第20話 最速を懸けた記録会(1)
イーストブリッジ大学入学式から数日後、ヴァージンはサークル紹介も兼ねて陸上部の全体練習に呼ばれた。
(えっと……、リバーサイド練習場……)
小高い丘の上にあるキャンパスの裏門から、長く曲がりくねった坂を下りかけると、突然目の前に広々としたグラウンドが飛び込んできた。雄大に流れる川に沿うようにして、フットボール部用のグラウンド、テニスサークル用のコート、そしてその奥に、本格的な大会も行えそうな陸上競技用トラックがあった。ヴァージンは、その形を見るだけで、皆が集う場所だと確信した。全体練習の時間までまだ30分ほどあったが、ヴァージンの足はそのトラックを見るなり、坂の下の方へと向いていた。
その時、ヴァージンは後ろから軽く肩を叩かれた。ヴァージンは振り向くと、思わず息を飲み込んだ。
「やっぱり、今日ここで会えたね、世界的トップアスリート」
「……っ!」
青い髪を左右に揺らしながら、一人の青年が微笑んだ。その涼しそうな表情は、一度ヴァージンの目にはっきりと焼き付いているものだった。
「覚えてないかい?俺、図書館でいろいろと本の調べ方とか教えたじゃん」
「思い出しました……。あの時は、本当にありがとうございます」
「こちらこそ」
アンドロ・ホレスキンに関する本を調べようと、オメガセントラルの図書館で立ち止まってしまった時、ヴァージンに声を掛けてくれたのが、その青年だった。あの時は、表情と声までしか記憶しなかったが、いまその青年に向けて上から下まで目を動かすと、その足がしっかりと地面を踏みしめており、足の筋肉が相当鍛えられているように見えた。白くて短いトレーニングパンツを身につけた青年は、完全に陸上部の一員だとヴァージンは悟った。
「で、今日は俺たち陸上部の全体練習に行くんだよね?もう入学式の日に入ったとか聞いたし」
「はい。やっぱり陸上部なんですね」
「見た目からして、そうだろ。せっかくだから、俺が場所まで案内してやるよ」
「ありがとうございます!」
ヴァージンは、その青年の横について、坂を下りていく。幾重にも連なるカーブの連続だが、その高低差だけでも80mある。実家の裏庭とも言うべきトレイルランニングのコースよりも遙かに急だ。実際のレースは全く勾配のないところを駆け抜けるヴァージンにとって、ここまで「きつい」坂は見たことがなかった。
「俺の自己紹介、まだだったね」
次のカーブを曲がったところで、青年はゆっくりと口を開いてヴァージンに微笑んだ。
「俺の名前は、マスト・ウッドソン。ここの陸上部の、今年で3年生だよ」
「ウッドソンさん……。ちなみに、どこの種目を専門にしているんですか?」
「110mハードルと400mハードルかな。だから、全体練習じゃないと君とは会えないよ」
「そうなんですか……。種目とかで違ってくるんですね」
ヴァージンの脳裏には、4年前までアメジスタの中等学校で経験してきた、狭い空間での陸上部の生活が蘇っていた。全ての種目が基本的には同じ時間帯で同じメニューの練習を重ねて、その繰り返しだった。だが、ウッドソンは、それとは真逆のことを言い出したのだった。
「そう。君のような長距離専門の選手と、僕みたいな短距離専門の選手が同じメニューでトレーニングしてたら、伸びるものも伸びなくなっちゃうじゃん」
「そうですね」
それは、セントリック・アカデミーでも全く同じことだった。長いことアカデミーでトレーニングを重ねているが、ほとんど他の種目のアカデミー生と一緒にトレーニングしたことはなかった。たまに顔を合わせても、顔も名前も、種目が違うとほとんど覚えていなかった。
ウッドソンは、ヴァージンがうなずくのを見てから、再び口を開いた。
「まず、遅い時間帯の講義が割と少ない水曜日に全体練習がある。これは、短距離、中距離、長距離、跳躍、投擲、全部の部員がまず練習場に顔を合わせるんだ。そして、トラック10周とか、陸上部員として最低限必要なトレーニングを全員でやっていくんだ。あとは、大会がないときの日曜日も、午前中からみんなでここにやってくる。それ以外は、専門によってバラバラだ」
「なるほど……。私のような、長距離専門だと、どういうスケジュールになるんですか」
「そうだね……。たしか、それ以外だと月曜と木曜と土曜にパート練習が入っていたと思うよ。トラックを走り込んで、それからタイムトライアルをやったりとか、走りのフォームとかをメンバー全員で考えていったりすることもあるかな」
そうスラスラ言うウッドソンに、ヴァージンは何度も首を縦に振った。場所やメンバーが違うとは言え、アカデミーでやっていることと似ているようなものだった。
「それが、4限終わってから始まって、だいたい夜の7時8時ぐらいまで続くような感じ。もちろん、ここは学業を犠牲にしてまでトレーニングに参加するとか、そういう場所じゃないから、無理して全部出る必要はないけど……、グランフィールドなら、講義と練習を選ぶとしたら、もう決まっているよね」
「練習のほうが絶対にいいです」
「やっぱり、トップアスリートはそうこなくっちゃ!」
ウッドソンがそう力強く言うと、二人の視界に最後のカーブが飛び込んできた。途中から話していたのであまり感じることはなかったが、ヴァージンはいま通ってきたこの坂も絶対に駆け上がりたいと心に誓った。
「全体練習を始める前に、今年度最初の新入部員を紹介します」
ヴァージンがグラウンドにゆっくりと足を踏み入れると、主将のメリアムが声を掛ける。すると、ストレッチをしていた多くの部員が手を止めてその周りに集まってきた。部員と言っても、100人は軽く超えるような人数で、ヴァージンは軽く息を飲み込んだ。
だが、その緊張感は、レース直前のような緊張感とは完全に別次元のものだった。
「ヴァージン・グランフィールド。今年イーストブリッジ大学に入学した、長距離パートの女子です。では、名前と得意種目、趣味や特技を説明して下さい」
メリアムの手招きに合わせて、ヴァージンはゆっくりと前に出る。
「はじめまして、ヴァージン・グランフィールドと言います。得意種目は5000mです。趣味は……、走ることです!この春、この大学に入学して、右も左も分かりませんが、陸上部のみんなと一生懸命トレーニングが出来たらと思います!」
ヴァージンは、部員たちに向かって頭を下げた。その瞬間に、次々と声が響いた。
「もしかして、君があの……、5000mの世界記録を塗り替えてる!」
「本当かっ……!それ、うちの大学は最強のカードを手に入れたじゃん!」
「世界記録の実力、期待してるからな!」
そう言った声に、ヴァージンはひとつひとつ丁寧に頭を下げる。その間にも、ヴァージンの耳には数多くの拍手が寄せられる。
「とりあえず、今日はグランフィールドにも全体練習に参加して、実際に陸上部を体験してもらいましょう」
ヴァージンはメリアムに練習場のロッカールームまで案内された。最近改修されたのか、大学の設備だというのにレースで使用するロッカールームよりも真新しく見えて、ヴァージンはかえって面食らった。
「きれいすぎます」
「ありがとう。ロッカーが汚いとか言って、逃げていった女子部員が多かったから、何とかしなきゃと思ったの。で、グランフィールドのロッカーはここ」
メリアムはそう言ってヴァージンに微笑んだ。ヴァージンは、いつでもトレーニングできるよう、既にインナーにトレーニングシャツを着ていたので、ここではオリエンテーション用の冊子などをロッカーに入れて、すぐに部員たちに合流した。
「では、今週の全体練習を始めます」
メリアムの声に続いて、部員全員の口から「はいっ!」と力強く声が上がった。言うタイミングの掴めないはずのヴァージンも、ここはほとんど後れを取らずに叫んだ。
「今日は、夏の合宿明けで久しぶりのトレーニングですので、大学のある期間中の感覚を取り戻すということを目標に、いつものメニューでトレーニングをします。もちろん、新入部員グランフィールドにも、思う存分陸上部の雰囲気を味わってもらえるよう、真面目に、そして楽しくトレーニングをしていきましょう!」
「はい!」
今度はヴァージンも後れを取らずにそう言うと、メリアムはマネージャーを呼び、なにやら手引きのようなものを見せた。
「あの……、メリアムさん。これは、何でしょうか?」
「これ?水曜日の全体練習のメニュー」
・4000mジョグ
・体育館へのヒルクライミング
・室内ウェイトトレーニング
以下跳躍・投擲は別メニュー
・800mラン✕3(インターバル4分)
・2000m+800m+1000m+200m(各インターバル5分)
(中等学校の頃と全然違う……。まるでアカデミーでやっているようなメニューみたい)
ヴァージンは、その練習メニューを見た瞬間にどう力を調節していいかを思いついていた。