とりあえず、この先しばらくはラストスパートを始める距離を意識付けして欲しい」
「はい」
「私は、ここに書いたラスト1000mのタイム、合計2分32秒というのは、お前が必ず達成するタイムだと思う。そうすれば、残りの10周で14分10秒を切るためには……」
ヴァージンはホワイトボードを見ながら、頭の中で計算を始めた。マゼラウスがその答えを書き終えたと同時に、ヴァージンもそれと同じ答えを導き出した。
「ラップ70秒、マイナス2秒です。3600mからペースアップすれば14分10秒で走りきります」
「正解だ。だが、あくまでもそれは最低タイムだからな……」
マゼラウスはやや声を低くして言った。あくまでも14分00秒台ということなので、これが最低の数字なのだということを、ヴァージンはすぐに気が付いた。
「というわけで、今後のトレーニングはこれまで以上にラップを意識する。3600mまで平均70秒を切らなければ14分10秒台はまず無理だから、あまりにもスタートラップが遅いときはすぐに声を掛けるし、3600mでも声を掛ける。そして、最後のスパートはいろいろ距離を変えて行う」
「はい!」
「陸上部でトレーニングに集中できないメリアムに、記録会で負けることは絶対にあってはいけないからな」
早速、この日のトレーニングからそれを意識する時間がやってきた。
「タイムトライアル。今日から、さっき私が言ったことを意識するように。今日のところは、4200mからトップスピードで行け。大丈夫か」
「やってみます」
「最初はきつすぎるかも知れないが、それに耐えられれば、あの二人に勝ち、記録も次々出せるようになる」
「はい」
トレーニングで叩き出しても決して認められることのない、世界記録の更新。それすらも最低目標。ヴァージンは、走り慣れたアカデミーのトラックをじっと見つめ、スタートの時を待つ。
(ラップとの勝負。いま、私は挑む……!)
マゼラウスの号砲とともに、ヴァージンは普段よりやや大きめのストライドでスタートを切った。70秒を意識するよう、ヴァージンは最初の200mのタイムを心の中で刻んだ。
(35……、36……っ!)
200mのラインを越す前に36秒を刻んでしまったヴァージンは、ここでペースを上げる。だが、最初の1周からペースを大幅に修正するようなことがほとんどなかった彼女に、思い通りのペースアップは厳しかった。
「71秒!ペースを意識!」
ラップ71秒でも容赦なく耳に響く、マゼラウスの声。ヴァージンを少しだけ後押しする。次の1周は70秒までペースを上げたが、その後も何度か71秒台に落ちてはペースアップをし続ける展開が続く。
(これじゃ、ラップ平均70秒マイナス2秒は厳しい……)
目の前にライバルもおらず、全て己の感覚だけで新たなスピードを掴まなければ勝利はない。ヴァージンは、未知の領域に挑む難しさをはっきりと思い知った。
そして、トラック9周を回り終えたとき、ヴァージンにマゼラウスの声が響く。
「3600m!ペースアップだ!」
(68秒だった……)
この段階からのラップ68秒は、何度も叩き出している。だが、これまでラップ平均70秒を守れていないヴァージンにとって、マゼラウスがこの1周を68秒で走ればいいと言っているわけではなかった。
ヴァージンは、一気にスピードを上げた。ラップ68秒を意識するよりもやや大きめにストライドを取り、できれば66秒台にまでペースを高めようとした。だが、足がそう意識したところで、トラックの上を突き進む感触はそれほど変わるわけではなかった。
(67秒……になってしまう……)
そうヴァージンが考えているうちに、4000mのラインを駆け抜けていた。次の半周の目標がラップ64秒であることを引き出すことは、もうヴァージンにはできなかった。
「ラストスパート前のペース!」
(何秒だったっけ……!)
重要なことはレースの組み立てであったはずだ。だが、ヴァージンはこれまで通りの走りしかできていなかった。ギアを思うように上げられないまま4200mまで到達し、マゼラウスの号令とともにヴァージンは最後の勝負に挑まざるを得なかった。
「トップスピード!」
ヴァージンがようやくここでスピードを上げるも、思うようにスピードが乗らない。最後の1周も59秒台とギリギリ1分を切るようなスピードでゴールを駆け抜けた。
「14分20秒23!……やっぱり、初めての挑戦ではお前でもきつかったようだな」
「はい……。でも、メリアムさんの自己ベスト以下ということには、変わりないです」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスはヴァージンの肩を軽く叩き、やや声を低くして言った。
「とりあえず、目標を高く言い過ぎた。14分00秒台という目標は、記録会より後でいい。ただ、記録会前の目標は、最低限これだけを意識しろ」
マゼラウスは、そう言うとヴァージンにそっと耳打ちした。
「世界記録を、練習で上回ることだ」
「それなら、私でもできます!」
まだ呼吸が乱れていたが、ヴァージンは大きな声でそう言い切った。