第3話 たった一度きりの世界への挑戦(2)
アメジスタから世界に挑む少女を乗せた飛行機は、かなり窮屈そうにオメガ=セントラル国際空港の滑走路に滑り込んだ。ドンという強い衝撃に思わず窓の外を見たヴァージンは、その瞬間に息を飲み込んだ。
「これが……オメガ国……」
空港から数km離れたところには、ガラス張りの高層ビルがいくつも立ち並び、その奥にはアメジスタの一般家庭では考えられないほどの高層マンションが軒を連ねていた。出発前に、オメガ国は超先進国だと耳にしていたが、その光景は世界一貧しい国の少女には全く信じられるものではなかった。
(とりあえず……空港の南出口に……ホテル行きのバスが待っているとか書いてあるけど)
ジュニア陸上大会の事務局が手配してくれた、今回の大会で一時的にオメガにやってくるアスリートのための合宿所で、ヴァージンの家に届いた国際郵便にも”各到着便に合わせてバスが待っている”と書いてあるので、入国手続きが済めば待たずに乗れるはずだった。しかし、ヴァージンは到着ロビーに追い出された瞬間に、足が竦んだ。
(南出口って……)
方向感覚が全く分からなくなってしまったヴァージンは、世界各地から押し寄せてきた人ごみの中で軽いめまいすら感じた。左を見ても、右を見ても、出口らしいものはどこにもないし、そもそもここが何階なのかも分からない。アメジスタ語で話しかけて通じる人はいそうにないし、ヴァージンは完全に進むべき道を見失ってしまった。
(でも、ここで進むべき道を見失ったら、夢も叶わなくなってしまう……)
ヴァージンは、左足を一歩前に踏み出し、到着ロビーで待っている一人の茶髪の少女に声を掛けてみた。
「すいません……。南出口、どこですか?私、ブリッジホテルへの送迎バスに乗りたいんです!」
(アメジスタ語が通じるはずないのに……)
言った瞬間、ヴァージンの額はいっぱいの汗で湿っていた。同時に、その無謀な問いかけに返されそうな言葉も思いつき、ヴァージンは異国で孤独感を感じるしかなかった。
(どうしよう……)
ヴァージンは、思わずその女性に背を向けようとした。
「もしかして、ジュニア陸上大会に出るの?」
「……え?」
完全なアメジスタ語ではないにしても、それに近い味のするイントネーションの言葉にヴァージンの胸は熱くなった。南出口とかブリッジホテルとか、断片的な言葉が彼女に届いただけではなく、ヴァージンの話している言葉がどこの言葉なのかも分かっている少女に、ヴァージンは思わず涙を見せた。
「……はい。私も、ジュニア陸上大会で……走るために……ここに来ました」
「じゃあ、私たちと一緒ね」
そう言うと、少女はシャツの上から二つ目のボタンをそっと外し、その場所を左右に広げてみせた。中から、漆黒のトレーニングウェアが現れた。
(すごい……。なんて偶然なんだろう……!)
これまで一度も見たことのない、現役のアスリートの姿。たまたま声を掛けただけの少女が、自分と全く同じ匂いのすることに、ヴァージンは胸を躍らせずにはいられなかった。そこで、ヴァージンは一度首を縦に振り、緊張感を吹き飛ばしたように、その少女に向けて自らを紹介した。
「私、ヴァージン・グランフィールド。アメジスタの出身で、今回は5000mで勝つために来たの。よろしく」
すると、少女はヴァージンのほうに右手を伸ばし、少し笑顔を浮かべながら返す。
「私は、シュープリマ・シェターラ。オメガの出身よ。よろしく」
「よろしく、シェターラ」
気が付くと、ヴァージンも右手を差し出し、何の意識もなく超先進国の出のシェターラの右手を握りしめた。
「あれ?……グランフィールドも、5000mなのね?私も走るの」
「本当に?」
ジュニア大会の記事は、雑誌で読んでもあまり気にしてこなかっただけに、ヴァージンはショックさえ覚えた。異国で初めて知り合えた茶髪のアスリートが、当日は互いに競い合うことになる。
「私はもう19歳だから、これでジュニア大会に出られなくなるけど、今まで3連覇してるの。せっかく知り合って悪いけど、グランフィールドが優勝台に立つことはないと思うわ」
「やってみないと、分からないじゃない。ちなみに、5000mの自己ベストは?」
「……14分47秒23。去年の3月ぐらいに出してから、記録伸ばせてないけどね。グランフィールドは?」
「……15分台」
(悔しさすら感じる……)
自分より3歳も歳が離れているとはいえ、シェターラは既に15分の壁をゆうに超えている。この大会で世界に認められなければ次はないヴァージンにとって、彼女の存在は高い壁にすら思えてきた。
「私……、負けないから……」
「あはは、よく言われる。そう言うってことは、やっぱりグランフィールドも一人のアスリートね」
無意識に言い出したにも関わらず、妙に力強さを押し出していたことに、ヴァージンは言い終わってから気が付いた。目の前で軽く笑いながら返すシェターラに、今は親しさを感じるしかなかった。
「シェターラだって、私から見たらそう思いますよ」
「ありがとう」
聞くところによると、シェターラはオメガ国の中でも辺境の出身で、一年の大半をコーチとともに大会用の合宿所で暮らしているらしい。そして、今回空港にやってきたのは、シェターラの友達でもあるアドモンド共和国のエリシア・バルーナを迎えにやってきたとのことだった。バルーナとは飛行機の到着が遅れたためにヴァージンと直接顔を合わすことはなかったが、シェターラが言うに、今回の女子5000m決勝は、バルーナとシェターラの一騎打ちになるくらい、実力があるということだ。
やがて、予約されていたホテルに辿り着き、ヴァージンは自宅以外で初めての夜を迎えることになった。ビルの中に入り込んだ太陽が、都会の雑踏に吸い込まれるように沈む淡い空に、ヴァージンはもう怖さを感じなくなった。
(この空は、どこかでアメジスタにつながっているから……)
ヴァージンの部屋は、最もエレベーターに近い場所、というよりもエレベーターのドアの前にある。12階で階段を使おうとしたら、ホテルの従業員に止められるほどで、この階で夜を明かす人は一人残らずこの部屋の前にやってくる。
「おなかすいたなぁ……」
食事はホテルに何ヶ所か店があるが、ヴァージンの所持金を考えるとその中でも最も安い場所に毎回向かわなければならないはずだった。しかし、ホテルのパンフレットに載っていた仔牛料理の写真に思わず見とれたヴァージンの関心は、最も高そうな店に向かおうとしていた。
(どうしよう……)
とりあえず、店を見てから考えようと、ヴァージンは部屋のドアを開けた。その時、彼女の目の前に、再びシェターラの姿があった。
「グランフィールドじゃない」
「シェターラ……さん。その恰好で、食堂に行くん……ですか?」
ヴァージンは、言いかけた言葉を時々詰まらせながら、シェターラの姿を見た。彼女は、先程ヴァージンに見せてくれた漆黒のトレーニングウェアとダークブルーのショートパンツに身を包ませていた。シャツもズボンも着ていないシェターラの体つきは、女性とは思えないほどがっしりしていて、さすが何年も陸上選手として鍛えられているだけのことはあった。
シェターラは、まだエレベーターが来ないことを目で確認しながら、ヴァージンに言った。
「食事は、トレーニングの後よ」
「トレーニング……、って、ここはホテルじゃないですか」
「トレーニングルームが、3階にあるのよ。大会が終わるまで、私たちジュニア大会に出る選手のためだけに解放されているの」
「そうなんですか……!」
雑誌「ワールド・ウィメンズ・アスリート」でもたびたび紹介されている、エアロバイクやランニングマシン、ダンベル、ウエイトスタックマシンなどが置かれている、明るさと開放感のあるトレーニングルームは、当然アメジスタにはなかった。それらを目の当たりにできるヴァージンは、突然震えあがった。
「私、これ初めて見ます」
「アメジスタにはないんだ。じゃあ、私と一緒に来てみない?トレーニング姿に着替えるまで、私ここで待っててあげるから」
「ありがとう、シェターラ」
そう言うと、ヴァージンは再び自分の部屋のドアノブに手をかけて、もう一度シェターラの表情を見た。
「……シェターラさん」
「どうしたの?」
「私たち、ライバル……のような……」
「そんなことないよ、グランフィールド。私は、アスリートはみんな友達だと思う」
「友達……」
伸ばしかけた手を、ヴァージンはドアノブから離した。
「たしかに、スタートラインに立ったら、そこは勝負の世界。でも、その勝負の世界に身を置くってことに、変わりはないから」
そう言うと、シェターラは軽く笑ってみせた。ヴァージンには、まだその意味が分からなかった。