第20話 最速を懸けた記録会(2)
ほどなくして、4000mジョグが始まった。ヴァージンは、新入生ということもあり、100人を超える集団の後方からのスタートとなった。
(どれくらいのペースで走るんだろう……)
アカデミーでトレーニングをしているとき、ウォーミングアップのジョグで力を抜いて走っていても、だいたい1000mを3分台前半で走りきってしまうが、この陸上部は未知数だった。ヴァージンは、メリアムを先頭に動き出した集団の足の動きを見た。
(ストライドが小さい……!)
ヴァージンは、ゆったりと感じるどころではなかった。完全にスローペースだった。トラック1周を走るのに、だいたい90秒ほどかかっていて、逆にこれほど遅くトラックを走ることに違和感を覚えたぐらいだ。
誰も、この遅いペースから前に出ようとはしていない。全ての種目の部員たちが、決められたペースを当たり前に走っている。先頭に立って引っ張っている主将メリアムは、レースで見せるようなハイペースのメリアムとは別人で、他の部員も全く疲れを見せていない。
(ウォーミングアップだから、このペースでも十分だけど……、やっぱり物足りない)
そんなことを考えながら、いや、考える余裕すら与えながら、ヴァージンはおよそ15分のジョグを終えた。しかし、ヴァージンは次のメニューを思いだし、すぐに我に返った。
(坂道を上るんだった……!)
すると、そこにウッドソンがゆっくりと近づいてきてヴァージンに声を掛ける。
「そう言えば、グランフィールドは、この坂道を上ったことはあったっけ?」
「一度もありません」
「そっか……。下りてきたときの感触で分かったかも知れないけど、ここは本当に厳しいから無理はすんなよ」
そこまで言うと、ウッドソンはヴァージンの耳元でささやくように言葉を続けた。
「グランフィールドだけにはもう言っておくけど、この坂が嫌で、新入生の半分以上は数回で全体練習に来なくなる。幽霊部員になってしまうんだ」
「そうなんですか……!」
ヴァージンは、驚いた表情を隠しながら言葉を返す。
「俺は、この坂があることによって、極限状態でもパワーを発揮できると思うんだけどさ」
「私もそう思います。できれば、坂がないときと同じくらいのペースで前に進みたいぐらいです」
ヴァージンは、アカデミーのトレーニングでも、砂袋やタイヤなどを足に付けてトラックを回ったことは何度もあった。こんな急坂という場面が数少ないだけであって、それも今の自分なら克服できる。そう思っていた。
数分のインターバルが終わり、一同は坂の下までやってきた。メリアムが上級生から先頭に並ぶように指示し、最後尾に立つヴァージンのもとにゆっくりと近づいてきた。
「10秒ごとに3人、同時にスタートしていくわ。ゴールは坂の上の裏門。そこまで、無理のないペースで走るのよ。私も、グランフィールドの10秒後にゆっくりめに坂を駆け上がるから、私に追い越されないようにしなさい」
「はい!」
先頭の4年生が坂を上り始め、陸上部のメンバーたちが坂道をまるで糸のように飾っていくのを、ヴァージンは見た。それぞれの色のウェアが、抜きつ抜かれつ坂を上っていく。歩いたときの実感で、1000mほどありそうな気はしていたが、先輩たちの駆け上がるスピードを見て、おそらくその距離に間違いはないだろうとヴァージンは確信した。
(私も、早く先輩たちに追いつきたい……!)
スタートから6分ほど経ち、ヴァージンのスタート時間が迫った。3人ずつのグループがヴァージンの前に残り2組。そして、彼女の隣には、腕の筋肉が太い茶髪の2年生の男性部員、マーク・ロックブレイクが待っていた。体つきから考えても、砲丸投げかやり投げといった投擲の選手だろうか。
ヴァージンがロックブレイクのいかつい顔を見ると、ロックブレイクは太い声で言った。
「走りの天才と聞いたが、その実力を見せてもらおうか」
「はい」
異種目からの挑戦状に、ヴァージンは思わず反射的に口を開いた。そして、もう一度ロックブレイクの表情を見て、うなずいた。
(走りは、私の方が上のはず!)
やがて、ヴァージンの前のグループが坂に挑み始めた。そこからの時間を刻み始め、その時計の針が10秒を指した。
「はいっ!」
メリアムの合図のもと、ヴァージンとロックブレイクが同時にスタートを切った。ヴァージンは、タイムトライアルに挑むときのように、ラップ70秒ほどのスピードでスタートを切った。
カーブは全部で8。わずか1000m。その程度なら、自分の持久力で何とかなると思っていた。
(……!)
すぐにヴァージンは、トラックではもちろんのこと、トレイルランニングでも感じたことのない重力を足の裏に感じ始めた。ヴァージンがラスト1周で出しているトップスピードに比べれば比べものにならないほど遅いにもかかわらず、ヴァージンはトップスピードを出しているとき以上の力を出しているように思えた。
ラップ70秒程度という、何度も作り上げてきたはずのスピードでさえ、この勾配の中ではヴァージンの足は躊躇を始める。ストライドがほんのわずかずつ、狭くなってきているように思える。
(たった1000mなのに……!)
これまで経験したことのない上り。ヴァージンは、力を振り絞るように首を横に振り、二つ目のカーブをクリアした。その時、ヴァージンの真横に一度突き放したはずのロックブレイクの体が飛び込んできた。
「お先いっ!」
スタート前と全く変わらない太さの声で、ロックブレイクがヴァージンの横からゆっくりと抜き去っていく。鍛え抜かれた太い足が、瞬く前にヴァージンの目に飛び込んでくる。かなりのスピードで坂を駆け上がるその姿は、1年かけて陸上部のトレーニングで鍛え抜かれた証拠だった。
(こんなはずじゃない……!)
ヴァージンは、一度は緩みかけたスピードを再び上げて、ロックブレイクを追いかける。だが、ロックブレイクはすぐに次の第3カーブをうねるように曲がり、再びギアを上げてヴァージンの視界から見えなくなってしまった。そしてヴァージンがカーブを曲がると、その差はもう数m離れていた。
それどころか、ロックブレイクを見ようとしたその目に、メリアムが迫ってきていることにヴァージンは気が付いた。第4カーブを曲がろうとしたそのとき、もはや彼女との差は10mほどになっていた。
(残りのカーブの数はあと4。そこまで抜かれてはいけない……!)
ヴァージンは目に映るメリアムを睨み付けた。10秒前にスタートした陸上部員を二人追い抜くが、もはや敵はそこではなかった。ハンデをつけられて抜かれることは、これまでの選手生活で一度も許したことがなかった。
第5、第6とヴァージンはカーブを傾くように曲がりながら、坂を駆け上がる。だが、続くアップに、いよいよ足への負担がヴァージンを苦しめる。これだけ鍛え上げた身体をもってしても、苦しい上り坂。第7カーブに差し掛かる頃、ヴァージンはゆっくりではあるがスピードが落ちていくのを感じた。
その背後から、容赦なく迫ってくるメリアム。この坂を3年間駆け上がり続けた、中距離メインの主将の姿がヴァージンの横に影を作った。
(抜かれる……っ!)
その予感がヴァージンの胸に突き刺さる前に、メリアムの力強い足がその横を通り抜けていった。ヴァージンも懸命に食らいつくが、最後の第8カーブで差しきられてしまった。すぐにメリアムが裏門に吸い込まれ、最終的には3秒ほど後れる形でヴァージンは坂への最初の挑戦を終えた。
「負けた……」
ヴァージンは、ガックリと首を垂れながら裏門横の芝生を歩き、呼吸を整える。数秒で首を元に戻すが、その間にウッドソンが近づき、ヴァージンの顔を覗き込む。
「ここは無理するなって言ったじゃん!」
「はい……。でも、なんか悔しいです」
「人間、誰にも得意不得意があるんだからさ、それに……」
「それに……?」
ヴァージンが聞き返すと、ウッドソンはやや考えるしぐさを見せてヴァージンに告げた。
「グランフィールド、今までトレーニングで、坂を使ったメニューをやってないように見える」
「いいえ。肺活量を高めるために、坂道の練習はメニューに入れてきましたが、ここまできつい坂はやっていないです……」
施設自体が平地にあり、ヴァージンどころかセントリック・アカデミーのメンバーはそれほどメニューに坂を取り込んでいるとは言えなかった。集中的に挑むのは、高地トレーニングになるのが主だったが、このレベルの勾配ではなかった。
「じゃあ、坂のトレーニングはここで取り入れて、極限状態に強くなった方がいいよ。ちなみに、君と一緒にスタートしたロックブレイクは、この坂を克服することで、砲丸投げに必要なパワーも生まれてきたって聞くよ」
ウッドソンの青い髪が、優しく駆ける風に揺れる。
「君も、少しずつペースを掴んでいけばいいじゃん。そうしたら、すぐにロックブレイクとか先輩に勝てると思うよ!」
「本当ですか!ますますやる気が出てきました」
「そうこなくっちゃ!」
ヴァージンは、キャンパスの裏門から上ってきた坂を再び見た。その坂は、足が感じたよりもなだらかに見えた。