第20話 最速を懸けた記録会(3)
その後、全体練習のメニューはあっという間に進み、3時間の初トレーニングを終えたヴァージンは、ミーティングへと向かった。全体ミーティングは、講義の終わった小さめの129教室を使用することが定例で、そこに100人を超える陸上部員たちが一斉に集う。
「グランフィールド、どこに座ってもいいから」
「はい」
メリアムに促されるように、ヴァージンはたまたま空いていた正面向かって右側の前から3列目の席に座った。まだヴァージン以外に新入部員らしき人物は現れていないようで、同じ学年や同じ種目など、これまでの活動で仲良くなった部員たちが思い思いにトレーニングのことや大学生活のことを話していた。
「では、今年度第1回の全体ミーティングを始めます!」
主将のメリアムが前に立ち、大勢の部員たちの顔を一見する。そして、勝負時に見せる真剣な表情を浮かべながら、再び口を開いた。
「今日から新しい部員が入ったということで、この陸上部の活動について簡単に紹介していきます。2年生以上の人は一度聞いていると思うけど、思い出す感じで聞いて下さい」
129教室の中に一斉に「はい」の声が響く。ヴァージンも遅れないように大きな声でメリアムに応えた。
「まず、この陸上部のメインとなる活動が、水曜日の全体練習です。その後のミーティングで、記録会やインカレのこと、そのほか部の行事とかいろいろ決めていくので、水曜日だけは休まずに来て下さい」
(水曜日……と)
ヴァージンは、メモ帳を開いて、メリアムの口にした言葉を書いていく。中等学校卒業後、アカデミーでの授業で多少メモをとることはあったが、ここまで一字一句書き始めたのは、中等学校卒業以来だった。
「ほか、講義期間中は週に2~4回のパート練習があります。さっき集まったリバーサイド練習場は、陸上部の専用グラウンドなので、短距離・中距離・長距離・跳躍はほぼ必ずここに集合します。投擲は別に練習場を用意しますので、パート長の指示に従って下さい」
(なるほど。さっきウッドソンさんが言ってた火曜日・木曜日・土曜日は、パート練習なんですね……)
ヴァージンがメモ帳にメモしながら心の中でうなずくと、メリアムはさらに続けた。
「あとは、陸上部主催で年に6回ほど記録会を開催します。場所は、リバーサイド練習場のときもあるし、レースで使用するようなスタジアムを貸し切ることもあります。この記録会には、近くにある他の大学からも選手がやってきて、私たちイーストブリッジにはいい刺激になったりもします。もちろん、他の大学の記録会に参加しても構いません」
(すごい……。プロの大会でも、春から夏にかけては毎週どこかの国で行われているのに、大学生だけの大会もある……。しかも、大学の陸上部の数だけそれがあるなんて……)
ヴァージンは、メモをとりながら、先程の全体練習で使ったリバーサイド練習場を思い浮かべた。大学に通うライバル限定にはなるが、ここでも勝負ができる、とさえ思った。
だが、ヴァージンがそう思った直後、メリアムは直後にこう続けた。
「でも、記録会を目指してトレーニングするだけではいけない、ということは今まで何人もの先輩が言ってきたと思います。私たちが本当に目指しているのは……」
そう言うと、メリアムは黒板にやや大きな文字でその大会の名前を書き出した。
(オメガ……インカレ……)
ヴァージンは、軽く息を飲み込んだ。オメガ国じゅうの大学が集まるということを、この瞬間に彼女は察した。
「記録会以上に重要な大会。それが、オメガ国じゅうの大学の陸上部が一斉に集まってレースを行う、オメガインカレ。これが11月に開催されます。そして、その上位選手が、世界の大学生を相手に戦う、翌年5月頃のユニバーシティグランプリに出場できるのです。また、春から夏にかけては大学生として一般の大会に出場する部員もいます」
(世界……!)
ヴァージンは、これまで数多くの大会に出てきたが、現役大学生というライバルには何人も出会っている。そういうライバルたちと再び顔を合わせることになる。
「最後に、忘れちゃいけないのが合宿で、2月から3月にかけて長めのものと、8月の世界競技会の後に行われるものもあります。これが、一年の流れになります。今年度も、これでやっていきたいと思います!」
「はい!」
ヴァージンは、まだ右も左も分からないこの陸上部の生活を、ほんの少しの説明でほぼ分かってきたような気がした。アカデミーにいる頃は常に一般の大会を目標にしてきたが、大学の陸上部では大学生だけの大会も視野に入るのだった。
だが、走り書きで書いたメモに再び目を通す時間もなく、メリアムがすぐに次の議題を告げた。
「さて、次は10月の記録会ですが、これはインカレ並に盛大にやりたいと思います」
これには、部員たちから戸惑いの声が上がった。記録会はインカレよりも目立たない大会で、陸上部そのものが主催に回る大会だった。それをインカレ並の規模で行うことは、異例であるようにヴァージンには思えた。
(どんな大会になるんだろう……)
ヴァージンが、どよめく教室内を見渡していると、メリアムが突然立ち上がってチョークで黒板に書いた。
イーストブリッジ大学陸上部 女子5000m最速部員決定戦
(……メリアムさんっ!)
チョークで書き終えたメリアムが、突然ヴァージンのほうを向き、軽くうなずいた。その瞬間、ほぼ全ての部員の顔がヴァージンのほうに向けられた。ヴァージンは思わず右手を高く上げた。
「エントリーします!」
「やっぱり、グランフィールドはすぐに手を上げた!くると思った」
「もちろん、メリアムさんも……ですよね」
「当然。この前は勝ったけど、グランフィールドの本気のスピードを受けてみたいし」
そう言うと、メリアムはゆっくりとヴァージンに近づき、右手を差し出した。ヴァージンは、反射的に右手を差し出し、固い握手を交わす。
「というわけで、記録会だけど、女子5000mの第2組だけは本気勝負ね。部としても、それで今度の記録会を紹介していくから」
「分かりました。メリアムさんには負けません!」
その後、他の部員の記録会のエントリーが決まり、ミーティングはお開きになった。だが、自宅や飲み会に向かう部員たちが部屋から出ていく中、メリアムはヴァージンにその場に残るよう指示した。
(記録会のこと……?)
ヴァージンは、ドアを閉めたメリアムの表情をじっと見る。すると、メリアムはヴァージンにゆっくりと近づいてきた。
「どう?初めてのここの陸上部の生活は?」
「はい、すごく楽しくて、トレーニングのしがいがあって、ワクワクするものでした」
ヴァージンは即答で言った。だが、メリアムはやや首を下に傾けて、うつむき加減で言った。
「でも、なんか他の部員に合わせないといけないから、トップアスリート、ヴァージン・グランフィールドにはすごく申し訳ないような気がして、今日全体練習の中でも考えていた」
「そ……、そんなことないですよ!」
ヴァージンは、メリアムにやや早口でそう答える。だが、メリアムは首を横に振ってため息をついた。
「例えば、さっきやってた、2000mからの800mとか、みんなすごくペース遅かったでしょ」
「……私のペースからしたら、遅かったです」
2000mでも、ラップ73秒ほどのペースで走っている部員がほとんどだった。その中で一緒に走っていたヴァージンの足も、前がなかなか進まないことで徐々に遅いペースになっていたのだった。
「そうでしょ。パート練習もそんな感じだし……、何よりイーストブリッジ大学陸上部最大の問題は、ちゃんと見てくれる指導者がいないこと。今まで自慢できるような成績残していなかったから、無理はないんだけど」
「そうだったんですか……」
ヴァージンの経験してきた中等学校の陸上部と同じような雰囲気で進んでいった練習だったが、唯一違っていたのがそこに顧問や監督といった指導者がいなかったことだった。声出しから指示までほとんど主将メリアムが行っていたのだった。
「だから、グランフィールド。今までのように、セントリック・アカデミーで優秀なコーチに指導を受けているのがすごく羨ましいし、できれば全体練習と合宿以外はアカデミー優先でいいと思う」
「メリアムさん。それじゃ、ここに入った意味がないです……」
「そんなことないって、グランフィールド。同じように、アカデミーに通いながらトレーニングをしている部員は何人もいるんだから。ここはあくまでも、イーストブリッジ大学と陸上選手を両立している人の集まりなんだし!」
「はい」
思い浮かべていた、中等学校までの陸上部とは明らかに異なっている自分のポジションに迷いながらも、ヴァージンは首をまっすぐ振った。
すると、メリアムはヴァージンの肩を軽く叩き、軽くうなずいた。
「グランフィールド。この陸上部は、その走りにかかっているから」
そう言うと、メリアムはすぐに教室のドアへと向かった。ヴァージンもその後を追いかけるように向かう。
ドアを開けると、そこには何人もの部員がまだ待っていた。
「履修のこととか、グランフィールドに教えていたんですね!」
「違うって!ちょっと、あまり言えないことをね」
そう言うメリアムを尻目に、ヴァージンだけは息を飲み込んだ。
(履修登録とか……、あまりよく分からないのはそっちだった……)